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平沢進『LEAK』の新解釈~二項対立からの脱却?~

この記事では、平沢進の「LEAK」(還弦主義バージョン)という楽曲を、いちリスナーが、新しい視点で解釈していきます。色々な用語の説明をしていたら、少々長くなりましたが、読んでいただければ幸いです。


この記事を読む際の注意

①この考察は、GN(ファンクラブ)に加入していない者が書いた考察です。あまり詰められていない点も多いですが、ご了承下さい。

②このnoteは「解説」ではなく「解釈」で、考察の域を出ません。あくまで個人の解釈として受け取ってください。ただしリアクションは大歓迎でございます。一緒に考察を楽しみましょう。

③今回は「LEAK」を中心的に取り扱います。ネットで従来から言われているような解釈とは異なりますので、他楽曲との関連性が薄く、詰められていない箇所が多いです。ご了承ください。

④著作権の関係から、歌詞等は全て「引用」の形態を取らせていただきます。そのため、歌詞全文は検索等を行ってください。

従来の考察

 最近になって、平沢進の作品を吟味・検討する文章が、プロ・アマ問わず増えてきたように思えます。精神医学者の斉藤環氏が、プロ筆頭というところでしょうか。

 私はアマチュアであるので、基本的は、ネットに転がっている解釈のみを「従来の考察」として取り上げています。まぁ個人的に思っていた「解釈」をNoteに書いてみたら、意外と好評だったので続けている…くらいのものなので、これくらいの気楽さと自由さで良いのかもしれません。

 LEAKの解釈はいくつかあります。いつも平沢進の解釈を調べるときに登場する掲示板を見てみましたが、ちょっと情報量が少なかったです。少ないながら、平沢の過去の経歴から「田中靖美への思慕」説が登場しているのは面白いです。

 しかし、もう少し面白い解釈も見つかりました。平沢の活動歴や知り得る生活歴から、歌詞や音楽を解釈しているブログです。ここでは、P-MODEL時代の「LEAK」が入ったアルバム『カルカドル』について、以下のように述べられています。

特記事項として、『カルカドル』のいくつかの楽曲において平沢はもはや意味のある歌詞を書くこと自体をやめている。

『パースペクティヴ』以上に意味を読み取るのが難しい、隠喩だらけの抽象的内容となっている。しかしその抽象度は、かつてのように重苦しい何かの表象ではなく、さっぱりとした無意味な言葉遊びなのだ。

https://searoute.hatenablog.com/entry/2017/04/27/011425

 これら従来の解釈は、以下の2点にまとめられるでしょう。ただし重要なのは「無意識の表出」という点で共通している部分があるということです。

①P-MODEL中期の平沢は、他者との直接的コミュニケーションを求めるあまり、コミュニケーション不全という「病い」を抱えた。その解消策として採用されたのは、精神科医ユングへの関心を契機とする「無意識」「眠り」「夢」といったものへの着目と、集合的無意識の感覚であった。LEAKは、そうした「無意識(さらには抽象化)」の実践としてある。つまり、何かを意図したものではない。

②(「田中靖美」説の補足)
P-MODELにおける腹心、田中靖美の脱退に、思うところがあった。そういう無意識的なものの表出としてLEAKが作られた。

新解釈が必要な理由

 なぜ、こうした面白い解釈があるのに、わざわざ「新解釈」と銘打つ必要があったのか。LEAKの意味づけは、P-MODEL期と平沢ソロ期とで変容しているのではないか、と考えられるからです。平沢がソロ期において、LEAKに「上乗せ」した意味、これに着目した解釈を進めていきます。

従来解釈の足りないところ

 なぜLEAKの意味づけが変容しているか。2つの理由を考えました。まず、近年の平沢の活動です。LEAKは、近年のライブで2度、登場してきています。『会然trek 2K20』と『ZCON』です。近年の平沢進のライブの意図は、ライブ後のYouTube配信「BSP」で、それとなく、あるいはハッキリと語られることが多くなりました。

 仮に「LEAKは説明不可能な無意識の産物」(従来解釈①)だとするならば、明らかに意図的メッセージを抱えたライブのセットリストに載るという事態の説明がつきません。「『無意識で説明不可能なもの』としてライブで演奏しているんだ!」と、強引に理由づけすることも、出来るかもしれません。しかし、特にZCONにおいては、登場するキャラクターのセリフにて、LEAKと関連するワードが登場してきており、その場面はメッセージ性の強いものになっています。

敵陣果てしなし。しかれど『領域』とは『お前とは誰なるや?』なる問いの訳文なり。そう叫ぶ声なき声を聴け。音無き旋律を聞け。世界はお前のお漏らしであると知るまで

「Interactive Live Show ZCON」のとある一幕のセリフ

LEAKの歌詞にも「しかと漏れて」とありますが、「お漏らし」がまさにこの楽曲と適合的です。つまり、「無意識で説明不可能なもの」としてLEAKが演じられたわけではなさそうだ、と言えます。

 2つ目の理由は、ライブで演奏されたLEAKが、「還弦主義」リメイクのバージョンであることです。ここで、平沢進のイベントとしての「還弦主義」と、言葉遊びの由来である「(要素)還元主義」を説明しておきます。


還弦主義8760時間を経て作られたアルバム『突弦変異』

還弦主義8760時間

 まず、平沢進のイベントとしての「還弦主義8760時間」です。これは、平沢進の過去の楽曲(P-MODELを含む)を、ストリングス(弦楽器)アレンジしなおす1年間の企画を指します。平沢はこのイベントを、次のように説明しています。

よりリアルな弦セクションと電子音の合流は、20年の時をへた今も変わらず、平沢ソロサウンドの最大の特徴となっている。ソロ活動20周年を記念するこのイベントでは、作品の質的大転換を実現したその手法によって、いかに平沢的世界が構築されるかを見る。

凝集する過去 還弦主義8760時間


(要素)還元主義

 還弦主義8760時間の元ネタとなる言葉は、「要素還元主義」「還元主義」です。以下では、「還元主義」で統一します。

 還元主義とは、複雑な事象を、単純な要素に分割し、それを組み立てるようにして事象を説明しようとする考え方のことです。みなさんは、中学校の理科の実験で、何かしらの動物の解剖実験をしたことはありませんか?解剖という手法も、複雑な生物の生命メカニズムを、内臓器官という「要素」に分割し、それを論理的に組み立てていくことで、生命の謎、生命の活動の理由に迫ろうという、還元主義の発想から成り立っています。

 ただし、還元主義には「全体性や連続性を見落としてしまう」という批判がなされています。単純な要素への還元は、むしろ生命や活動の生き生きとした側面を見落とし、物事を機械のように、パーツの合算でしか捉えることができなくなる、という批判です。還元主義では説明のつけられない出来事には、物理学等における「カオス」が含まれます。科学という営みは、法則性や因果関係を見出し、物や性質の変化を的確に予測することが目指されます。しかしながら、カオスという状態では、予測がほとんど役に立ちません。しかしながら、現にカオスという状態は自然界にあるのです。これを還元主義的に捉えてみても、すなわち「分解」してみたり「解剖」してみたりしても、よく分からないまま、ということです。
(そういえば平沢進のレーベルは「ケイオス(=カオス)・ユニオン」でしたね…。)

 さて、平沢は還弦主義8760時間で、文字通り自らの過去の楽曲を、要素というパーツに「還元」し、弦楽器というパーツを置き換えたうえで、アレンジするということをしていました。こうしたアレンジの効果について、平沢は以下のように語ります。

それ(=ストリングス・セクション)はソロの歌詞が求める空間やムードに馴染みやすく、またストリングスアレンジがもたらすムードが、歌詞にある種の意味を与えるという効果もあります。

凝集する過去 還弦主義8760時間

平沢は還弦主義8760時間を経てアレンジされた楽曲に、「ある種の意味」を上乗せしたことになります。だからこそ、明確な意図ないしメッセージを込めたライブのセットリストにも載せることができるのです。仮に、「LEAKは説明不可能な無意識の産物」(従来解釈①)が正しかったとしても、還弦主義8760時間を経たことで、LEAKには新たな意味が付与されました。そしてZCONでは、その「新たな意味」に沿った形で、ストーリー上にLEAKが配置された。こう考える方が、従来の解釈よりも自然でしょう。


LEAKの新解釈:二項対立からの脱却?

 ここからは、新解釈、つまり平沢は還弦主義8760時間でLEAKに与えた「新たな意味」について、私なりに考えていきます。

 ひとことでいえば、「二項対立への疑い」です。二項対立について、少しだけ哲学の領域からの解説を借りましょう。

「二項対立」とデリダ/フッサール(軽めに)

 まず、「二項対立」の説明です。二項対立とは、文字通り、「二つの項目が対立する」ことを指します。または、そのように分けて考えることもそうです。みなさんは、日常的にこれをやっているはずです。例えば、トイレに入る時にも、自らの性別を「男/女」という二項対立で捉え、自らが属する性別の方に入っていくはずです(近年問題含みの具体例であることは承知しています)。あるいは、「強い/弱い」「良い/悪い」「美しい/醜い」「したい/したくない」「正解/不正解」などなど……。

 「世の中、単純な二項対立でかたづけられないこともある」ということ人もいるでしょう。「ビミョー」という言葉は、よく使われます。「ビミョー」とは、「何とも言えない」すなわち「二項対立のどちらに属しているか判断できない」という意味合いでしょう。良いとも悪いとも言えない、という感じです。しかしながら、それを分かっている人でも、ついつい二項対立的に考えてしまうことが多いでしょう。

 例えば、「二項対立だけじゃない」と言う人も、「やはり人生ではある程度の儲けがあった方が良い」と言ったりします。あるいは「社会人としての自覚が足りない、ワガママばかり通すのは得策ではない」と言ってみたり、重大な犯罪が起こったことを知った時に「こいつは100%悪い奴だ」と思ったりします。儲けがあった方が良いという場合、そこには「稼げる=善/稼げない=悪・無駄」という発想が隠れているでしょう。社会人としての自覚という場合、「状況の達観=客観視=大人/ワガママ=主観的=子ども」あるいは「静観・追従=得策/自己主張=愚策」という二項対立があったりするでしょう。誰しも、どこかで「二項対立だけじゃない」と分かっていても、やはりどこかで「二項対立」を前提に考える癖があります。

 これらの具体例から分かる通り、二項対立は、ただ単に二つの項目を対立させるのみならず、そこに優劣をつけます(これもまた二項対立!)「善/悪」は分かりやすいですよね。社会人として、当然「大人/子ども」であれば、「大人である」ことが「優」に位置づけられます。これも重要なポイントです。良し悪しを判断することを「価値判断」と言いますが、単純な二項対立は、人びとの価値判断を特定の価値観に方向づけるパワーを持ってしまうでしょう。ひとたび「悪いヤツ」「無意味なもの」「おかしな人」と二項対立の片方に位置づけられる。たったそれだけのことで、人びとの価値判断の中ではそれらを「劣」と見なす傾向が生まれてしまうのです。


ジャック・デリダ

 こうした二項対立を崩す試みは、1970年代頃から、実は行われていました。ポスト構造主義(現代思想)の一翼を担う、ジャック・デリダという人物を見てみましょう。ジャック・デリダは、二項対立を意図的に崩す試みを「脱構築」として実践しました。彼はどのように脱構築を行うのでしょうか。入門書的なものから引用します。千葉雅也氏の『現代思想入門』です。

①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。…
②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。

千葉雅也,2022,『現代思想入門』講談社現代新書: 42頁

 簡単に言えば、デリダは二項対立の「劣」の味方をしたうえで、その優劣の判断をいったん止めます。そして、二項対立の優劣を決することができない状況を考えてみるのです。
(ちなみにデリダは、①の工程を「転倒」と表現しています。平沢進の楽曲「転倒する男」や「アヴァター・アローン」の歌詞などは関係があるのでしょうか……。)

 マイナーな方の味方になったうえで、どちらが良いという判断を一旦止めたうえで、二項対立の優劣をしないということは、平沢進リスナーならば、少しはやったことのあることだろうと思います。平沢進の楽曲は、明らかにポピュラー音楽とは異なり、大衆にウケることなどは、おそらく無いでしょう。しかし、平沢の楽曲を聞いているうちに、「売れる=良い」ではないということに気づきます。その後、「平沢=良い」になってしまう人もいるでしょうが、そもそも「平沢=良い」かどうか、どんな音楽、何が「良い」なのか分からない……という状況のまま、良し悪しの判断を中断し続けている人もいるでしょう。平沢進と付かず離れずの関係を保とうとしている人は、まさに脱構築(っぽいこと)をしているのかもしれません。

 ちなみに、デリダは「フランス現代思想」というジャンルで取り上げられる人ですが、実は他の思想家の著作に対しての誤読をよく批判されている人物でもあります。人類学者レヴィ=ストロースの提唱した「構造主義」に対するデリダの批判などは、レヴィ=ストロース研究者から火だるまにされている印象です(詳しく知りたい方は、小田亮『レヴィ=ストロース入門』を読んでみてください)。

 二項対立の克服という点で言えば、「現象学」という領域を打ち立てたフッサールという人物も挙げられます。フッサールの言う現象学は、「客観的なものを認識の基礎に置くことはできない」すなわち、「目の前にコップがある」という私の認識を考えるときに、客観的な「コップの存在」からは説明をつけることは不可能だ、という発想を前提にしています。そこから、主観を出発点として、認識に伴うさまざまな「憶測」を剝ぎ取ろうという試みであり、「主観(私)/客観(私以外)」という二項対立の克服という点で、これまでの重なるところがあるでしょう。しかし、現象学のことをここで書くには、私の力量はあまりに足りませんので、おすすめの本だけ紹介して終わります。竹田青嗣『現象学入門』(NHK出版)です。

LEAKと「脱」二項対立

 二項対立と、その克服の試みということを説明してきました。二項対立の克服というテーマそのものは、平沢が取り上げる以前からあり、目新しいものではなさそうです。では、平沢の立場はどこにあるのでしょうか。

最近のツイートでは、より直接的に「脱」二項対立が言われていました。

 実は、ここにも「二項対立」が潜んでいます。どこにあるでしょうか。
 あくまで私の見方ですが、「そうしないと死にます」の部分が、二項対立的です。つまり、「二項対立=劣/二項対立のデトックス=優」というツイートになっています。平沢は二項対立の脱却を目指すあまり、自らもまた二項対立の罠にかかってしまっている……と見ることも、もちろん可能です(実際にそう思っている人もいるでしょう)。

 ここでは、もう少し希望的観測で解釈を進めていきましょう。ここでは、このツイートを、二項対立の脱却のために「あえて」二項対立的な口調にしたものとして想定します。そうすることで、LEAKの解釈にも繋がるようになるからです。

二項対立から漏れるもの

 結論からいえば、LEAKは二項対立から「漏れるもの」に注目することを、暗に訴えかけてくるような意図が付与されたと、私は解釈します。ただし、先ほどの「二項対立」の罠に引っかからない工夫がされた上で、です。それは、LEAKが「音楽」であるという工夫です。

 平沢はBSPのなかで、「そう簡単に言語化できるなら音楽にしない」というようなことを言っていました。回=回のBSPだったと思います。これはどういうことでしょうか。

 芸術家・アーティストは、大雑把にくくれば「表現者」です。表現者の内側にある「表現したいもの」は、「何を使って表現するか」よりも、先だってある必要があります。「音楽を使って○○を表現したい」ではなく、「○○を表現するための、最も適切な手段として音楽をやる」が、おそらく表現者としての理想形でしょう。何故ならば、そうでなければ表現者の用いる手段に説得力がなくなるからです。平沢が「音楽をやりたいから」という理由でミュージシャンであるのであれば、「あなたの伝えたいことは、音楽じゃなくても表現できますよね?」と反撃できます。しかし、平沢の伝えたいことが「言葉にしてはならない」ものであれば、言葉ではない表現方法、すなわち「音楽」が有効であると、こちらも認めざるを得ません。

 ここに、「二項対立」の罠を避ける仕掛けがあるように思えます。ただ言葉を使って「二項対立を脱却せよ!」と言ってしまうと、その発言自体が「二項対立」になる、ということは先ほども書きました。しかし、それが音楽として表現されていればどうでしょう。「脱却せよ!」と言葉では示さず、音楽を聴いた「感じ」として、聴き手にそれが明確でない形で伝わってくるならば、平沢自身は、二項対立の罠をうまく避けることができます。(インテリ言葉っぽくて嫌ですが)「言わずして言う」みたいな感じです。言語化してはいけないメッセージだからこそ、音楽としてのLEAKに、二項対立への疑いを込めたのでしょう。

 さらに、平沢の二項対立への考え方は、先に挙げたデリダに比べると、とても穏当な感じがします。それは「漏れ」への注目です。デリダは二項対立の「劣」の方に積極的に味方することで、その二項対立の優劣の判断すら止めてしまおうという、わりかし過激な物言いでした。平沢は、二項対立の優劣というよりも、二項対立から「漏れ」たものを、もっと見てみようという立場でしょう(こう言語化してしまうことで、また二項対立の罠に引っかかる恐れがあるのですが……)。

タイ語の挿入・LEAKについてのツイート

 LEAKが二項対立の「漏れ」への着目だと感じる理由を、2点ほど挙げておきます。まずは、「タイ語の挿入」です。

 LEAK原曲(カルカドル版)では「I'm your」となっていたコーラス部分が、還弦主義でのリメイク版では「コンク―」とタイ語になっています。やはり「タイ語」を使っていることに、意味がありそうです。

 日本のメジャー言語は、当然ながら公用語である「日本語」の他、「英語」も頻繁に用いられます。英語教育にますます力をいれていますし、英語表記の無い場所の方が珍しいでしょう。日本のポピュラー音楽においても、歌詞に登場する日本語以外の言語は、圧倒的に「英語」でしょう。日本のポピュラー音楽には、「日本語+英語/それ以外」という二項対立が潜んでいます。当然、優勢は「日本語+英語」であり、劣勢は「それ以外」の言語になるでしょう。

 平沢は、LEAKで「タイ語」を使い、гипноза(ギプノーザ)では「ロシア語」を用いています。しかし、何もかもを「それ以外の言語」でやってしまおうという訳ではありません。さりげなく、リスナーが「ん?なんて言った?」と思う程度に混ぜ込んでいるのです。デリダほど強烈な立場ではないというのは、こういうことです。さりげなく用いることで、「これなんて言っているんだろう?」と気になり、タイ語やロシア語を調べ始めたその瞬間から、私たちは「日本語+英語/それ以外」という二項対立的なものの見方から、さりげなく脱しているのです。しかも平沢は「脱せよ」とは言っていません。私たちが、平沢の音楽から漏れ出た「なんて言った?」という部分を、私たち自身で探していった結果、二項対立を脱しているのです。

 次に「漏れ」への着目として、LEAKリメイク期のツイートも見てみましょう。還弦主義8760時間のイベント中のツイートです。

 また、平沢らしい言葉が並んでいますが……。ここで興味深いのは、二項対立の共存です。「無関係の親密」「無文脈のモアレ」「断絶の動機共有」というワードに着目しましょう。

 聞きなれない言葉があります。「モアレ」ですね。モアレとは、「干渉縞」とも言い、規則正しい縞模様が重なった時に、周期のずれから生じる模様のことです。別の所から生じた2つの水の波が、ぶつかりあってできる水の波紋を思い浮かべるとよいです。ちなみに、モアレから連想できることとして、「量子力学」があります。光などの物質が、「粒」と「波」の両方の性質を持ち合わせるという奇妙な発見から、量子力学という分野が成立しました。本来、「粒」は「粒」ですし、「波」は「波」でしょう。しかし、「粒でもあり波でもある」のが量子の性質です。このことは、二重スリット実験で、光(正確には電子)がモアレを生み出したことから発見されました。分かりやすい解説として、広島大学のページを示しておきます。
(量子の重要な性質に「重ね合わせ」というものがありますが、カタカナ語では「エンタングルメント」と言います。どっかで聞いたような……。)

 先のツイートに戻りましょう。それぞれ、「無関係/親密=関係」「無文脈=不規則/モアレ=縞模様=規則」「断絶/共有=連続」という二項対立的な項目が、1つの括弧の中に共存しています。LEAKには、二項対立が共存している。しかし、二項対立という言葉の意味からして、二項が「共存」するのはあり得ません。平沢の音楽では、「あり得ない」ことが起きているのです。さらに続けて、「そーっと地味に取りに行きなさい」とあります。まさに、二項対立から漏れてくるものを、静かに拾ってみろとでも言わんばかりです。

 二項対立の共存が面白いのは、共存を「あり得る」ものとして捉えても、「あり得ない」ものとして捉えても、二項対立への疑いは消えないところです。どういうことか。

 二項対立を、2つの円で示してみましょう。ここではベン図を用います。

二項対立の状態

二項対立として、「A/B」と分けられている場合、AとBは重なることはありません。二項・優劣が混合していては、「対立」とは言えないからです。しかし、「無関係の親密」「無文脈のモアレ」「断絶の動機共有」といった「二項対立の共存」状態は、次のように示すことができるでしょう。

「無関係の親密」「無文脈のモアレ」「断絶の動機共有」
=二項対立の共存状態

Aの円とBの円が重なっている部分がありますね。ここでは二項対立が共存しています。二項対立の意味的には、「共存」はあり得ないことなのですが、「優であり劣である」ものが、ここにあると考えてください。この重なっている部分にあるものは、「完全にAであるもの」でも「完全にBであるもの」でもない、「漏れ」と見ることができるでしょう。二項対立の共存があり得るとするならば、このように重なる部分に「漏れ」が生じます。

 では、二項対立の共存があり得ないと考える場合、どこに「漏れ」が生じるでしょうか。先ほどの画像をもう一度、見てみましょう。


白い部分を見てみよう。

これは、「A/B」という二項対立が、文字通り、対立の関係にある図でした。しかし、画像の「白い部分」をみるとどうでしょう。要は、「背景」に注目してみる、ということです。AとBの円を「図」だとするならば、背景である白い「地」の部分に注目しましょう。この白い地の部分に何かあるのだとすれば、それが「漏れ」です。AでもBでもないもの。ここで、ZCONにてLEAKが演奏された際のセリフを載せます。

それともどうだ?それとも?そうだ、常に『それとも』を持ち歩け、大馬鹿者め。

「Interactive Live Show ZCON」のとある一幕のセリフ

AでもBでもないもの=「それとも」と考えること。LEAKの演奏に合わせて放たれる言葉としては、ぴったりです。何より、「それとも」の先を、何も提示しない、聴き手に任せていることが、「二項対立」の罠の回避を実現しています。

おわりに

 長々と書きました。ここでまとめにします。

 LEAKは、還弦主義8760時間のリメイクを経て、「新たな意味」が付与されたと考えられます。その意味とは、「二項対立への疑い」です。ここで「二項対立を脱却せよ」と言語化した瞬間、その発言自体が二項対立に巻き込まれる罠があります。そこで平沢はLEAKという「音楽」に、そのメッセージを載せることで、罠を回避しています。二項対立は共存するかもしれないし、しないかもしれません。しかし、私たちが自らで探すのならば、二項対立から「漏れ出る」何かを見ることができるでしょう。

 このツイートを見返してみましょう。「そうしないと死にます」という、どこか宣伝のような言葉遣いによって、むしろメッセージ性の希薄さが際立ちます。「買わなきゃ損!」みたいな。

 もし仮に、平沢が本気でコレを言っているのならば、私は失望するでしょう。なぜなら、そうした宣伝文句を言いたいだけならば、わざわざ表現者として先鋭的な音楽を作る必要は、もう平沢には無いからです。二項対立の脱却というテーマは、平沢の誕生時から行われていることで、今さら平沢がやらなくても、他の誰かでも出来ることです。

 しかし、これが「二項対立を脱却せよ、という宣伝文句が二項対立の罠にハマっている」ことを暗示するものであるならば、その解決策としてLEAKが提示されていることになり、平沢音楽の価値はこれまで通りに受け取ることができます。本当のところはどちらなのか、私は知ることはできません。しかし、平沢の価値を残す道筋を示すことに意味があるでしょう。マイナー音楽家の価値を認めるのは、音楽家本人でもあり、我々リスナーでもあるはずです。

 以前の「回路off回路on」の解釈記事では、「本当は嫌っているはずなのに、平沢に安易な二項対立思考があるのでは?」という疑問を残しました。

今回のLEAK解釈を通して、その疑問に少しだけ答えられたのではないかと思います。

とても長い記事になってしまいました。
最後まで読んでくれた方へ、ありがとうございました。

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