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「相談できる、というのは本当に大きいです。」失語症当事者のご家族の方へインタビューしました。

こんにちは。北海道吃音・失語症ネットワークです。
このnoteでは吃音や失語症など、ことばに悩みを抱える当事者の方々にインタビューを行い、体験談や想いを発信しています。

今回インタビューを受けていただいたのは、札幌市の近郊ににお住まいのAさん(50 歳代、男性)。
脳梗塞の後遺症で失語症の影響が残存しているお母さまと 2 人で暮らしています。

今回は主に、お母さまが脳梗塞を発症してからのエピソードや、現状のお母さまとのリアルな生活について、お聞きしました。


失語症を発症した当時のこと


---数年前の 1 月、お母さまが脳梗塞を発症。
昼食の際、よろけてお茶をこぼし、ことばの呂律も回らない状態だったそうだ。
突然起こった事態にどう対応したのか。

「すぐに救急車を呼んだが、地域の病院では、診療科や救急搬送の受け入れの課題もあって、搬送先が決まるまでに 1 時間半かかったんです。母の“意識がない状態”を目の当たりにして、とても焦りましたし、戸惑いが大きかったです。」


---救急搬送後、お母さまの状態や失語症についての説明を医師から受けた。
当時のことを 思い出しながら、Aさんは話してくれた。

「恥ずかしいんですけど、『脳梗塞』という状態も、『失語症』というのも、“どういう状態か” が分からなかったんですよね。自分自身の気持ちすらも整理できなかったのもあって、 先生からの 1 回の説明では、ほとんど頭に入りませんでした。」

---しかも、実際のお母さまとのコミュニケーションを“どうしたら良いのか”は、Aさん自身で掴んでいくしかなかった。
“どういう状態なのか”、お母さまに“何が起こっているのか”の情報を得る方法は何だったのだろうか。

「友達に聞いたり、自分で本やインターネットで調べましたね。そのときは、本当に...とにかく必死でした。」
「調べていく中で、少しずつですが、母に起こっている状態を理解できるようになっていきました。今まで当たり前だった人と人とのコミュニケーションというか...ことばを使ったコミュニケーションは、もう無理なんだ...。この現実を受け入れるしかない。そう思って接するようにしました。」


---藁をも掴む思いで「失語症」について勉強し、何より、一番近くでお母さまの様子を感じる中で、お母さまのことばの状態が『ことばを聞き取る(理解する)機能が重篤に障害された“ウェルニッケ失語”』の状態だと理解していったそうだ。

失語症は、いくつかのタイプ (例:言葉が出にくく話しかたがたどたどしくなるブローカ失語や、スラスラ話すけれどことばの音の崩れが目立つウェルニッケ失語など) がある。いずれのタイプもそうであるが、ウェルニッケ失語ならではの難しさというのもある。それは、合併しやすい多様な高次脳機能障害の影響はもちろん、“話はしているのだけれど何を伝えたいかが解らない”といった状態であり、家族にとって特に困り感が大きいのが特徴の 1 つである。


病院でのリハビリ期間を振り返って


---入院当初は寝たきりの状態。意識が回復してからも、食事など身の回りのことを自分では全くできない状態だったそうだ。その状態で、ベッド上でもリハビリに励んでいたが、「どれくらい良くなるのか」という心配が晴れることはなかったそうだ。

「こちらが話すことも伝わらないし、母が話すことばをこっちも分かってあげられないし...。自分はどうしたら良いのか...。そんな感じでした。」


---お母さまが“何を言いたいのか” を汲み取れず、こちらは “どう伝えれば良いのか分からない” 状態の中、Aさんが見つけた “一歩” は何だったのか。

「こんな状態が “切なくなる” ことも少なくなかったんですよ。でも、一番つらいのは本人だろうと思っていました。なので、自分としては、自分にできることをやるしかない。そう思いました。」 「今の状態を受け入れるしかないので、とにかく『本人の気持ちを察してあげよう』と思いました。何を言いたいのか、何を考えているのかを感知して、理解してあげられるように  “考えよう” 。そう思ってきました。」

--- Aさんは、週に2~3回は必ずお見舞いに行き、着替えや洗濯物の交換など『自分にできること』をやってきた。その日にリハビリがあれば、全て同席もしたそうだ。ひたすら病室で名前や住所を繰り返し書く練習にも付き添い、何気ない時間も一緒に過ごしてきた。

「病院でのリハビリは、本当によく頑張ったと思います!ことばは改善しなかったけど、 今ほとんど自分のことを自分でできているのは、本人が頑張ったからだと思っています。」


病院・施設生活を経て、自宅で生活することについて


---救急病院から転院し、発症から4カ月が経過した頃、介護老人保健施設へ入居となった。 担当の医師からも “今後、施設がお母さまの終の住処になりますよ” と言われていたのもあって、ずっと施設の生活だろうなと思っていたそうだ。 施設での生活にも慣れてきた頃、週に2回は外出をするようになった。自宅で過ごす時のお母さまが、くつろいで安心して過ごしている様子を見て、Aさんは「家に帰りたいっていう気持ちは伝わっていました。」と話す。

「きっと、施設での生活も “家で過ごすことや家に帰ること” を目標に、頑張っていたんだと思います。」


---だんだんと歩けるようにもなり、身体も気持ちの状態も良くなってきたことを Aさんは感じていたそうだ。そして、施設の職員とも『自宅での生活』を考える時期がきた。実際、その時のAさんはどのような気持ちだったのか。

「なんとか2人で暮らしていけるんじゃないか、と思ったんです。それは、幸いにも身体の麻痺とかが残らなかったのもあって、『ある程度のことは自分でできる』ということが大きかったですね。」


---再び、自宅で母との生活が始まった当時の状況や様子を振り返ってもらった。

「最初はデイサービスにも通ったんですが、ただ行って、訳が分からないまま周りの雰囲気をみて過ごしていたみたいで、すごく疲れて帰ってくるだけだったんです。」
「いま思うと、“ もう少し早くデイサービスを辞めても良かったかな ”とも思うんですが、 それでも2年間、頑張ってデイサービスを続けてくれました。」


---自宅での生活が始まる際には、地域の様々な福祉サービスの提案をしてもらったそうだ が、その時に生じることが多かった場面について教えてくださった。

「話し合いの場なんかでも、なんでも『はい、はい』と言うんですよね。 “本当かなー?” と思って、よくよく話を聞いてみると、話の内容も全然理解できていなくて、もう一回説明して、改めて気持ちを聞いてみると、結局「嫌だ!」と(笑)。こういうことが何回かありました。」


---これは、ウェルニッケ失語のみならず、失語症の方のコミュニケーションに起こりやすい場面であり、この慎重な確認作業は、コミュニケーションの相手が覚えておきたい工夫である。こういったことを、Aさんは、自らの体験を通してひとつひとつ掴んできた。


試行錯誤のチャレンジの中で掴んだ、母とのコミュニケーションの形


---2 人での生活。Aさんが不在となる時間帯にはどのような心配があったのか。

「電話は出ることが出来ない(出ても対応できない)、お客さんも来ない。来るのは、私が頼んだ宅配便や郵便局くらいなので、その辺の不安は大丈夫でした。」


---ただし、実際の生活では “本から学んで得た知識” とは違う『リアルな苦労』を実感することが少なくなかったようだ。
Aさんが暮らす地域的な事情や、お母さまの “サービスを受けたくない” という意向が重なり、Aさんにはどこにも相談する術がなかったそうだ。困ることがあっても、その答えは自分たちで見つけるしかなかったのだ。

「お米を研ぐのも、『30 回』が数えられなかったので、『10 までいったら、また 1 から数えて... 』という方法でやってみたんです。だけど、うまくいかなかった。なので、それから米研ぎは私の仕事になりました(笑)」。「郵便物のハンコを押すだけならできたので、私が不在のときにも任せられました。 ただ何回もハンコをなくして、玄関の奥から見つかったりすることが何回もありましたね...(笑)。」


---生活の中での試行錯誤を通し、お母さまが『理解する』ことに役立ったものは何だったのか。

「私の仕事のスケジュールや通院の予定などは、自分でカレンダーを見て、理解できているようなんです!あと、新聞に地元の情報が載っていたら「これ、これ!」と教えてくれるし、クイズ番組でも、目で見て分かる問題は正解していることも多いので、分かっていることも多いんだ ...と、気づかせてもらいました。それから、“ゆっくり話す人” がテレビに出てくる番組をよく見ていることにも気づいて、“こういう話し方が分かりやすいのかもしれない” というヒントも得られました。」

---ご家族と一緒に、本人自らが「これなら出来る!これなら分かる!」と実感できる方法を見つけ、作り上げてきた姿がそこにはあった。そして、単語での表出や指差しでの表現で「やりたい!」という気持ちを確認し、家庭菜園を続けることができた。実は、お母さまが引っ越しをして建てたご自宅は、 家庭菜園をやりたい思いがあったのだ。


同居から 4 年半。お母さまとのコミュニケーションを振り返って


---「今まで過ごしてきた自分の家で、家族と一緒に過ごす」「やりたい!と思うことを “できる形” で続ける」ことは、ご家族の力がなければ叶わないことであり、そこには必ずコミュニケーションがある。
これまで “思うようにいかない場面” もたくさんあったのではないだろうか。当然 “家族には家族にしか分からない困り感” もあるだろう。しかも、“お母さまには、息子さんだからこそ真っ直ぐぶつけられる感情” もあるのだろうと思い、質問を続けた。

「母は、今の状態に満足はしていないと思うんです...。話していても、時々、私に伝えられなくて悔しい思いでいるようですし、こちらは推測できる範囲で解釈するんですけど、それが全然合っていないこともあります。こういう点は、“何とかならないかなー” と思うことがあります。」
「そして、自分が寄り添って聞いてあげられない時もあるんです...。」

---地域の事情もあり、ことばのリハビリの継続はできなかったそうだ。また、提案されたサービスも拒否することが多かったのもあり、相談先とのつながりも薄い状態が続いていた。家族が、あらゆる不安や負担を減らし、笑って生活を続けられるための地域の支えや体制が、急務の課題だと思えた。

「何かあったときに、間に合わなかったら...と常々考えています。」


---Aさんが、こう話すのには理由があった。 ある時、お母さまが「うー、うー」と唸り、動けなくなった時があったそうだ。すぐに「様子がおかしい」のは分かったが、『具合が悪いのか...?どんな状態なのか...?なんで動けないのか...?』など、具体的なことが全く分からず、「病院に行こう」と勧めても、お母さま は「行かない!行かない!」の一点張りで、どうすることも出来なかったそうだ。

「それが、腰が痛くて動けなかったことが分かるのに、1週間もかかってしまったんです。」


---A さんは反省していたが、どのように『腰が痛い』ことが分かったのか。

「たまたま、ポッと、「腰、痛い。」というフレーズが出てきたんです。それで、ようやく何が起こっているのかを理解できたんですよね。」

---1 週間。痛みで動けない状態の中、この時間はとても長かったことだろう。お母さまにとっても、Aさんにとっても、「普段とは違う緊急事態」こそ、ことばによる意思疎通の苦労は大きいのだ。
高齢のお母さまには、体力的にも、また持病でもある心臓の機能にも心配があるそうだ。 体調の異変を「ことば以外の方法」でも伝えられる手段があると、少しAさんの不安を解消できないか...。お話をうかがいながら、“今後も、Aさんと考えながらチャレンジしていきたい”と思えた。

「もしも、自分に何かがあったとき」の心配について、先日 A さんは、町の職員に『お母さまが自分で、自分の服薬を管理できる方法』や『見守りキット』などの説明を受けた。

---コミュニケーション面の苦労は絶えないが、それでも、お母さまとの 2 人の状況であれば何とかなっていたそうだ。だが、遠方に住むAさんのお兄様の帰省時、普段とは違う苦労があった。

「今まで何とかやってきた母と 2 人の協同作業や役割分担のバランスが、なんか崩れたんですよね。普段以上に、やりとりの難しさが重くのしかかってしまって...。母も、私に任せた作業が、“自分が思った通りにならないこと” への不満が大きくなって、私自身も、“伝わらないことや分かってあげられないことの申し訳なさ” が強くなってしまって...。」

---Aさんは、「もう分からないから、自分でやって!」とぶつけてしまった場面を反省していた。当事者を支えるご家族にも、息抜きや気分転換は絶対必要だ。Aさんにとって、それは「自分も仕事に出ること」と、コミュニケーションにおいては「ある意味、深入りしないというか、深く関わらないこと」だったようだ。

「食事は一緒にするようにしました。そして、普段、用事があるときには、呼び鈴で教えてもらう。本人的にも、それくらいの関わりや距離感の方が良いようでした。」 「私も体調が悪い時があるので、まず自分が元気でいることも大事なんだと思うんです。 庭の草取りやゴミ集めなんかでも、「すぐやって!」と言ってくるけど、疲れるときはありますよね。私も “出来ることは限られている” ので、それも少し分かってほしいな(笑)」。

---Aさんの息抜きもしながら、「何かあったときに対応できるように...」というバランス。 これが、2 人が作る、2 人で見つけた「うまくやっていく方法」の1つだったのだろう。

最近のご様子


---最近、お母さまの体力的な衰えを感じる場面が増えてきたそう。料理も、したがらなくなり、今までは歩いて行っていたスーパーまでも歩けなくなってきているそうだ。

「家庭菜園も、今年で終わりかもしれないな、と思っています。だけど、できることが限られているので、今後も “やりたい” と望むことがあれば、できるだけ実現させてあげたいと思っています。」


最後に


---Aさんは、失語症を抱えた方との生活には、地域の状況や当事者それぞれの性格や人生観、家族が置かれている状況など様々なことが絡むことを踏まえ、「自分は、本当に恵まれていたと思う。」と振り返った。
Aさんが1番大変だったときに、SNS で当団体の存在を知ったそう。その経験を踏まえ、 Aさんは話してくれた。

「私よりも、もっと苦労している方々がいるでしょうし、助けを求められていない方々も、 たくさんいるのではないかとも思うんです。だからこそ、どこに住んでいても、困ったときにつながれることが大事なんじゃないかと思います。」

「相談できる、というのは本当に大きいです。家族にしてみたら、生活の中で実際に何か困って必要に迫られる状況になったときに、支援先や情報を必死になって探すと思うので、 助けになる情報や支援先が、もっとポピュラーになると良いなと思います。そして、良いご縁を持って欲しいと思っているんです。私は本当に、北海道吃音・失語症ネットワークさんにすごく救われました!」

---近年、行政や法律の点で『失語症者向け意思疎通支援』のシステム構築に向け、全国各地で動きだしている。ただし、まだ具体的に「何をしてくれるのか」「どのように手続きをしたら良いのか」といった情報は、当事者やご家族には届いていないし、実感できるイメー ジも湧いていないのが現状だろう。

『困ったときには、絶対に1人で抱えず、誰かに相談してほしい』と切に願っている。一 緒に考えてくれる人や組織があるから。

編集後記

Aさんからは、有り難いことに「本当に救われました。」というメッセージをいただきました。「当団体が目指してきたことが Aさんに届いた」ことが嬉しかったのと同時に、まだまだサポート体制の課題がいくつもあることを改めて痛感しました。お住まいの地域で、多くの方々と一緒に考え、変えていけるように。今日からまた、もっともっと頑張っていかなければならないと思わせていただきました。

改めまして、ご協力いただきました Aさん、心より感謝申し上げます。

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