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『ある男の物語 -Part1-』

 その男は、代わり映えのない毎日を静かに過ごしていた。

 朝起きてまず家の観葉植物たちに水をやり、簡単な食事を作ると、唯一の家族であるミニチュア・ピンシャーと共に朝食を食べる。

 食後にコーヒーを飲みながら新聞を読み、世間の情報に触れることを大切にしている彼の職場は、自宅から3ブロック離れたところにあり簡単な運動にもなっていた。

 彼が身支度を整えると玄関のそばで、見送ってくれるその子がいた。

 頭をなでながら「行ってくるよ」そう優しく話しかけ、ちょこんと座るその子に少し後ろ髪を引かれながらもいつもの職場へと向かった。

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 彼の仕事は、相談業だった。毎日たくさんの人の話を聞き、解決策を考えたり書類を作る仕事で、時には無謀だと思えるような要望を提示されたり、理不尽な怒りをぶつけられたりもした。

 しかし、彼は話を聞くことで相手が本当に大切にしているものがわかったり、何が問題なのか知ることで解決策を提案できる自分や、自分の提案が相手の要望に応えられた結果、満足そうに帰っていく笑顔をみると、とても幸せを感じていたし、今の仕事が大好きだった。

 毎晩、書類をまとめ終わる頃にはすっかり夜が遅くなってしまう。

 家で帰りを待っているあの子を早く抱きしめて、一緒にご飯を食べてソファーでTVをみる。そんな時間がたまらなく愛おしかった。


 そんな生活を、毎日繰り返しているだけだが、彼はココロの底から幸せを感じていた。

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 彼の名前は、フィル。歳は、今年で43になる。

 両親はすでに他界し、フィルとミニチュア・ピンシャーのラッキーのふたりで小さなアパートに住んでいる。

フィルには、特に代わり映えのない毎日でもある楽しみを持っていた。

それは毎晩寝るときに、ある“夢”を見ることだった。

その“夢”とは、とても面白いものだった。

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 始まりはいつも、まぶしさのあまり目を覚ますところから始まった。

 目がくらむほど眩しい真っ白い世界に、真っ白い服を着て裸足で立っている自分がいる。

 だが、白い服から覗く手足を見ると、どうも現実の自分には思えないようなゴツゴツした体をしていて、顔を触ってみても現実の自分よりも鼻が大きく彫りも深い。

 鏡が無いので見たことはないが、おそらく現実の自分と同じではないだろうし人種も違うように思えた。

 だが、フィルにはそれが自分とわかっていたし、夢だとも気づいていた。

 いつもの夢の始まりの場所から真っ白い世界を見渡しても、周りには人はいなかった。

 少しして目が慣れてくると、遠くの方にひときわ明るい場所があって、その光に向かって歩いていく。

 すると、あのヒトが立っていた。

 フィルが近づくと「おかえりなさい」そう微笑みながら、とても優しく声をかけてくれるこのヒトがとても好きだった。

「今回は、どこに行きますか?」

 そう尋ねられると、いつの間にか目の前には色とりどりのドアが横一列にずらーっと並んでいた。

「前回は散々でした…。もう二度とあの扉には入りたくないですね。一体誰があんな扉を…。」

 確かあの時は、黒い扉に入ったんだっけ…。

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 それは、数日前の夢のことだった。

 真っ白な世界に、ひときわ存在感を放つ真っ黒な扉に興味を持った自分はその人に黒い扉に入ることを告げると、ドアの前へと進んだ。

 いつもこの瞬間がドキドキする。

 少しひんやりとしたドアノブに手をかける。ゆっくりとノブを回し、そっとドアをあけると、そこには見たこともない風景が広がっていた。

 スーツ姿でせわしなく人が動いている。ここはおそらく仕事場だろう。

 見たこともない人々の顔立ちにいささか戸惑っていると、後ろから誰かが乱暴にぶつかった。

「突っ立ってないで仕事しなさいよ!」

 振り返ると、そこにはものすごい剣幕の女性がコチラを見ながら声を荒げていた。

「はっ、はい」

 とっさに口から出たのは、聞いたこともない言葉だった。

(仕事しないと…)

(自分の場所は…。ココだ)

 この夢の面白い所は、知らない世界なのに自分がどんな人で、どんなことをしていて、どうすればいいのかが全てわかるのだ。

 いざ、自分の場所に座って仕事を進めてみるが現実の自分のようには捗らない。

 時折、さっき後ろの方からぶつかってきた女性がまだ終わらないのか、と催促の声が聞こえてくる。

 彼女におびえながらも仕事をこなし、彼女の元へ書類を届けるも帰ってきたコトバは、とても攻撃的なものだった。

「ったく・・・!何度言ったらわかるのよ!こんな簡単な仕事もできないで、よく今まで生きてこれたわね!アンタの代わりなんか掃いて捨てるほどいるのよ!?」

 彼女の気迫に、思わず肩をすぼめて萎縮してしまった。

「ほんっとに不快なヤツ!早く残りの仕事さっさと片付けて帰ってちょうだい!」

 何だろう…この感覚…。今まで感じたことのない感覚だ…。とっても嫌な感じがする…。なんだか、このまま消えてなくなりたい。そう思ってしまうような、嫌な感覚だ…。

 うなだれながら、よくわからない初めての感覚に戸惑いつつ、自分の席に戻って仕事を始める。

 ただ、今度はさっきと違って彼女に言われたコトバが、まるで壊れたテープレコーダーみたいに頭の中で延々と繰り返される。

 そして、その度に感じたことのない感覚は大きくなっていく。

 終業を告げるチャイムが鳴り響くと、この地獄から解放されたような気がした。

 さぁ、家に帰ろう。この扉の住人は果たしてどんな所に帰るんだろう。

 期待と不安を抱きつつ、家に向かってみると閑静な住宅街に足が向かいていた。

 角を曲がり、大きめの家が立ち並ぶ一角にやってくると、一軒の家の前で足が止まった。ココが自分の家らしい。

(ずいぶん良い所に住んでいるんだなぁ)

 鍵を開けてみると、人の気配はあるものの特に反応はない。

「ただいまー」

・・・ ・・・ ・・・。

 聞こえていないのかもしれないと、もう一度言ってみたものの反応がなかった。とりあえず、家族がいるかもしれないリビングへといってみる。

「マジうるせーな…。」

 自分と同じ年くらいの女性にボソっと言われた。

 また、あの時の感覚だ…。仕事の時に感じたあの感覚…。現実では感じたことのない、あまりに強い不快な感覚に食欲がわかず、お風呂を早々と済ませベッドに向かうとすぐに眠り込んでしまった。

前回は、ココで終わったんだっけ…。久しぶりに、嫌な夢を見たなぁ。

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「今回は、どの扉にしますか?」

 そのコトバで、ふと我に返る。

「あぁ、そうでしたね。今回は、あの赤い扉でお願いします。」

 今回の夢で選んだのは、暗い赤の扉だった。赤の扉の前に来ると、ひときわ鼓動が強くなるのを感じた。

 思わず息をのみこんで、ドアノブに手をかける。

 その扉の向こう側は、彼が想像する以上に大変な世界だった。

続く。

※この記事に出てくる人物や団体等は空想であり、実際のモノとは一切関係ありません。


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