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奈良県人が奈良ホテルに宿泊

久しぶりの投稿だ。

先日、奈良ホテルに泊まる機会に恵まれた。
国や県による旅行支援のおかげなのだが、通常はその金額ゆえに長く生きていても奈良県人が奈良ホテルに泊まれるチャンスは、そうそうないということは予め言っておかなければならない。

奈良ホテルの歴史は古い。

Wikipediaによると、

日露戦争後、日本を来訪する外国人観光客が急増、これに対して日本政府は外国人宿泊施設整備を支援する政策をとり、これを契機として古都である奈良でも都ホテルの創始者である西村仁兵衛(ホテル運営)、奈良市(用地提供)、そして当時奈良を勢力圏としていた関西鉄道(ホテル建設)の思惑が一致して本格的な洋風ホテルの建設計画が立てられた。
ところがその直後に関西鉄道は国有化され、さらに奈良市の意欲も薄れたため、以後の本ホテルは西村仁兵衛、奈良市に代わって奈良県、それに関西鉄道を買収した鉄道院の3者の手によって建設計画が推進された。
当初、東大寺南大門前参道東側の用地が奈良県によって提示されたが、運営に当たる西村はこれを拒否し、彼は1906年(明治39年)7月に高畑町飛鳥山の現在地を独自に選出して坪1円で購入、併せて「奈良ホテル」の商号を登録した。
本館の建築にあたっては、東京駅駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビが設計を、近畿の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれた。

本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている。
和風の外観になったのは本館の設計当時、奈良では宮内省匠寮技師の片山東熊によって設計され、奈良公園内に建設された奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館本館:1894年完成)の純洋風建築が「奈良公園の景観にそぐわない」として当時の奈良県民に大不評だったためという。こうした市民の声に応えて宇治平等院鳳凰堂をモチーフとして取り入れた奈良県物産陳列所をはじめ風景と調和しつつ新時代に対応する和洋折衷構造建築の模索が続けられていた。
以上のような紆余曲折を経て1909年10月に現在地に本館が竣工、西村が経営する大日本ホテル株式会社によって営業が開始された。

・・・とある。

まず驚くのは、奈良ホテルが東大寺参道の東側に建設する予定があったことだ。そこに奈良ホテルが建設されていたとすれば、東大寺周辺の景観は随分変わっていただろう。とくに正面から参道に進入し左手(西側)に土産物店が立ち並んでいるが、右手(東側)に奈良ホテルが建っているとすれば、随分狭苦しい参道になっていたはずだ。
わたしはいつも戒壇院から正倉院、東大寺の裏側を歩いて二月堂に入るが、帰りは大仏殿の表を通る。かつて奈良ホテル建設予定地だったところに出て、参道に入る。目的地まで幾通りのコースがあるのが奈良公園であり、ホテルによってその散策コースを邪魔されていたかもしれない。
先見の明を持つ西村仁兵衛氏なる人物を調べてみたい気になった。

次に、当時、現国立博物館の建物が不評だったこと。
確かにある角度からみれば物足りなく思うこともあるが、現代人とってみると周辺の景観にほぼマッチしている、としか思えない。いまはライトアップもされ、観光スポットに君臨している。時代の変遷というべきか・・・。

建物自体、当時から文明の発達や生活様式の変化によって、少しずつ変わってきたのだと思うが、このホテルの良さは、天井の高さ、室内の明るさ、家具調度品の落ち着き、そして何よりホテルマンの対応である。
旅館ではなくホテルなので、一定の距離感を保ちながら客の要望をまず受容してくれる安心感を感じた。

ガラス越しに

夕食はいくらなんでもこのホテルで食べる選択は、価格的にない。
夜が迫る中、クーポンが使える店を探し歩いた。

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