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SUNNINESS(4) 「だから平野遼を評論する」


医療をともなう彼の救援行為はともかくとして、私が予備校時代に宗教にかぶれたのは、この、人はいいが頭の少し弱いところのある友人を救おうとしたためだった。いわば、ミイラ取りがミイラの経路をたどったという訳合いにもなる。そして、社会に直接働きかける活動に目覚めた私は、教団にかなりの大金を貢いだ。今思えば、とんだお人よしだ。しかし、それだけではない。私と大友さんは三鷹駅周辺で伝道修行を行っていたが、あのオウムの事件以来、新興宗教に対する世間の風当たりは強くなっていったのだ。何にもしていないのに警察に引っ張られていくこともあったぐらい深刻な大問題で、我々の布教活動が勇気をともなう行為だったのは勿論のことだ。そんな状況の中で、教団は布教活動を全面禁止にした。そして政治的なアピールのために美術館を建設した。失望の一言だった。あらゆる迫害を忍んだあの生活はなんだったのかという気持ちだった。配給される美術館のビラを受け取るたび、出てくるのは複雑な溜息ばかりだった。教団の中で存在価値を失い、顔にできた吹き出物のように扱われた私は勉学にも打ち込めなかった。私は私自身の意識の内に世の中に対する諦めというものを感じていた。 
その諦めを決定的にしたのは予備校時代の失恋だった。あまり、そのことは思い出したくはないが、結果的に云うと、私は世間と、そして自分自身というものをよりよく知ることになった。意中の女性のお相手が出てきて、感情を抑えきれずに送ったメールが軽薄な笑いの種にされたのだ。二人はそろって大学に合格し、私は心の痛さを感じながら、もう一浪する羽目になった。私の楽しみは、二人にふりかかる不幸を妄想することだけだった。
時は流れ、渋谷の路地裏でばったり二人に出くわしたとき、女は「多摩美に通っている」とやや鼻につく言い方をした。私は「○○大学というところに行っている」と苦笑いを浮かべなければならなかった。もし私が「東大というところに」と云えば嫌味な謙遜だが、私の入学した誰も知らない三流大学ではそれは正しい言い方なのだ。それとも「知床の灯台(とうだい)に」とでも云えばよかったのだろうか。ともあれ、私がこのあと家に帰り、一人妄想をたくましくしたのは言うまでもない。 
このようなことから、執念深い私は復讐の機会をうかがい、ある一つの思想を育て上げていた。それは世間の評判というものが、実は有象無象の広告のようなもので、視覚に訴える着ぐるみと、軽快な音を立てるリズムのような、なんとも陳腐な飾りから出来上がっているというものであった。あるいは私のそれは、思想というより偏見かもしれないし、実際、私の抱いているイメージは誠に仕様のないものではあるが、まんざら根拠のないものでもない。大衆に一つの手本を見せるべき文化人ですら、私が所属した宗教団体の見え透いた表向きの顔すら見抜けないのは情けないほどだった。某大学の教授などは「あそこの美術館はちゃんとした宗教法人が運営していますよ」などと言っているぐらいだ。この言葉は効いた。胸にささったのだ。ミシュランは星まで出すといっていたが、私がそんな勝手な太鼓判よりも、臭いが染みついた大学の食堂の方か、どれほど誠実に、どれほど謙虚に、有難みのある言葉を語りかけてくるかと思うぐらいだ。しかし、世論とジャーナリズムは人間から成り立っていて、人間に対してはお金が勢力をおよぼすのだ。文化人はスポンサーに寄りそって言葉選びをする。お愛想を付け加える。正直なところ、世間から称えられる文化人とは実際こんなものではなかろうか。そして、移り気な世間の評価も同じように、なんとはなく根拠のない感じで、あっという間に底の割れる頼りなさなのだ。
問題は実際にどういう人間かではなく、どう見えるかであって、それは社会の高みに位置する人たちにも言えることだ。復讐にはいろんなやり方がある。私の復讐とは、名声とまるで正反対ではあるが、辛酸をなめた人間にもそれなりのやり方はある。それは、たとえ売れなくても、自分が納得できる絵を一枚でも描くことだ。灯台下暗し、ではないが、価値を分かってくれる人に向けて発信することだ。そのためには、わびしい生活としみったれた孤独に我慢しなくてはならない。つまり私は名声とは別種の復讐を選んだのだ。私は画家として名をなしたいと思うと同時に、それほど有名にはなりたくないと感じる矛盾した人間なのだ。そういえば、自分の中には、どこかあきらめのような、安らぎのようなものが場所を作っていた。そうして、流れていく雲を眺めながら、こうして自分の汚れた人生をほのかに思い出すのだ。

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