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近くを旅する

 コロナ禍で長距離の移動が制限されたことがきっかけで、近くを旅行することにハマっています。
 近くを旅することの何が良いって、移動時間が短いことですよね。さっと行けて、さっと帰ってこられる。知った土地だから無理に観光地なんか巡らずに、早目に宿にチェックインしてゆっくり本を読む。「ああ、贅沢してるなあ」って気分になります。

 私は岡山市に住んでいるのですが、去年から今年にかけて、①久米南町と鏡野町 ②高梁 ③牛窓 ④児島 に旅行してきました。近場といえどあくまで旅なので、普段暮らす町とは異なる情緒が欲しいです。そういう意味で、上記の四箇所はどこも良い旅先でした。
 今日は今回訪れた ④児島 についてお話しさせていただきます。あまり参考にはならないと思いますが、なにか一つでも楽しんでいただけたら幸いです。また、同じような「近場旅人」がひとりでも増えたら最高です。

児島旅行記

 土曜日の12時を過ぎたところで、ようやく重い腰を上げて児島へ向かう。およそ旅行の出発時刻では無いが、それが近場旅のいいところだ。天気良好。1時間弱で児島に到着する。

 児島には何度も行っているが、宿泊するのは今回が初めてだ。
 瀬戸大橋の付け根に位置する児島地域は古くから繊維業が盛んで、日本でのジーンズ発祥の地として知られ、「児島ジーンズストリート」には沢山のショップが軒を連ねている。また、その古さゆえか、なぜか全国ニュースでしばしば取り上げられる「鷲羽山ハイランド」もある。
 しかし、近場旅に著名な観光地は不要である。まずはお昼を食べにカフェ「イーハトーヴ」に入る。

 イーハトーヴ(イーハトーブ)は宮沢賢治による造語で、彼の心象世界の理想郷を指すことばだ。カフェ「イーハトーブ」の店内も、大きな木のテーブルやステンドグラスのライトが置かれた、心落ち着く空間が広がっている。
 ここの名物はシナモンの香りが効いた「夢カレー」なのだが、生憎この日は売り切れていたため、ケーキセットを注文する。持ってきたブローティガンの『西瓜糖の日々』を読みながら、ゆっくり珈琲とチーズケーキをいただく。美味。


 集中し『西瓜糖の日々』を読み終える。藤本和子さんの訳は流石だ。内容はさっぱり分からないが、文章が音として気持ちよく入ってくる。店で静かにかかっていたクラシックも良かったのかもしれない。余談だが、私は周囲の音が気になるタイプで、大きい音や機械音が気になると読書に集中できない。面倒なことである。

 チェックインまでは時間があるので、少し離れた「aru.(アル)」という本屋さんに行く。海に面した絶好のロケーションにある民家を改築した本屋さんで、店内には新刊本や古本がお洒落に陳列され、コーヒーなども販売されている。いわゆる「独立系本屋」というやつだ。普段ならその煌びやかさにたじろく私だが、本のためならたとえ火の中水の中。貪欲に本の背表紙を眺める。
 冊数は少ないが、村上春樹や串田孫一など、私の好きな本も幾つかあったが、これという一冊は見つけられず、そのまま店を後にする。


 本屋を後にして本日の宿泊地、ペンション「てふてふ」にチェックインする。一人旅で申し訳ない限りなのだが、心よく泊めて下さった。有難いことだ。

 部屋で持ってきた百年文庫『賭』を読む。スティーブンスン、エインズワース、マーク・トウェインという錚々たる面子である。マーク・トウェインの『百万ポンド紙幣』は、「もし無一文の貧乏人に巨額紙幣を与えたらどうなるか」という、金持ちの酔狂な賭けに巻き込まれた青年の話である。私が青年の立場ならどうするだろう。「あんたたちの玩具にされるのは御免さ。俺は金より自由を選ぶ」と啖呵を切りたいところだが、あまり自信はない。
 三作とも秀逸な作品だ。短い話なので、さくっと読み終える。

 しばらくしてお風呂をいただく。ハーブが売りの宿ということで、浴槽にはハーブのブーケが入っている。ペパーミントの爽やかな香りが心地よい。漢方系のいわゆる薬草風呂も好きだけれど、こちらもいいものだ。香りを楽しみながらゆっくりと湯に浸かり、身体の芯まで温まった。

 夕食にも沢山のハーブが。他にも多くの野菜や果物を育てておられるとのことで、ブルーベリーのカクテルや、花とハーブのサラダなど、見た目にも鮮やかな料理をいただく。「美味しいものを食べて風呂に入ればオールオーケイ」というのが私の旅哲学なのだが、今回の旅もこの説を裏付ける結果になったと言えよう。

 夕食後もしばらく読書。グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』を読む。ゴーレムと聞くとどうしてもドラクエのアレを想像してしまって難儀したが、読み進めるうちに少しずつ物語の奇怪な世界に自分が取り込まれていくのを感じる。私の周りの空気がだんだん薄くなって、私は「わたし」が暮らすゲットーに移行してゆく。やがてその境目と私の意識がぐにゃりと歪んで、出し抜けに眠りがやってくる。眠りは薄くて大きな布のように私をゆっくりと包み込み、私の意識を閉じ込める。私は暗いゲットーで眠りにつく。何か夢を見たような気がするが、よく覚えていない。

 目が覚めると部屋にはもう朝陽が射し込んでいる。私は点いたままになっていた読書灯を消して、朝食前に身支度をする。
 朝食も勿論ハーブ尽くしだ。中でもハーブを練り込んだパンが絶品である。食事をしながら宿の奥様と少し話をする。普段は人見知りの激しい私だが、こういう場面では意外とまともに話せたりする。なぜだろう。
 チェックアウトの際に、お土産のハンカチをいただいた。大きなホテルは便利で快適だけれど、こういうことがあるから小さな宿に泊まることはやめられない。
 有難うございました。大事に使います。また泊まりに来ます。

 さすがに全く観光しないのも寂しいので、近くの本荘八幡宮を参拝する。ここには室町初期に建てられた石鳥居があり、国の重要文化財に指定されている。正面の鳥居は左右に柱が二本立っているだけで、柱の間の貫が無い。なるほど室町時代の鳥居は貫がないのかと独りごち、柱に彫られた「文政十二」がいつなのかをスマホで調べると、1829年とある。はてと思い、その辺りをうろうろすると、果たして目的の鳥居は裏手にあった。危うく仁和寺の法師になるところだった。あぶないあぶない。

 八幡宮の近くに瀬戸内海を一望できる展望所があるとのことで、もう少し歩くことにする。
 大小の船がゆっくりと行き交う穏やかな海を見ながら歩いていると、白煙を吐く赤と白の高層煙突の群れが、出し抜けに現れる。水島コンビナートだ。石油精製、鉄鋼、自動車生産など、220を超える事業所が立地する水島コンビナートは、岡山県の製造品出荷額の実に半分を占める、巨大な工業地帯だ。
 波のない穏やかな瀬戸内海の静けさと、もくもくと煙を吐くコンビナートの生命力の対比が、私に不思議な感覚を呼び起こす。この2つの異世界が隣接して存在するのなら、『ゴーレム』の物語と繋がる扉も、その辺りにあるのではないかと、馬鹿気た妄想をしてみたりする。

 昼前だったが、夕朝としっかり食事をとったので、あまり腹は減っていない。いくつかの店を冷やかしてから、岡山市に帰る。(終)


 どうでしたか?

 遠方を旅することも楽しいですが、短い時間で楽しめる近くの旅もまた良いものです。私にとって旅とは、名所旧跡を巡ることではなくて、生活圏から離れた場所の空気を吸うことであり、そこにいる人たちの暮らしに触れることなのだと思います。

 細かくプランなんか立てないで、とりあえず宿だけ決めて、後はなすがまま。美味しいものを食べて、お風呂に入って、ゆっくりと清浄な布団で眠る。一人旅を許す環境にある方、たまには気ままな「近くの旅」はいかがですか?


※ 旅先でお世話になった場所のリンクです。
  皆さまも児島においでの際はぜひ。

・カフェ  「イーハトーブ
・本屋   「aru.
・ペンション「てふてふ