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【雑記】 一次創作と二次創作

作家を目指している人は、どちら派とかあるんでしょうかね。

noteを始める前に、noteのコンテンツ記事を幾つか読んだ中で、作家を目指す人間は二次創作の執筆は時間のムダであることを熱心に説いている記事を見かけたことがあります。

note記事だけでなく、インターネット上には一次創作と二次創作において議論するコンテンツも存在します。

それだけ、二次創作に取り組むのは、
時間のムダだと指摘される、その理由には、原作者とファンが楽しめる作品を完成させる自信がなければ安易に手を出すべきではない。自信をつけるなら良いが、練習だと妥協するのは良くないという意見もあるからです。

また一つオリジナルの物語をたとえ書けたからと言って、作家になれる保証はどこにもない。
よって自分の実力がなければ、作家にはなれない。だからこそ、余所見をしている暇はなく、二次創作を書いている時間があるなら、一次創作に励めよ、っという指摘もあるのです。

凹みそうになりますが、
付け加えて、こうも指摘があります。

二次創作は自分の作品ではない。故に、他者の作品を自分の解釈で、書いてるに過ぎない。
だから、二次創作の執筆に時間を掛ければ掛けるだけ、時間のムダであると。

そう論破される一面があるわけです。


なので、私はその論破された定義について、兼ねてより、ずーと疑問に感じておりまして、

最近ようやく、
いやあ、そんなことないのでは?

という反対意見に繋がる話を、今から述べていきたいと思います。


それで、いきなり反対意見を述べるのではなく、二次創作は執筆の時間のムダという意見に賛成してた頃の話になりますが、

もともとは、二次創作の執筆に時間を作るより、一次創作に時間を掛けようという考え方は、正直、去年まで持っていました。
二次創作にかまけてしまうと、一次創作に取りかかれない。まさに仰る通りなのです。

人間は、一つの物事に取り組むのが、精一杯なので、一番やらなきゃいけないことを放置して、他の物事に取り組むのはタブーと捉えられる。また、聖徳太子のようにマルチタスクを発揮して、複数同時に取り行うことは難しく、逆にパフォーマンスは落ちてしまいがちとなる。

しかしですね、一つの物事に一生懸命に取り組むのは良い事だとは思いますが、そこには大きな盲点が実はあるなっていうことに、去年気付いてしまったのです。

盲目的であり、致命的な、弱点です。

それは、自分が作り出す作品が果たして面白いのかどうかは、永遠に決められないという点です。

例えば、一次創作で自分が最高の作品だと思えるものを生み出したとして、それが本当に面白いかどうかは、書いた本人は本来ジャッジできないのです。

その作品が面白いかどうかをジャッジするのは、他人でしか出来ないことだからです。

またたとえ、何人かの他人が面白いかをジャッジしても、それが一時的に面白かっただけで、あとから冷静に見たら、なんで面白かったのか、という評価が揺らいで変わることも、良くあることだからです。

悪く言えば、他人の評価は当てにならない。
そういう見方も出来ちゃうわけです。
怖い話です。できればそう思いたくはない。

また更に更に(二度言いましたが)、奈落の底に突き落とす話になりますけども
投稿サイトの評価だけで満足してしまうのも、自分の成長の妨げにもなるのかなと、最近思います。
なぜかと言うと、現状の評価だけで満足してしまうと、新たな執筆して完了→投稿サイトにアップ→評価に満足しまた執筆→投稿サイトへ…etc
を繰り返していく。

それで、自分自身の執筆の技術レベルはどういう判断基準で、技術レベルが高くなったと判断できるのでしょうか?

良いねの数が多ければ、その評価の全部は執筆の技術レベルが高いと言えるのでしょうか?

つまり重要なことは、技術レベルの高さに見合った作品は、他人が作品に対する共感を良いねとして示すだけでなく、他人があの作品は読むに値するというような推薦(レコメンド)をするまでになることが、実力があると認められる、のではないかと思います。

そして、最短で認めて貰えるために、賞レースに出ることが目標となるわけです。
中には、別に賞レースに出なくても、趣味で良いという人もいるかもしれません。
ただ、専業作家を目指す人には、賞レースを目指さないで、それを敢えて回避して専業作家を目指すのは、厳しいなと感じます。

というのも単純に、たとえば猛勉強をして、東大の過去問をスラスラ解けるような能力があったとして「自分は東大生と同じ能力レベルがあるから、東大生です」といっても、誰しもが東大生ですねって言えるでしょうか?

実際に、東大を受けて、受かって東大生としての学生証を提示出来なければ、それは自称東大生に過ぎないのです。

となると、賞レースで勝たないと永遠に「自称作家」の域から抜けられない、という話になります。

そして、賞レースに何度も何度も投稿しても、勝てない自称作家はこの世の中に物凄く多いわけです。やばい。強豪が多いシビアな世界!

それで、自分はそこへ向かっているわけですが..

去年の私は、応募したい幾つかの賞レースとなる過去の実績ページを確認したのです。
「受賞者と受賞者が書いた作品」「落選者と落選者が書いた作品」です。

受賞者の作品は、執筆の技術レベルが高いのは勿論ですが、どうして落選者は通らなかったのか、それを特に調べたんです。

ところが、その瞬間に調べたことを
私は激しく後悔し、また絶望を感じました。

がん消滅の罠 完全寛解の謎 岩木一麻

この、がん消滅の罠という本。
2017年 このミステリーがすごい!大賞受賞作品。
この小説、ものすごく面白くて、あっという間に読んだ記憶のある医学系のミステリー小説なのですが、実は過去に審査で落ちた作品だったのです。
審査で落ちた作品を、また作り直して数年後に再応募して大賞受賞に至った作品といわれる。

この事実を知ったとき、私は一度の応募で大賞を受賞した作品だと思っていました。
それぐらい個人的には最高の作品だなあと勝手に思っていたわけですが、一度目の応募では、審査員の基準には満たなかったというのがとても信じられなかったのです。

むしろ一度目に審査した人たちの目が節穴だったのではと疑ったぐらいで笑
ただ、評価の点で分かりにくいという部分が浮き彫りになったことで、作者はもう一度取り組み直して再応募したわけで。

その行動力に脱帽だなって思います。

専業作家を目指すというのは、果てしなき挑戦とも言えますが、何年も何年も何年も一次創作を書いても、実力が実を結ばなければ、永遠に自称作家とみなされる。

それで、自分自身の執筆の技術レベルは、どうやったらレベルアップできるのか、またレベルアップしたなと気付くのはどういう評価基準を設けたら良いか、その答えを出すことが凄く難しいとも思います。

単純に、一次創作だけを書いても、自分が成長してるという判断基準が持てないままでいるのも困ることである。

ならば、ある日思ったのです。
一次創作を取り組むときに、自分が今までに未知の分野に対する執筆というのは、それもどこまで出来るのだろうかと。

小説って、色んなジャンルがあります。
その中で「最も興味があって且つ難しくて取り組むには敬遠するもの」それを克服する事は、一次創作を取り組む上では、大きな飛躍になるかもしれない。
それが私の場合「タイムトラベルのSF物」「推理もの」です。


非常に前置きが長くなりましたが、

一次創作、二次創作、

その両方をいま、実は交互に書いています。

一次創作の方では、短編〜中編くらいの長さで推理小説を書いていて、

二次創作の方では、マーベル社のスパイダーマン主役のタイムトラベルの物語を書いています。

この二次創作においては、去年の冬から取り組んでいて、全10章分の内、第9章まで執筆が終わっていて、あと1章分を書いたら脱稿です。
長さは原稿用紙が100枚は簡単に超えています。

まもなく脱稿するので、新たに取り組む作品として、一次創作の作品も最近着手したわけですが、基本的に一次創作だけを作る人々からしたら、私の行動などは可笑しいと思うかもしれません。去年から今年の春にかけて二次創作に取り組むなんて、まさに時間ムダじゃね?
と指摘されることでしょう。


しかし、自分自身が苦手とする題材を寧ろ敢えて取り組むこと。そして、取り組んでいる作品が一体どこまで面白くなるかを突き詰めたとき、人は果たしてそれをどう読むのか、ジャッジも気になるところです。

何より、二次創作は素人でも取り組みやすいからこそ、同じようなネタで書いている人も非常に多い世界でもあります。

沢山のファンが集う二次創作の世界において、他人に読まれるとき「この作品は他にはない類似性がなく面白くてやばい!」と思える作品は、実はそんなに多くないのも現実です。
どこかで見たことのある既視感を感じるベターな作品が、二次創作の世界ではごく有り触れているからです。

だから、二次創作など取り組むだけ時間のムダと吐き捨てる人もいるでしょうが、私は敢えて、目指します。

この作品は他にはない類似性がなく面白くてやばい!と言われる二次創作を。

そして、二次創作で培った語彙力を一次創作にも活かすことを。


一次創作と二次創作、どちらも面白いと思える作品を全力で取り組んで行きたい。
今年は自分自身にとって難題を乗り越える機会、そんな年になりますかねぇ。


宝城亘.


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