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『タイムスリップ』

 彼は、月曜日から金曜日まで忙しさに殺されるところだった。

 仕事の内容といえば、彼の部署の作業員に仕事を振り分け必要なものを準備し、なるべく流れを止めないようにするというものだった。

 彼は役職を与えられていないのに、役職者よりも頼られてんやわんやになっていた。

 時に苛立ち、トイレに行くと言ってスマホをイジってサボる。そんな感じでなんとかバランスを保とうとしていた。

「中田さん。アタシもう上がるんですけど、明日の朝の仕事ください。」

 いつもそう言ってくる作業員が、中田にとっては負担だった。今どうするのかを考え続けている中田にとっては、なぜ明日の朝の仕事にまで労力を割かなければいけないのかと、考え方の違いが原因だった。

「明日のことは明日考えます。今はやる事がありますね?用意しておきますから。」

 用意する気はないが、そういってたしなめる。

 肉体的にも精神的にも、金曜日になればとても疲れている。このまま土日を迎えても疲れすぎて休めない。そんな時、中田はふと「温泉に行きたい」という思いが湧いた。

(温泉行って、ボケーッとして自分を労うかぁ…。)

 そう思い、職場から出ると空はまだら模様のグレーに染まり、雑巾を絞ったような雨が降っていて、傘も車の中に置いてあった。

(マジかよ…。)

 そうつぶやくと、彼は数時間前の過去へとタイムスリップした。

(やべ、家の窓開けっ放してるわ…。)

 彼の住んでいるアパートの小窓は、換気のためにたいてい開けてあるが、運悪く今日も開け放っていた。

 すると彼は過去のタイムスリップから、今この瞬間に戻ってきた。

(確かに窓は空いている。雨も降っているから、カーテンが濡れるか雨が入ってくるだろう。だが、今は何がしたい?)

 そう自分に問いかけると、揺るぎない返事が帰ってきた。

《温泉に入りたい》

 彼は深めに帽子をかぶり直すと、アスファルトの上で行き場を失った水滴たちを散りばめながら車へと急いだ。

 職場から近くの温泉までは車で10分もしない。地元民に愛されている温泉だ。

 車が動き始めると、ワイパーが右へ左へと、まるでここ一週間の彼のようにせわしなく動いて、安全に導こうとする。

 すると、幸運にも温泉が近づくにつれ雨足が弱まってきた。次第に右へ左へとせわしなく動く彼もゆっくりと、そして終いには休むことができた。

 整備された森の中に佇む目的地の温泉は、平日の夕方ではあるが、なかなかの賑わいを見せていた。

 奥の方に車を止め、タオルも持たずに入館すると、入り口に大きな看板が立て掛けられていた。

(平日入館料300円?)

 どうやら、割引キャンペーンが行われていたようで、平日だけ入館料が安くなっているらしい。

(こりゃラッキーだ)

 受付でタオルを購入すると、早速男湯へ向かう。温泉がどれだけ楽しみなのかが歩幅に現れていた。

 111番のロッカーに着ていたものを預けかけ湯をすると、手早く全身をきれいにして露天風呂に向かう。

 彼は温泉に行くと必ずやる事があった。それは、露天風呂に入っている間、周りの音を聞き、風やお湯の動きを感じ、空気の味を楽しむ。

 遠くから聞こえる車の音、風で松の葉や木々が擦れる音、他の人の会話や空調機の音。

 シャンプーの香りや、ほのかに香る排気ガスのようなニオイ、そしてそれらを際立たせる匂いのないニオイ。

 ちょうどいい温度の温泉が左右に体を揺れ動かす水の流れや、浴槽の硬さ、時折吹き抜ける火照った体を冷ます冷たい風。

 空気を味わうと、砂糖を口に含んだような甘さがある。

 彼の視線は、一点を見ているようで見ていない。このボケーッとする時間がとても好きだった。

 どれくらいの時間が経っただろう。のぼせる前に露天風呂を後にすると、汗を流して温泉をあとにする。

 その帰り道、彼はこう思った。

(未来も過去も曖昧なら、確かなことって今しかないかもしれないな。)

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