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事実を知るためのプロセス

泥沼にはまってしまって、抜けることができなくなることを、考え続ける日がある。

昨年ベストセラーになった『ファクト・フルネス』という本では、高学歴な人ほど、世界は悪くなっているという10の思い込みに囚われる傾向にあるといい、その思い込みから解放されるために、様々な機関が統計をとったものの見方を紹介している。
それによると、世界は少しずつではあるが、良い方向に進んでいる、という。

幼少期から社会科が苦手で、本書に掲載されているようなグラフやデータを読み解くことが困難な私としては、先入観や固定観念を捨てたものの見方という点は面白かったのだが、果たして既に得られたデータというその証拠だけで、10の項目は単なる思い込みであって、本当に世界は良くなっていると決定付けることができるのだろうかと疑ってしまった。

私は世界のものごとを包括して見てみると、ある面では良くなっているが、ある面では悪くなっていて、結局プラスマイナスゼロで、良くも悪くもなっていないのではないかと感じる。

私が会社で構造物の設計をしていたとき、様々な分野の有識者・研究者の方を呼んで意見を伺うことがあった。
それは、私たちがものを造るときに、どうしても既に知っているある面でしかものごとを判断できない傾向にあるため、新しい視点でものごとを見るために実施していた。
氷山の一角だけを見てものごとを決めるのではなく、氷山の全容を知るためには、色んな方向から見てみなくてはならない。
そうすると不思議なことに、分野は全く異なるのに結論がまれに合致するものがある。

この世界に存在している多くのものごとは、人が完全に断定できるような正解も不正解もないのだと思うけれど、それでも正解に限りなく近いことは、見方と、答えをつなげるためのプロセスを変えてみても、多分同じ結果が得られるのではないかと思う。

研究者の方の仕事を見ていると、あくまでも私の目線であるが、多くの場合二つに分類できる。
一つ目は、先に結果ありきで、その結果につながっていくように実験の手法を考えてゆくもの。
二つ目は、進めたい実験の手法が先にありきで、その段取りから結果も既に想定しているもの。
つまり、研究者の方の仕事は大方、ゴール(結果)が先に定まっているのだ。

そうすると、私のような素人が『ファクト・フルネス』に書かれている様な統計等のデータを読み取ろうとする場合、そのデータを集計することで得たかった結果は何であるのかを適切に理解し、自分が得たい情報と合致するのかということを知らなければならないということになる。

ご自身の研究分野に留まらず、その結果が地球規模の話へとつながってゆくのがすごいな、と私が感じる方が、生物学者の福岡伸一さんだ。
福岡伸一さんの著書『生物と無生物のあいだ』では、福岡さんがニューヨークで研究されたことが書かれている。その中で、福岡さんが得たかったものが得られなかった結果から展開されている話がとても面白い。

遺伝子は螺旋構造の文字列になっている。その遺伝子の中の文字の一つを欠損させたネズミ(ノックアウトマウス)を繁殖させて、身体の変化を調査していたところ、必ず身体に異常が出る結果になるものと想定して実験を進めていたのに、なぜか身体に全く異常が出なかったという。
ところが、その文字を丸ごと欠損させるのではなく、その文字の中の一部を欠損させたところ、あっという間にネズミの身体に異常が出たそうだ。

生命は『物質の流れ』であり、生物は自身の身体を絶え間なく破壊し再構築させていて、文字の一つを丸々欠損させた場合は、それを特定することができ、別のもので補う力が発揮されるという。
しかし、その文字のどこかの部分のみを欠損させた場合は、どこに異常が出たのか判断することができず、破壊と再構築の生命の流れが途端に狂いだすため、身体に異常が出るのではないかと福岡さんはいう。
それは、全ての地球上の生命体や地球環境にも通じるそうだ。

目視で気付かずにいつの間にか壊されたもの、例えばそれは人の心や身体、地球のどこかの侵食もあるだろう。
それがいつか世界の事実になる可能性はないだろうか、と感じたりする。そして、それは目に見える数やグラフとしては表現できるものではないと思う。

つい先日、図書館で予約して相当長い時間待ち続けて『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読むことができた。
今年の夏には、本書の文庫版まで発売されたので、心の奥底から「ユー、もう諦めてそれ買っちゃいなよ」と声が聞こえたが、もう数年待ち続けているのにここで引き下がる訳にはいかぬ、と強情に粘ってようやく念願が叶った。

本書は、日本人であるブレイディみかこさん(以下『母ちゃん』)と、アイルランド人である夫との間に生まれた息子さん(以下『ぼく』)がイギリスの中学校で体験した出来事を、『母ちゃん』の目線から一緒に考え、乗り越え、共に成長してゆく実話である。
ポップで素敵に感じる表題は、白色人種の多い中学校に通うことを決めた『ぼく』が、自身も人種差別を受けることになるかもしれないと不安になり小学校の宿題のノートに走り書きした言葉だ。
『母ちゃん』と『ぼく』は、中学校というちっぽけな世界に見える中で繰り広げられる、人種差別、貧困、犯罪、性の問題等に一つ一つ真剣に向き合ってゆく。

この本を一躍有名にしたのは、『エンパシー』という言葉だそうだ。エンパシーとは、『他者の感情や経験などを理解する能力』のことで、『ぼく』は学校のテストでその意味を問う問題が出題された際、それを『他者の靴を履く』ことだと表現する。
世界の事実を知る最も重要なプロセスの一つは、身近で起きている出来事に耳をすまして『他者の靴を履く』努力をし続けることにあるのではないだろうか。

多様性はいいことだと学校で習った『ぼく』に『母ちゃん』はこう言う。
『多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃない方が楽よ』と。
だけど、『母ちゃん』は楽をしてはいけないという。
なぜなら『楽ばっかりしていると、無知になるから』だと。

最後に自分の世界のことをちょっぴり理解して成長した『ぼく』が、『母ちゃん』に、今の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーンかな』という場面がとてもすがすがしい。

私は安易に手に入れられる情報に流されて、自分自身で直接事実を知ろうとする努力を忘れていたことに気付かされた。

(了)

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本記事を書くにあたって、参考にした書籍は以下のとおりです。


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