見出し画像

私の修士号取得物語(下)

1.プロローグ

 全科生の2年間もうまく行くと思っていたが、指導教官がまさかのエムカで1年目はトラブルが多発した。
 先輩から「修士号取得だけを目的にして、エムカを含め他人様とは絶対にトラブルを起こさないこと」と厳命され、2年目に入った。

2.レポート

 エムカの指導をアテにできないので、私たちは協力して月1回提出する資料を編集して1~3回のレポートにし、そのレポートを編集して論文に仕上げていった。
 4回目のレポートは修士論文なので、私たちは3回目のレポートを修士論文そのものに仕上げて提出した。
 返却されたレポートには何のコメントもなく、私たちはエムカに心底幻滅したが、奴はプライドが異常に高くかつ激昂しやすい性格なので、甚だ不本意ながら修了に悪影響を及ぼさないよう「面従腹背」で接した。

 それでも探偵並みの調査力と勘の鋭い『ラン』は、課題である英語論文の和訳にある仕掛けをした。それは、わざとある部分を誤訳しておいてエムカがちゃんと英文を読んだか否かを確認する手口だった。

 後日、「何の指摘もなかった」と彼女からメールが届いた。「英語力がないのか? 読む気がないのか? きっとその両方だろう」との一文が続いていた。
 
 私は『ラン』の恐ろしさを再認識し、彼女がエムカを心底軽蔑していることを知った。

3.ゼミと修士論文

 ゼミに新入生は入ってこなかった。他の教授たちが大学当局に働き掛けてくれたのだろう。

 4月に関東地方で開かれるゼミの前日に、あの『ネッシー』が資料をゼミのメーリングリストに送信してきた。さすがに欠席ばかりではマズイと考えたのだろう。しかし、その資料を見てビックリした。まるで研究の体をなしていないトンデモナイ代物だった。
 さらに、日曜日に仕事があることと放送大学大学院のゼミに出席義務があるとは知らなかったと言い訳がましいコメントがあり、これからもゼミには出席できないとあった。

 吃驚仰天したが、本人がそう言うなら致し方ない。時間をかけて修了するつもりなのだろうと思って返信すらしなかった。

 エムカは、よっぽどキツイ教育的指導を大学当局から受けたのだろう。4月以降のゼミには二日酔いや遅刻などせずに来た。

 ある時、ランが質問をメールでエムカに送った。しかし1週間経っても何の返信がないことに業を煮やして、彼女は面談の手続きしたうえで平日に有給休暇まで取って大学本部にエムカを訪ねた。

 しかし、信じられないことにエムカはランのメールを読んでいなかった。怒った彼女の凄まじい剣幕で問い詰められてエムカが白状したその理由が信じられなかった。

 エムカ曰く、大学生の次男が学校でトラブルを起こし、その対応に奔走して精神的余裕がなくこの1ヶ月間、全く仕事に手が付かなかったとのことだった。

 エムカは、自分の家族のことが最優先で、複数案件同時処理能力の無いことが判明した。

 ランからの電話で一部始終を聞いた私は、A教授に助けを求めた。快諾して御指導頂いたお陰でランの疑問は解決し、修士論文の作成が進んだ。

 これらの事で私たちを心配したA教授の助言に従い、ゼミとメーリングリストで更なる情報交換を密にして、私たちは修士論文を期限の2週間以上前に提出した。

4.口頭試問とその後

 口頭試問の時間は20分(発表12分、質疑応答8分)という情報を以前から得ていたので、ゼミでの発表はこの形式で行っていた。

 A教授のゼミは前日に集合して『予行演習』をするという。私たちもそれに習った。もちろんエムカには何の連絡もしなかった。

 翌日の口頭試問の主査はエムカで、副査は面識のない教授だった。私たちの発表と質疑応答はスムーズに進み、副査から私たちはお褒めの言葉を頂いた。ただ1人を除いて…。

 それがネッシーだった。

 彼女が口頭試問の会場に来た時、誰もが大学の職員だと思った。しかし、私たちと同じ席に座った。吃驚仰天して呆気にとられていると、親しげにエムカと話をしている。いち早くランが気が付いて「ネッシーよ」と小声で言った。

 彼女の発表は質疑応答も含めて酷く、副査から酷評された。それでも本人とエムカは満足げだった。信じられなかった。

 他のゼミでは口頭試問後に担当教官が主催して『打ち上げ』をするそうだが、エムカは「じゃあ」と一言だけ言ってすぐに退室し、ネッシーはその後を追った。私たちは唖然とした。

 達成感よりも虚しい徒労感だけが後に残り、私たちは学位記授与式での再会を誓って別れた。

 口頭試問後の2月に関西で最後のゼミをするとエムカから通知があった。今更何をするのかと思ったが、まだ修了は決定していない。欠席して何か悪影響があっては今までの苦労が水の泡だ。仕方なく出席することにした。

 集合場所はあるホテルで、集合時間は正午だった。嫌な予感がしたが、関西在住の私ともう1人が出席した。少し待たされて現れたエムカを見て驚いた。なんと長男を連れてきているではないか。

 この親子は、事前予約をしていたホテル内のレストランで私たちを前に会話を楽しみながら散々飲み食いした。
 エムカは息子の前で私たちに偉そうに振る舞い上機嫌だった。20代半ばの息子の態度も最悪で、この親にしてこの子ありだった。

 さらにエムカは、修士論文を学術論文にして投稿せよと言い、その論文のセカンドネームには自分の名前を入れるよう命令した。

 私たちは我慢に我慢を重ねた。テーブルの下で拳を固く握りしめて辛抱した。

 しばらくしてエムカは「君たちはもう少しゆっくりしていきたまえ」と言って親子で席を立った。

 後味の悪い昼食を終えた私たちはさらに驚いた。なんと会計が済んでいなかった。それだけではない。おみやげを2つも買っていた。その会計も済んでいなかった。完全な『たかり』だった。

 2人で会計を済まし、すぐに同期生に連絡して注意を促すと、他の地区でも学位記授与式までにゼミを開催する旨の通知がエムカから来ていたとのことだった。

 私たち2人は、この後、カラオケに行って思いっきり憂さを晴らした。

 学術論文には絶対に奴の名前を入れないと誓い合った。「自分で書け!」と心の中で毒づいた。

5.成績

 口頭試問後1ケ月ほどして成績が発表された。私の修士課程の成績は、科目はⒶが5教科、Aが5教科、Bが1教科。修士論文はⒶで、GPAは4点満点中3.53で、無事修士課程を修了できた。
 先輩には「修士号も情報収集能力だけで取った」とからかわれたが、とっても喜んでくれた。エムカ親子の『たかり』を話すと、「反面教師にすれば良い」と教えてくれた。

6.費用

 2年間の費用は総額55万円で、会社の『キャリアアップ支援』で全額を賄うことができた。エムカ親子の『たかり』は高い授業料として自腹を切った。

7.学位記授与式

 もう二度とエムカの顔を見たくなかった。同期生も全員が同感だった。そんな感情が所属学習センターでの式に出席するという選択になった。

 この選択は正しかった。計4年間お世話になった職員の方たちが祝福してくれた。私は非常にスムーズに学士号と修士号を取得した学生として職員間で有名だったとこの時に聞いた。

 式が終わって、先輩とA教授に御礼のメールを送信した。

 先輩からは「学歴ロンダリングの大成功おめでとう」、A教授からは「いつかどこかでお会いできることを楽しみにしています」と返信があった。

 ネッシーは修了できず休学し、エムカは大学院の指導教官を外されたらしいとランからメールがあった。「ざまあみろ!」と返信したら、「同感!」と返ってきた。

8.エピローグ

 先輩が言うように私の『学歴ロンダリング』が成功した。
 暫くは嬉しくて堪らなかった。先輩や会社に感謝した。しかし時が経つにつれて、これが私のコンプレックスの根源だったのかと思うと何故か虚しくなった。修士号を取得した前後で何も変わっていない。むしろ性格が前にも増して悪くなっただけだ。

 そんなある日、先輩に「学歴って何なのですか?」と相談した。

 先輩は笑顔で「ようやく分かったね」と言った。

 暫くして、セカンドネームに先輩の名前を入れた学術論文がアクセプトされた。
                 <了>