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SUNNINESS (12) 「だから平野遼を評論する」


しかし、財布の中身を確認しようとして、ポケットから焼き肉屋のマッチを落とした瞬間、二十年もの長い間、頑強に日本放送協会との闘いに耐え続けた母の顔が私の脳裏をよぎった。母は毎日夜遅くまでパートに出ていた。今は私に仕送りをするため焼き肉屋の荷下ろしを手伝っている。鉄の女、タイムセールの女王、安い家電製品のキング、どれもが彼女に与えられた我が家での称号だった。生き馬の目を抜くような世の中にはりめぐらされた罠。私はその巧妙な戦いの中でもがいていた。ところが、ここに一つの救いの手があらわれた。母さんのしわくちゃの手だった。

母はずらりと並んだ商品を一つずつ物色していた。母は私を意識的に無視していた。私は何かを察知してベンチから動かなかった。ここに来るまでに親子でいがみあったというのもあった。私は母の買い物が終わるのを待った。何分待ったのだろう。すると、いきなり痛みがやってきた。こんちくしょう。それは、いつも待たされる時間よりも果てしなく感じた。つくづく健康のありがたみが分かった頃に、ようやく母の道草も終わり私は病院に行く必要性を訴えた。血尿も出ていたので母は考えた挙句に泌尿器科を選択した。
ところが病院に着いてみたら「腹痛?ここは泌尿器科ですけど」という受付嬢の一言にその痛みは倍加した。医者も大して体を診もせずに「消化器科へ行きなさい」という一言で診察を終えた。私は湧き上がる悪態に堪えて、はぁはぁと病院まで歩いた。
それに比べて消化器科の先生は親切に違いない。エコー検査でそれが尿路結石だと診断してくれた。「小さい予備軍もゴロゴロあるよと」とも教えてくれた。いずれまた泌尿器科には行かねばならなかったが、とりあえず痛み止めの薬をもらって家に帰った。精も魂も疲れ果て寝た。
次の日はささやかな母の誕生パーティだった。もちろん、それは幸せな時間だった。私は腹を膨らませ、もったいないからとビールの残りで尿路結石の薬を飲んだ。するとそれが悪かったのか食べたものを全て戻してしまった。そして、また下腹部が痛み出した。ただトイレに駆け込んでも何も出なかった。それは間違いなく石のせいだと思われた。すべては不健康な食事のせいで身から出た錆だった。私は痛みを忘れるために何かに集中することにした。テレビをつけて横になった。石のことを何より気にしてはいたがNHKでやっているカーリングの石のことも負けず劣らず気にしていたのだ。
そんな私に母は「総合テレビは見るな、寝ろ」と一喝した。私はおずおずと不服を申し立てたが「喋るな、寝ろ」の一喝で口ごもった。最後に「寝ろ」と付け加えるのが彼女の習わしだった。私は「受信料くらい払え」と思いながら、ふてくされた。前歯の抜けた父は丹前を着てあぐらをかき安酒を飲んでいた。家には満足な暖房がなく母も私もろくなものを着ていなかった。ただ、その頃は何も感じていなかったが私は我がままで甘えん坊だったと思う。母には本当に世話になった。生活が苦しくても美大に行かせてくれた。私は人並みの学生になり肩身の狭い思いをすることもなかった。私はなんという罪作りな人間なのだろう。
   
目の前の役人風の男の手帳には書かれた名前が線をつけて引いてあった。私は男に人間的な好意を感じていたが、お金を払うことについてはどうも腑に落ちない、何か納得できぬものがわだかまっていた。その理由が分かった気がした。私は財布をポケットの奥に引っ込めた。受け継いだ鉄の意志を曲げるのはよろしくないと考え直したからだ。その動機となったのは実家に帰省した、ある夕暮れに母から云われた次の言葉だった。
「ケチは美徳」これが全てだ。なんというシンプルで和算式なモットーだろう。恰好をつけるとは人から良く思われたいということかもしれない。それは無駄なことだ。 
成程、大学は人間を教育する。そして私は大学にずいぶんと教育された。だが教育は修養がなければ、そして修養は実例がなければ説得できないものだ。その実例とは一体どうしたことだろう。誰もが小洒落た服装のためにバイトをして限りある時間をとられ、どっちを向いてもいいふりこきのシラミたかりが情けないほどにのさばっている。我々は忘れているのだ、大学という大樹に寄りかかって。そうだ、我々は忘れているのだ、のうのうと絵を描ける環境が当たり前ではないということを!
私はその風潮に反旗をひるがえす。砲弾のうねりとともに立ち上がるのだ。私は集金の男に向かって最終兵器を出す決意をした。
「今はお金がないので…」と自嘲気味に打って出た。が、それは「今日は契約書にサインだけお願いします」のトマホークで撃ち落とされてしまった。
「ボールペンある?」エリが私の背中に声をかけてきた。私はしぶしぶボールペンを受け取り、苦り切った表情で書類に「マンマDEブルジョア」と署名した。
「ニックネームじゃなく本当の名前はないのですか?」と男は尋ねてきた。
「本当の名前がマンマだ」と私は答えた。
「わかった。もう、いい!」と、男はひどく面倒くさそうに私から用紙をひったくった。男の手はふるえていた。粉骨砕身の駆け引きの末に勝利したと思ったら、最後の最後に爆弾を落とされた表情だった。 
「この泥棒!」と捨て台詞を残して去っていった。
 さっきまであんなに礼儀正しかった徴収代行業者から罵りの言葉をかけられた私は茫然とした。四畳半の部屋に入るとエリは呑気にも編み物をしていた。すると酷くあしらわれた光景がよみがえり、だんだんと怒りがこみ上げてきた。何より受信料を支払う羽目になったことに腹が煮えくり返った。マンマだけにまんまとしてやられたと思った。憮然とした私の形相を見たエリは手を止めた。
「何?まだ、怒っているの?」と軽く非難してきた。私は一瞬体をぴくりと震わせた。そして一分間の沈黙の間ずっとテレビを凝視していた。

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