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私の修士号取得物語(上)

1.プロローグ

 専門学校卒という「学歴コンプレックスの塊」だった私が、「大学評価・学位授与機構(現大学改革支援・学位授与機構)」のシステムを利用して2006年に「学士号」を1年間50万円で取得した。

 長年のコンプレックスの源である「学士号」が呆気なく取れたので、変な欲求不満感があった。

 さらに、不足する単位を取得するため入学した「放送大学」との相性の良さを感じていた。 

 そんな折に、所属した学習センターで貰った「放送大学大学院」のパンフレットを眺めていて「ここで修士号を取ろう」と思った。

 早速「修士号取得計画」を立案した。

 丁度、研究の相方の博士号を取得している先輩から学士号取得後のことを尋ねられたので、これ幸いに計画の概要を話すと「面白そうだね」と言われ、実行に移した。


2.選科生の1年間

(1)計画の概要

 放送大学大学院修士課程には、全科生・選科生・科目生の3種類の学生の種類があり、私はまず書類審査で入学でき、在籍期間が1年間で、今後全科生となった場合にこの間の修得単位が認定される選科生に2007年になった。

 この選科生の1年間に11科目22単位を取得し、全科生になった時の課題と修士論文を準備し、「志望理由書」と「研究計画書」を作成し、指導教官を選定して全科生への入試に備えようと考えた。

(2)科目の単位取得

 科目は、放送大学の選科履修生時代にも駆使した「情報収集と分析」で選定した。その単位認定試験は、過去問が閲覧できる親切なサイトから入手し、通信指導の課題と問題を加味し、私の一生の宝である「過去問分析」で予想問題を作成して受けた。

 この予想問題の的中率は八割方あり、自分でも驚くと共に例の先輩から「学士号に続いて修士号も情報収集能力だけで取ろうとしている甚だけしからんヤツ」と愛ある毒舌で褒められた。
 
 その言葉通り11科目の評点は、ⒶとAが各5科目、Bが1科目という成績で、無事に入学から半年で科目の必要単位を取得した。

(3)その他の準備

 当初の予定通り、選科生の半年で科目の必要単位を取得したので、後の半年で「全科生時の課題」と「修士論文」の準備および「指導教官の選定」に時間と労力を充てようと考えた。
 しかし闇雲に準備をすれば良いものではないので、私は例のサイトから情報を収集分析し過不足なく進めた。
 その結果、2年間の全科生時には提出しなければならないレポートが4回あり、それを順に提出すれば自ずと「修士論文」が完成するというシステムであることを知った。
 また、2回目のレポートでは一編の英語論文の和訳が義務付けられていた。
 
 要は、この半年間に修士論文をある程度作成し、一つの英語論文を訳しておけば良いことを知った。

(4)修士論文の準備

 先輩に修士論文について相談したら、いとも簡単に「今、君が投稿中の論文を使えば良いんじゃないの。どうせアクセプトされるまで1年以上かかるから丁度良いと思うよ」と言われた。

 私は「それって良いんですかね?」と聞くと、「最初からそうするつもりだったんでしょ?」と悪戯っぽく笑われた。

 全部お見通しだった。

(5)英語論文の和訳

 英語論文はどんなものを選ぶべきかも先輩に相談した。先輩は当たり前のように「古典的論文」と断言した。
 
 先輩は「『最新』はすぐに古くなり、それが将来も評価されているかどうかは分からない。だったら、評価が揺るがない『古典』を選べば大丈夫。それに、それだったらもう訳しているでしょ?」。

 全部お見通しだった。

(6)指導教官の選定

 思いの外、修士論文と英語論文の和訳の段取りが順調に済んだので、希望するプログラムの指導教官の選定作業に入った。

 その情報収集作業の中で「希望する指導教官を2名リクエストできるが、それはほとんど考慮されない」という気になる書き込みがあった。

 先輩に相談すると、「これは運を天に任せるしかないね」と言われた。

 そこで私は、プログラムの各教員の「博士号の種類と取得大学、発表論文数、学会発表数、本執筆数」等々の業績を一覧表にして比較検討した。

 その結果、一人だけ「ん!?」と思う教授がいた。確かに博士号は有していて授業も担当しているが、論文と学会発表が一つもなかった。

 念のため検索してみたが1件もヒットしなかった。

 本の執筆に至っては、放送大学の教科書一冊のみだった。

 なぜこの人が、修士課程の教授なのか不思議に思って先輩に尋ねると「『M可』だよ」と教えてくれた。

 それによると、修士課程の教官には「M合丸、M合、M可」の3種類あり、M合丸は論文指導可能、M合は指導補助、Mは授業のみ可とランク付けされているということだった。

 「この教授に当たったら嫌だなぁ」と先輩に言うと、「心配いらないよ。この人が指導教官になるわけないから」と言われ安心した。

 私は、修士論文のテーマに関する論文や学会発表をしている教授2名を選定し、入学願書にその名前を願いを込めて記入した。

 そして400字の「志望理由書」と1000字の「研究計画書」を作成した。いずれも「具体的かつ簡潔明瞭に」を旨にこの研究で「新しい知見」の可能性があることを記述した。

(7)入学試験の準備と本番

 入学試験は筆記と面接で、筆記試験は英語の長文読解と小論文だった。公開されている過去問から英語は長文の大まかな和訳、小論文は出題されているテーマについて800字でまとめる形式だった。私は、以前から自分のテーマの情報と動向をある国際機関のホームページ(HP)で毎週定期的にチェックしていたので、その英語版と日本語版を読み比べ、その内容を週1回800字にまとめる練習をし、頻出するキーワードはカウントして出題テーマを予想した。
 面接はサイト情報から「圧迫面接」のようだったのでその対策をした。

 筆記試験は所属の学習センターが会場だった。英語は素直な文章だったので難なく回答でき、小論文も予想していたテーマだったので上手く記述できた。

 面接会場は千葉にある放送大学本部で、案の定、圧迫面接だった。私は先輩の「圧迫面接官には研究内容の魅力を語れ」の助言を胸に傲慢で高圧的な面接官に相対した。当初、踏ん反り返っていた彼らも私の研究計画書で示した新しい知見の可能性に興味津々となり、最後は身を乗り出して質問してきた。


3.エピローグ

 それから一月後に合格通知が来た。指導教官は4月のオリエンテーション時に発表されるとのことだった。
 
 予定通りに事が運び、選科生の1年間は順調だった。このまま全科生の2年間もうまく行って順調に修士号が取得できるはずだった。

 しかし先輩が「これから先は、指導教官との相性によるなぁ」と言っていたが、それが現実になることは、この時はまだ知る由もなかった。
                 <了>