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平沢進の世界観-あるNoteへの応答

今回は、いつものような楽曲の解釈ではなく、平沢進の提示する世界観と、それにまつわるネット上の議論に首を突っ込んでみようと思います。


この記事を読む際の注意

①この考察は、GN(ファンクラブ)に加入していない者が書いた考察です。あまり詰められていない点も多いですが、ご了承下さい。
②このnoteは「解説」ではなく「解釈」で、考察の域を出ません。あくまで個人の解釈として受け取ってください。ただしリアクションは大歓迎でございます。一緒に考察を楽しみましょう。
③著作権の関係から、文献・歌詞等は全て「引用」の形態を取らせていただきます。そのため、文献・歌詞全文は検索等を行ってください。

あるNoteへの応答

今回の記事は、以下のNoteを読み込む作業になります。
そのため、まずは以下のNote『新・平沢進は有害か』を全て読むことをお勧めします。今回の記事は、このNoteを読み終えた方を想定して書かれています。ご了承ください。

……読み終えましたか?
では行きましょう。

まず『新・平沢進は無害か』(以下、「元Note」と表記します)を書かれた方への賛辞を贈らせてください。豊富な参考文献と、それを記載し、細部を詰める姿勢に感動いたしました。この書き方からしてアカデミアと何らかの関わりがある方か、あるいは大学等での研究に真摯に取り組まれたことのある方と推察します。こうした方がファン層におり、発信を行っていることに、同じアーティストのファンとしては嬉しい限りです。文章も大変読みやすく、今後も見習っていこうと思い、ライクさせていただきました。

当初、私は平沢進と陰謀論の議論に参加するつもりはありませんでした。しばらくの間は、平沢進を陰謀論者だとする人を、平沢の世界観が分かっていないのか?と思っていた節がありました。元Noteは平沢の作品や動向を真摯に追いかけており、「世界観を分かっていない」という私の想定を崩してくれました。後述しますが、元Noteの「終章」においての文章から、私はこの議論が「アーティストとファンの関係」という、より広く、そしてより切実な問題と関係すると考えて「首を突っ込む」ことにしました。

本記事の構成は以下のようになります。

  • はじめ:私の持つ前提の説明

  • なか :元Noteの各章へのささやかなツッコミ

  • おわり:全体のまとめ

アーティストは有害である

元Noteを書かれた方の想定を邪推すれば、「陰謀論=有害」という構図には、「非科学的で反論を許さない姿勢が、まわりまわって周囲の人間を傷つけることになる(誤情報の拡散による被害など)」という想定があるのでしょう。確かに、この意味で陰謀論は「有害」です。実際に人間を傷つけ、それへの説明責任を要求しても、不自然な論理で反対され、またそれへの反論は許されない。ここには不誠実な対話しか成立しません。

ただし私はそれと異なる前提を置いてみようと思います。それは「アーティスト・表現者は、そもそも有害である」という前提です。

私たちが何かを主張するとき、その方法にはいくつかあります。相手が間違いを犯していると考えており、またそれを主張したいときには、相応の根拠を持って「批判」するでしょう。特に言葉を用いて語ることのできる内容や、言葉を用いた対話による合意が必要な場合は、適切な「批判」のやり取りを通してしか、納得や、その時々の答えを得ることはできません。

しかしアーティスト・表現者の場合、しかも日常生活や議論の場で使うような方法では言葉を使わないアーティスト・表現者にとって、上記のような方法は当てはまらないことが多いのでしょう。彼らは「言葉にし尽くすことのできない何か」「言葉では言い表せないと分かりきっている何か」について取り組んでいます。言葉にできないのだから、「議論」という方法は採用できません。それゆえ「相応の根拠」は必要以上に追及されず、芸術としての文脈を抑えていれば、根拠はかなり個人的なものであっても構わないのです。むしろ「相応の根拠」という制約がない分、独創性や魅力は完個人的なもの・技法に由来してしまうので、アーティスト・表現者は厳しい世界で生きていると思います。

一般的なアーティストは、たまたまその主張が私たちの普通の価値観と一致しているだけなのかもしれません。アーティスト・芸術家は、時に「言葉にできないもの」を表現しよう、内なるエネルギー(個人的なもの)を言葉以外の方法で表現しようとして、私たちの感覚とは相容れない行動をすることがあります。言葉を用いて世界観を構築し、それを提示しようとするとき、その世界観は私たちからすれば「気持ちの悪いもの」「受け入れ難いもの」かもしれませんし、反対に「心地よいもの」「すんなり受け入れられるもの」かもしれません。すべてはアーティスト・芸術家次第です。そういう人間が社会に一定数いないと、私たちはときに価値あるものを見失うし、何となく皆の言うことに流されてしまいます。そうした危険性を防いでくれるのは、自由な発想で、時にとんでもないことをしてくれるアーティスト・芸術家がいるおかげなのかもしれません。

平沢進が難しいのは、平沢の作品・世界観のスタイルが「現実世界(=私たちが暮らす普通の、この世界)」に、一枚の布やスクリーンをかぶせて、そこにプロジェクションマッピングのように別の世界観を投影する、というものだからです。プロジェクションマッピングで投影される映像は、それを投影する建物の形態にリンクします。平沢が投影する世界観も、これと同様に、現実世界のあり方・形態にリンクする部分がかなり残るのです。「ハリーポッター」や「ゴジラ」のように、現実を舞台にして虚構を演じるのではなく、現実にピッタリはまるような形での虚構を演じるあたりが、平沢に対する評価を難しくします。


元Note第1章・第2章の検討~平沢進と陰謀論の関係~

元Noteの第1章は、陰謀論の定義と、平沢が陰謀論と関連することを示唆する内容でした。ここは特に問題ないと思います。

元Noteの第2章は、平沢と陰謀論の関係を検討する部分です。一言で要約するならば「平沢進は以前より陰謀論的な発想を持っていたが、9・11以後では本格的に陰謀論的世界観を作品として提示するようになった」ということです。私は元Noteにおいて「9・11以前の平沢」がやや軽めにしか扱われていないように思います。このことを検討していきましょう。

まず元Noteからの引用です。

おそらく、平沢氏の中では9.11以前から世界の枠組みに対する漠然とした疑問があったのだろう。それが、9.11という大きな事件をきっかけに漠然とした疑問が具体的な出来事へと変わり、世界は本来こうあるべきという価値観と社会の現状との乖離の背景には、悪意のある巨大な組織が存在するはずという思想に変化したのだと思われる。

『新・平沢進は無害か』

具体的にはアルバム『Blue Limbo』ならびに「殺戮への抗議配信」が、その画期とされています。

「平沢進」というアーティストの音楽・世界観の文脈を理解するために、私はいつも以下の記事を参照しています。おそらくネット上に存在する記事の中で、ここまで深く・分厚く検討されているものは、ほとんどないでしょう。

これを片手に検討を進めます。まず、平沢の「陰謀論的発想」は9・11以前から根深いものとしてあります。分かりやすいところでは、P-MODELの1980年のアルバム『LANDSALE』から見られます。

直接的に伺える要素としては、『LANDSALE』に収録された2曲「ダイジョブ」と「ドクター・ストップ」です。前者はジョージ・オーウェルの代表作『1984年』の世界観が前面に押し出されたものになっており、後者は現代医療批判の意図が伺えます。

話す言葉は管理されたし
手紙を出せばとりあげられる
二重思考の平穏無事から
無頓着の人殺しまで

『LANDSALE』より「ダイジョブ」

人の道の名前にかけても
ドクターは市民のみかた
見ず知らずのアンタのことなど
命のイロハでコントロール

『LANDSALE』より「ドクター・ストップ」

先に挙げた記事では、平沢の世界観は次の3つの要素で成り立っているとされます。「SF」「ロケット」「シュールレアリスム(超現実主義)」です。このうち「SF」からの影響として挙げられる筆頭はカート・ヴォネガットです。彼の著作『タイタンの妖女』は、「時間等曲率漏斗」という言葉が登場するため、平沢進ファンなら納得のはずです。本編の内容解説には踏み込みませんが、この物語はかなり決定論的な展開になっています。平たく言えば、登場人物がどんなに頑張ってあがこうとも、「結末は、昔からこうと決まっていたんだ」と言わんばかりの展開です。ジョージ・オーウェル『1984年』をはじめ、いわゆる「ディストピア小説」と呼ばれるものの影響もあります(ザミャーチン『われら』なども)。ディストピア小説、特に平沢が何度も作品でこすっている『1984年』はまさしく「巨大な悪意により管理される普通の市民」というモチーフであり、平沢はこうしたものに長く親しんでいたことが伺えます。

先に挙げた記事では、音楽の背景も詳細に分析されていました。P-MODELがテクノポップとして登場したことを踏まえれば、クラフトワークからの影響は強いと思われそうですが、そこまで影響を受けたわけではなさそうです。ただし、クラフトワークが1975年に『放射能(Radio-Activity)』をリリースしたこと、そしてOMD(Orchestral Manouevres in the Dark)が1980年(P-MODELの『LANDSALE』と同年!)に『エノラゲイの悲劇(Organisation)』を発売していることは、何となく奇妙な一致のように思えます。テクノ系の音楽をやる人たちの間で、放射能が科学技術の領域に留まる問題ではなく、政治的な場において主張していかなければならない、という意識が共有されていたのでしょうか。

このように、平沢の陰謀論的世界観の構築(またそれに影響しうる作品・人物からの影響)は、9・11以前よりかなり分厚い蓄積があったことを見逃してはならないように思えます。確かに9・11以降ではその傾向がかなり「分かりやすくなった」と言えます。その意味で堰を切ったように陰謀論的な方向に走ったという分析は適切かもしれません。より文脈を重視した見方をすれば、平沢的世界観の根源にはそもそも陰謀論に接続しうる要素がかなりあって、その部分があからさまに出現しだしたのが9・11以降である、というのが正しいのでしょう。


元Note第3章の検討~平沢進は陰謀論に染まったか?~

元Note第3章は、陰謀論における各種テーマと平沢進の過去の発言・言動を丁寧に結びつけている箇所です。小括を引用しておきます。

平沢氏の陰謀論は、何か大きな出来事が起きると、平沢氏が「世界は少数のエリートに支配されている」なるストーリーを前提として個々の事実(9.11のブッシュ政権、ユダヤ人、イルミナティ)をそのストーリーにはめ込みんでいるだけである。

『新・平沢進は無害か』

私は、まさにこの点についてのリスナーの判断が分かれるのだと思います。「ストーリーにはめ込んでいる」という主張の通り、平沢の陰謀論はあまりに典型的・主流です。あれだけ「メジャー」であることを拒否しておきながら、陰謀論のメジャーは一直線に歩んでいます。この点に私はかなりの違和感を覚えます。

アーティストが何かを主張するとき、他の人間あるいは他のアーティストとの「差別化」という事態が生じます。この差別化がありふれたものであれば、すぐに埋もれてしまいますし、際立ったものならば独創性・個性となります。そしてこの独創性・個性が多くの人々に受け容れられたとき、アーティストは肯定的に「評価」されます。「平沢有害無害論争」という名前は元Noteで初めて知りましたが、この論争は「評価」の段階においてのものです。平沢は過去に、多くのリスナーから肯定的に「評価」されることをやや敬遠していた節がありました。それは自らの独創性・個性の基礎となる「差別化」の部分にこだわりを持っていたからでしょう(後述)。平沢が陰謀論に染まっているとすれば、あまりに「差別化」がお粗末で陳腐です。このあたり、元Noteの筆者さんならどのように考えるでしょうか。

もう1つの重要な論点は、「平沢は陰謀論を使って、現実の悲劇をネタ化している」というものです。アルバム『Vistron』における東日本大震災を示唆する設定や、最近のTwitterでの「ネオナチ」発言が取り上げられています。元Noteでは東日本大震災をモチーフにしたアルバム設定に対して、以下のように言及しています。

多くの方が亡くなった震災をダシに陰謀論と結びつけ、ネタとして消費するという行動を平沢氏自身はどう解釈するのだろうか。

『新・平沢進は無害か』

まず事実として、平沢は東日本大震災の被災者に対して、タイの寺院で祈祷しています(現在、ニコニコ動画はシステム上の攻撃を受けており見ることはできませんが、動画のリンクとサムネイル画像は検索で見つけることができます)。これは被災された方々への敬意・弔いの意の現れとみなしてよいでしょう。私の前提として述べたように、平沢の作品スタイルは現実社会との関連を多く持ちます。作品を現実世界との連続として提示するとき、あらゆる人が共通で知っているものを作品の素地にするのは、ある種普通のことでしょう。むしろ当時は震災により何をするにも「自粛」のムードが漂いました。これも前提として述べましたが、アーティストは普通の仕事とはちょっと違います。世間一般が同様の精神状態(=自粛)に陥っている時であれ、いつも通りのスタイルで作品を作るのは、アーティストに課せられた使命のようなものでしょう。それは並みの人間にできるようなことではないです。

しかし、直近のウクライナ攻撃に伴う「ネオナチ」発言は、私も元Noteを書かれた方と同じ感想を抱きます。それは、東日本大震災のときとは異なり「被害にあわれた人間への敬意・弔い」のステップを完全にすっ飛ばして、自らの世界観の提示に乗り出したからです。もちろん平沢が個人的な行動としてそのステップを踏んでいる可能性もありますが、少なくともリスナーや外部者が認識できる形の方が、一貫性はありますし、余計な炎上は避けられたかもしれません。「人間への敬意・畏敬」は今でも平沢作品の核心を構成する要素であるため、「ネオナチ」発言に係る振る舞いは、そうした作品との一貫性に欠けるものだと考えます。この点について、元Noteを書かれた方とは意見は同じです。

薄弱な根拠をもって、多くの人が犠牲になった出来事(少なくともこれは事実である)を自身の展開する陰謀論の正当化ために使うことは到底許されるものではないと私は思う。

『新・平沢進は無害か』

第3章を通して、非常に重要な論点が明らかになったと思います。平沢進の世界観を、現実世界との関わりの中で、リスナーはどのように解釈するか?平沢進の昨今の言動と作品の世界観は一貫性を持っているか?などです。

第4章は疑似科学と平沢の関係が考察されています。私の主張としては、ハナから「科学的根拠」なるものを信用していないアーティストに、「疑似科学」の問題が結び付けられるのは必然的なことです。このことは、アーティストが何かを発信した時点で問題になることです。先に第1章・第2章の検討を通して、平沢の陰謀論的世界観の根は深いです。よって疑似科学の問題は、平沢が作品を発信したその瞬間から生じる問題のように思えます。ただし、実際の健康被害が出た(あるいは出かねない)言動については、第3章での検討と同様に「人に対する敬意・配慮が不足している」という点で、元Noteを書かれた方と同意見です。


元Note終章の検討~平沢進とどう向き合うか?~

終章では、平沢が陰謀論的世界観に傾倒した要因が考察されています。それは「政治への関心」「マスメディアからの隔絶」「馬骨界隈の特異性」です。

近年の平沢の動向については、私も疑問に思うところが多いです。

また、平沢氏は自身に否定的な意見を送ったアカウントをブロックしている。

『新・平沢進は無害か』

これは私も同感です。「オマエタチが好きに判断しろ」といいながら、楯突くとブロックをされてしまう。見せかけだけの民主主義のような話です。

同感はしますが、ここには「アーティストイメージ」と「ファンとの接触」のバランスを取るのは非常に難しくなっているという、近年のアーティスト事情が介在するようにも思えます。平沢は「推しを愛でる」という行為を非難しています(24曼陀羅のBSP)。「推し」というのは、アーティストイメージを無視した状態での、ファンによる理想像の投影です。これはアーティストが本来なりたい姿と、ファンから求められる姿との乖離を生じさせ、アーティストを苦しめることになります。ファンは苦しみません。なぜならば、ファンは自らの理想像が投影できなくなったら、「推す」のをやめるだけで良いからです。そしてまた別の「推し」を見つければよいのです。しかしアーティストはそうはいきません。

ファンとの接触を無限定に受け容れることで、自らのアーティストイメージが(たとえそれが陰謀論的なもの、世間一般では不適切とされるものでも)崩されかねず、それは平沢進の積み上げてきたキャリアの毀損になります。Palerへの移行なども、こうした観点からの理解が必要かもしれません。ファンが「陰謀論はさすがにね…」と主張するほどに、平沢サイドはこれまでのキャリアとの一貫性を保とうとして、強めの(しかしド主流の)陰謀論を展開する、という構図の可能性は検討してみてよいように思えます。


さらに『BEACON』では命令形の動詞が増えたことも大きな特徴である(「見よ」や「聴け」、「立て」など)。

『新・平沢進は無害か』

実は似たような指摘を私も過去にしています(今では読み返すのも恥ずかしい未熟な記事ですが…)。

あくまでリスナーに判断を一任するというスタンスは、リスナーにとって平沢作品を享受するさいの防護服でもあり、平沢作品の展開可能性を予期させる重要な要素です。アルバム『BEACON』のみならず、ライブ『ZCON』を含めた解釈が必要になるかと思われます。私はもし平沢がこうした方向(すなわち「ファンを指導する」という方向)に転向したのであれば、有害・無害以前に、残念でなりません。世界のあり方の「別の可能性」を提示し続けるアーティスト・平沢進はそこで死に、アクティビスト・平沢進しか残りません。だからこそ私は「まだ別の解釈の余地があるか?」ということを試しているのですけれどね。

結局、平沢氏の主張は、「世界は騙す/騙される側の二者から構築される」または「世界に虚構を造る闇側とその闇を暴く光側」という二元論に回収されてしまうのである。

『新・平沢進は無害か』

陰謀論的な世界観にのみフィーチャーすると、平沢は二元論的な判断をしているように見えますが、平沢自身は二元論的対立を解体することを未だ辞めていません。これは私が楽曲「LEAK」の解釈を通じて得た認識です。

ただし、平沢が完全に二項対立から脱却した、あるいはあらゆる場面において二項対立的思考をしていない、とは言い切れません。そこは今後の動向次第です。

結局平沢は陰謀論を使って何がしたかったのか?あるいは陰謀論に接触して何がしたかったのか?元Noteの結論はおそらくこうです。

平沢氏の陰謀論は政治性をこめた歌詞を作り始めたことに端を発する。「正しい知識」を知ろうとして陰謀論にのめりこんだというのはあまりにも皮肉である…

『新・平沢進は無害か』

私は「正しい知識」というよりも「正しいとされているものとは違う何か」であれば、平沢は何でも摂取したのではないかと思います。それが世界観の構築という面では陰謀論に非常に親和的であった、ということです。

例えば、以下のチャンネルは精力的に平沢楽曲を「音楽理論」の観点から分析していますが、平沢楽曲の魅力は「普通の展開(一般的に正しいとされる音楽の展開)」を外す点にあると言えるでしょう。

楽曲の権利・流通の観点でいえば、一般的には楽曲の権利が保護された状態、レコード会社などの権利保護を担う第三者を通じて楽曲が流通する状態が「正しい」状態です。しかし平沢はMP3による楽曲配信のパイオニアでした。インタビューでは、権利を無視したコピーが出回るという懸念に対して「それをプロモーションとして捉えられないか」と応えています。インターネット黎明期の特殊な感覚ではありますが、こうした姿勢がパイオニアたる所以でしょう。

Hirasawa Energy Worksでは、太陽光蓄電システムによる電力供給のみで楽曲制作とライブを行いました。その時のスローガンでは、「環境保護」ではなく、「環境に保護されているのは我々である」という認識が示されます。奇しくもこの3年後には「愛・地球博」が開催されています。1997年の京都議定書制定が画期ですが、それより前から地球の気候変動・環境変動が問題視されていましたが、歴史的な対応は「我々の生活が環境の保護につながる」という視点でした。これを逆転させたのがEnergy Worksの特徴です。

元Noteでも触れられていましたが、長らく「性に関する規範」すなわちジェンダー規範は、男女の二元論的発想が支配的でした。平沢は普通の人と比べ比較的早い段階から「SP-2」といったマイノリティを取り上げています。

このように、平沢は「正しいとされているものとは違う何か」を常に追い求めていたアーティストです。世界観の構築において、陰謀論とかなり親和的なもの、あるいは本流の陰謀論を取り入れたのも、この流れの中に位置づけられるでしょう。そうであるならば、我々は「平沢の世界観は嫌だが、平沢のそういう姿勢は好きだ」と言えるようになるかもしれません。熟慮の末に出した結論によって自らの行動を決めるのは、平沢の求めるところです。結局のところ、このあたりの判断は平沢進がアーティストであるかぎり常に保留されることです。


最後に

最後に、再度、元Noteへの賛辞を贈りたいと思います。

今後、平沢進が許容できない陰謀論を唱え始めたら、私はそれ相応の根拠をもって反対するつもりである。それでも平沢氏が意見を拒絶した時、私は「馬骨」という名を降り、平沢進という存在から静かに去るしかないのだろうか。

『新・平沢進は無害か』

最後の文章ですが、これにはとても感動しました。
まず、盲従するのではなく、自らの考えに従って行動指針を決め、発信する、この勇気を見てください。こうした自律的な態度の芸術鑑賞者が増えていけば、「推しを愛でる」という最悪な状態を少しでも改善できるような気がします。
そして、ここには平沢進への敬意と謙虚さが表れています。「それ相応の根拠をもって反対する」行為も、やはり平沢進へのこれまでのキャリア(元Noteを書かれた方に与えた影響も含め)への敬意からくるものでしょう。そして、それが拒絶されたとき、「静かに去る」という選択をする。誰かを責めたり、ネガキャンをすることもなく、ただ「静かに去る」。自分の内から出た葛藤に対して、自分で折り合いをつけようとする。これには相当の胆力と勇気が必要なはずです。

私の技量不足によって、読み落としていたり、誤解していたり、深く読み込めていなかったりする箇所がいくつもあるかもしれません。自らの葛藤に向き合い、答えを出そうとして、その成果やプロセスをネット上にオープンにするという姿勢に共感し、その勢いで筆を走らせた次第です。しかし、これを機に「アーティストとファンのあり方」という議論が、広く共有され、より適切な関係を構築できるようになれば、私としては非常にうれしいです。

元Noteを書かれた方、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ご指摘・ご批判等がございましたら、コメントまでお寄せいただければ幸いです。

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