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十戒と愛の戒めの関係

神を愛すること=十戒の前半を含む
人を愛すること=十戒の後半以降を含む

十戒は禁止法ですが、愛の掟は禁止法+推進法で、愛さない不作為の罪も含まれます。

神と隣人を愛する人は十戒も自動的に守ったことになりますが、十戒に反したら神も人も愛することにはなりません。

裁かず愛したいですね。

後大事だと思うのは、十戒を全部完璧に守っても、愛の掟を守ったことには必ずしもならないことですね。愛は律法を全うしますが、律法を全部守ってもなお愛さない罪を犯すことは可能です。十戒を幼い頃から守ってきた金持ちの青年に、イエス様が求めたのは愛の掟の遵守でしたが青年は諦めて去りました。

愛の掟も、十戒も、神が人に与える掟は、神が人に守りなさいとおっしゃっているのですが、それを守るか守らないかは、神は人の自由意志に委ねておられると信じます。つまり、守る自由も守らない自由も神は人に与えられたのです。掟を嫌々ながらでも無理やりでもなく自分から進んで喜んで守るのが愛です。

十戒も、あれはしてはいけない、これもしてはいけないと、やってはいけないことだけに注意を集中させていては決して守れないと思います。イエス様が父なる神様と隣人を愛したように、イエス様に倣って神と人を愛そうとする時に、気づいたら自然と十戒も守れていた。そういうものだと僕は信じています。

戒めの存在目的や効用を「自分の自由を制限し、束縛、拘束する牢獄」と捉えるか「神様と隣人との関係を破壊しないように守るためのガードレール」のように捉えるかの自分の態度の違いが重要だと思います。それは神の愛への信頼の違いを反映します。神が人を憎んで戒めを与えたのか、愛して与えたのか。

神が人に戒めを与える時、人を憎んでいじめてやりたいから、人に制限を与えて苦しめたいからだと受け取ると、神が人を愛していると信頼することはできません。神が人を愛すると信頼できるなら、戒めについても神が自分を愛し守りたいからこそ、何か理由があって与えられたのだと信頼できると思います。

なので、戒めについて考えるよりも、戒めを与えられた神と自分との関係が、今現在どういう関係にあるのかが大事だと思います。神が自分を無条件に無制限に愛してくださっているという信頼関係が今現在構築できているかどうか。構築できていないなら、なぜか。構築したいのか。どうすれば構築できるか。

神は人の目に見えません。得体の知れない存在です。得体の知れない存在が自分を拘束してくると考えたら信頼もなにもありません。神の掟に向き合う時、その掟を与えた神について知らないなら、掟にも否定的にしか向き合えないと思います。自分の知らない相手にいきなり拘束されるように感じるからです。

見えない神を知る方法が一つあります。神は愛です。神の愛を完全に実践して見せた人が歴史上1人だけいます。神の子が人としてこの地上に来られました。その方がイエス・キリストです。イエス・キリストは神の愛について教え、神の愛を生き方を通して実践し、十字架での死と復活を通して示されました。

イエス・キリストが自分のために愛を教え、生き様と死に様と復活を通して、愛を示してくれ、それが神の自分に対する愛だったということを受け入れた人は、神に無関心ではいられなくなります。神をもう得体の知れない存在として扱わなくなります。神の養子となることを受け入れ神を父として信頼します。

神が自分に与えた戒めの意味は、神と自分との関係がどういう関係かによって大きく変わります。イエス・キリストの十字架と復活を自分のための神の愛だと信じ、神との愛の信頼関係を構築した人にとっては、神の戒めは神の愛として感じられ、進んで喜んで守りたいものとして感じられるものだと信じます。

写真:SHAWSHANK66

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