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SUNNINESS(5) 「だから平野遼を評論する」


アトリエに戻ったが、私以外の人はいなかった。長い夏休みが終わり、午後のうちでも誰かと共に笑いたくなる午後なのに、制作の前の語りあいは出来そうもない様子だった。白い雲は上空から人間社会を見下ろしている。風に送られて、筋のように伸びていやがる。
私は心のウォーミングアップなしに仕事に着手する気が起こらず、アトリエの隅に突っ立っていた。カーテンから漏れる光が天井に反射している。物憂い光が突然自分のなかへ差し込んだようだった。技術の向上も、復讐の実現も、突然なんの意味もなくなってしまったようだった。あれほど、強く私をしばりつけていた社会に対する発言権の獲得も、脱ぎ捨てた肌着のように、ストンとはがれ落ち、だらしなく下に丸まってしまった。絵を描きたいと思う気持ちになるには、だいぶ時間を置かねばなるまいと考えた。やはり夏というものはただごとではない。準備された木炭画用の食パンはカラカラに乾き、太陽が敵であるという事実を改めて思い知らされた。
さて、どうしたものか。窓に近寄って中庭を眺めたが、タバコをくわえた何人かの事務の職員が言葉をとりかわしているだけで、学生の姿は見えなかった。競争相手という活動を強いるものがなく、張り合いがない。私は溜息をついた。どんなに熱心な生徒でも、毎日モデルが来る時間まではバイトをしている。午後になって太陽の力はいや増したようだった。私は目を瞑りながら、頬を軽く叩き、眉をしかめ、なじみのない退屈と向き合い、しばし瞑想した。
ここで誰かが私を見たら、きっと、その人の目には、創造の前に心を集中する、偉大な芸術家に映るだろう。堂々たる姿は、たいへん誇らしいことだ。その芸術家を見る相手が女性であれば猶よいだろう。その女性の顔を自分好みに想像した。ただ、問題は、求められる結果に到達するまで私が目をつぶっていられるかだ。であるから、これは時間の無駄というものではあるまいか。私はこの妄想にケリをつけた。
次に、ゆっくり中庭を散歩している時に、誤ってハンカチを落とし、初心な女生徒に呼び止められる場面を想像して、これまた一人微笑んだ。心の中で、感謝のセリフを変えながら、何度か舞台も変えて、この場面を繰り返してみた。その甲斐あってか、やや時間はかかったが妙案を思い付いた。ぶらぶらと教室をめぐって、一年生のアトリエがある棟までまわってみることにした。
校舎の前に来たところで、鞄を持ち替えて、重い扉を開けた。週末に学科の授業のある校舎だから、足は自然に吸い込まれていく。しかし、すぐに勝手の知った道はとぎれてしまった。見ると、通路の脇には汚い皿に盛った吸い殻があり、その隅には、キャンバスが無造作に立てかけられ、狭い廊下を一層狭く感じさせた。慎重にその先を越えて、角を曲がると、踊り場の壁のところどころには絶叫しているような落書きがあった。やや速度を上げた足取りに変え、一階から二階に通ずる薄暗い階段を上っていく。校舎の北側は道路に面していたので、窓から猛烈なエンジンの音が走り去るのが聞こえてくる。
ところで、私は特別真面目な、熱心な生徒ではなかったが、ほかの学年のアトリエを拝見するという行為は結構なスリルだった。ただ、のぞき見の好奇心はいかなる緊張をも圧倒するほど旺盛だったので、私は先を急いだ。無人の教室を横切りながら、誰にもすれ違うことなく無事に研究室の前を通り過ぎた。すると、ほど遠からぬところに、鍵の開いたと認められる教室が目に入った。決意を固め、私はそこへたどり着くと、もったいぶって深呼吸してから、はやる気持ちを抑え、待ち受ける部屋の引き戸をゆっくりと動かした。
中を覗いてみると、やはりカーテンは固く閉ざされたままだったが、ぼんやりとした外の明かりが影を作っていた。物が作られる子宮の中に、直に入りこむような感覚でテンションは高まった。私は歩み寄り、体を忍ばせて、一枚一枚を眺めた。そこには、手の込んだ作品や、才能の片鱗を感じさせるものは何枚かあった。とはいえ、私は微笑を浮かべていた。実をいうと私は上級生という高みから、その光景を見下ろしていた。画家の卵という名称は、自立できない若者にやたらと与えられるものだが、卵と呼ぶのさえまだまだ大変な作品が多かったのだ。「可哀そうに」と悪ずれした憐みで、にわかに視線を移したとき、とつぜん一枚の絵に引き付けられた。外でもない、それは、上級生をして何事ならんと思うほどの絵で、目に留まったというより、あまりにも目立って下手くそなので注目した、という方が正しいかもしれない。全体としても、意味不明な絵が多い中でも、それは構図も妙だったし、色も鈍くて汚かった。でも、なんだか知らないが人を引き付けるものがあったのだ。
そして、その絵に近づこうと、足を踏み出すたびに、なぜか感情の波が押し寄せ、その波が私の胸になだれ込んでくるようだった。それは、不器用でも、対象に没入する素直な喜びがある。と同時に、その不器用な描き残しに、描いた人の心を見ているような、それは、自分が既にもっていない時期の、あの筆の勢いというか、つまり他人を意識することのないというか、人によって答えの違ってくる問題かもしれないが、云うならば、これは無邪気な、私利私欲が混じっていない絵だった。実際、こういうことは言うは易く、行うは難しなので、あれこれと説明し難い点もあるのだが、自分を卑下することの多い私にとっては、自分を棚に上げるというのが、かえっていいことかもしれない。つまり、要するに、その滴るような絵具が、ポトンと私の心の宇宙に、ひとしずくのさわやかな尊敬の念を呼び覚ましたのだ。そうだ、三流かどうかは世間が決めることではない。当事者が決めることなのだ。

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