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生きものとしてのまち

大学4年生のとき、私は、土木工学を専攻し、卒論を書くために研究室に所属していた。
その研究室では、河川構造物の研究を行っていたのだが、同じくそこに所属するインドから留学していた院生(名はシンさんといった)から「どうして日本はどこも同じ景色で面白くないのか」と聞かれたことがある。

私が今まで行ったことのある“まち”を思い出してみても、確かにどこも似た様な感じだ。
同じ様な“まちなみ”である理由を聞かれても、土木を学び始めたばかりのひよっこには、的確な解答はできず「そんなら、シンさん、日本に来ちゃダメだよ。川だってさ、インドとは全然違ってちっぽけでしょ。ここで勉強したダムとかさ、堰とか役に立ちやしないよ」と、奥さんと子どもを連れてはるばる来日した、一回り近くも年上のシンさんにそんなことを言ってしまった。

よくよくシンさんに話を聞いてみると、日本の家屋や店はどこも似た様な感じで、どこに行っても一緒だけど、インドはもっと“まちなみ”に多様性があるという。それは、その場所にあった特有のものであるそうだ。
だけど、シンさんは母国には戻らない予定だと言った。
日本はシンさんとその家族にとってとても暮らし易く、博士号をとった後は、日本でそのまま就職することを考えていた。
今頃は日本のどこかの建設業界で、シンさんは活躍されているに違いないと思う。

確かに日本は、余所の国にはないくらいインフラが整備されていて、衛生状態もとても良いし、豊かで生活に不便さを感じることは全くない。
ただ、国道はどこも同じ様な看板や店が建ち並び、民家も同様に画一化されたものが多い。
ラスベガス(実際に見たことはないが)に近いのかもしれない。

そのときは、日本がどこでも同じ様に見える理由が分からなかったのだが、大学を卒業し、河川構造物の建設や改築等をする会社に入って、現場に直に触れるようになると、段々、日本の“まち”自体がどこも新しいのだということに気付いた。

私が社会に出て改築工事を担当したものは、いずれも、戦後にできた新しいものだった。
ただ、新しいと言っても、コンクリート構造物は概ね三十年に一度は大掛かりな改築工事が必要とされていて、私が担当していた河川内の鋼やコンクリートの構造物となると、水没したり、水位が下がって乾燥したりを繰り返す悪条件下の環境であるため、劣化の状態は特にひどい。
しかし、“まち”にある様々な構造物は、戦後の復興や、高度経済成長期に作られたものが多く、戦争の影響が大きかったのだということを感じはするものの、あっという間に復興することのできる、日本人の“まちづくり”にかける活力の凄まじさを感じるのだ。

“まち”に新たな機能(例えばダムや交通網等)を持たせるために作られた構造物が、長く将来にわたって必要とされるかというと、必ずしもそうではないことを知ったのはやはり社会人になってからだ。

私が大学生のときに、河川構造物と魚を共生させる方法を研究していた年配の先生が、ダムの講義中、「これからは、ダムを造る技術よりも、壊す技術の方が必要とされるようになると思う」と言っていた。
そのときの私は、ものを新たに作ることにしか興味がなく、先生の言ったことに内心、反発していた。

しかし、実際に私が農業用水を送るための施設の改築工事にあたった際、それが造られた三十年程前と人の生活の形態が大きく変わってしまった地域や、現在の災害を防ぐことのできるレベルに到達できていない施設もあり、改築は部分的な撤去や新築を繰り返し、難航したのだった。

その構造物が造られた過去の時点において、未来の予想はついていない。
構造物を造るときには、その時点である“現在”しかみていない。イメージできるのは、その構造物がない“現在”と、できた直後の“未来”の比較のみだ。
そして、東日本大震災という未曾有の災害を経験した後の“現在”、また「過去に例のない災害が差し迫っている」という言葉を毎年聞く様になった“現在”、その構造物を構築し、災害が軽いもので済むような構造にするため計算に使ったデータは“過去”の地震や気象のデータで、“現在”の災害のレベルには必ずしも合致していない“過去”の構造物になってしまっているものも多くある。

だから、先生は人々の生活様式が変わって“過去”の構造物が必要なくなり、その構造物の機能が衰えてしまう“未来”を予想していて、“現在”に合ったものに変化させるため「壊す技術」がより必要になるのだと言われたのだということに後になって気付いた。

土木には、様々な学問があるのだが、簡単に、二分すると、ハード系とソフト系とに分類される。
ハード系とは、人の住環境の安全等の防災面や、生活がより便利に効率的になること目的とした、構造物そのものの機能性を追求する分野である。
ソフト系とは、動植物との共生や、環境や歴史、その場所が持つ景観に馴染むような美しさ、そして、身体の不自由な方も構造物を利用できる機能を組み込むバリアフリー面等を追求する分野だ。
このハードとソフトの面を融合させるのは、実はすごく難しい。

多くの構造物はハード系に分類され、その土地が持っている特徴に応じ、パターン化されている構造形式の中から最適なものを選択する。
近年では、構造物の機能のハードな分野だけではなく、その“まち”に住む全ての人やものが共に生きることのできる道を模索するソフトな分野が重要となっている。
人の身体は日々変化している。その変化は自然なものもあれば、受動的になる場合もあるが、自分自身がその身体の変化を経験することなしに、他者の目線に立って土木技術者等は物事を考えることはなかなかできない。
技術者に新たな視点を教えてくれる、その経験の当事者の方の視点が必要となる。

私は、これから起きる自然災害に備えることはもちろんだが、構造物が常々そこで暮らす人々の生活の変化や、自然の変化に対応できるよう“伸びしろ”がある構造物が造りたいと感じる様になった。
そのためにも、もっと多くの方の視点を取り入れた構造物でなくてはならないと思う。

大学の授業で最も印象に残っているものが、学内の駐車場の改築案を立てるというものだった。
その課題を出した先生が見たかったものは、学生たちがハード系とソフト系のどちらに重点を置き、どう融合させるかだったのだと思う。もちろん、そこには正解はない。
その先生が、駐車場を計画する際の参考資料として生徒全員に配布した資料が、宮崎駿監督が考えた“まち”の計画案だった。
それは、とある新聞の切り抜きで、埋め立て地から新たに造られることになった“まち”を宮崎駿監督が計画されているという記事だった。
その記事が授業で配布されたとき、その計画は既に白紙に戻っていたが、先生は教材として使っていた。

宮崎駿監督の“まち”の計画が、駐車場にどう結びつくのか良く分からなかったのだが、今になって、その宮崎駿監督の今までに見聞きし学んで来たこと、老いを迎える時期になって気付いたこと、そして、全てのものが共生できる社会、その全てがそこに描かれていて、先生はそれを今後の“まちづくり”にも活かして欲しかったのだと感じる様になった。
宮崎駿監督が描いた“まち”、それは、宮崎駿監督の作品の変遷そのもののようだった。

宮崎駿監督の映画に出て来る“まち”は、どの作品のものも何故か魅力的で懐かしく、住んでもいいと思える。
トトロの住む“まち”、魔女の住む“まち”はもちろん、ナウシカの腐海に呑み込まれそうな“まち”や、タタラ場や湯屋でも住んでみたいと思うのは、そこに住んでいる人それぞれがその“まち”に関わり、その場を創っているからではないだろうか。

私には、宮崎駿監督の描いた“まち”がどうして実現しなかったのかは分からない。
ただ一つ言えることは、その“まち”はこれから住もうとする人、例えば、老若男女、身体の不自由な方、様々な人の意見が形になったものではなく、そこで暮らすことのない宮崎駿監督が構想した“まち”だったからではないかと思う。

“まちづくり”とは、多くの人がより住み良くなるやさしさを、様々な意見を取り入れながら一つ一つその“まち”に住む人たち自身の力で形にしたり、変化させてゆくものではないだろうか。
そして私は、そんな夢や希望を自分たちの手で形にできる“まち”に住んでみたいと思う。

私が幼い頃に読んで衝撃を受けた絵本が、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』だった。
本書は、当初は農村に建っていたおうちが次第に都市化され、変化してゆく“まち”にひとり取り残されるのだが、住人であった家族に見出され、最後はそのおうちに合う環境で再び家族と暮らし始めるお話である。

コロナ禍を迎えた現在、本当に大切なものは何かを考えるようになった人々が増え、よりミニマムな生活が見直されつつあるという。
仕事のあり方も、テレワーク等が導入され、人々の住む場所も選択肢が広がり、より自由な生き方が広がりつつある。

『ちいさいおうち』のように、合わない“まち”で無理をして暮らすのではなく、そこから抜け出して、より自分らしい生き方を求めて、新たな“まち”を、様々な人たちと関わり助け合って創生することのできる時代が来たように感じる。

(了)


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本記事を作成するにあたり、下記の本を参考にしました。



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