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菅田将暉の熱量。



※本件は極めて個人的なレビューです。


2019年、秋冬。どうしても観たかった舞台「カリギュラ」しかし、チケットがまったく買えなかったために、悲しみに暮れながら観ることを諦めていた。

流石、菅田将暉の人気の高さ。半端じゃない笑
それから、年明けのある日にWOWOWで放送されるという予告を見て、録画必須でようやく観れた。

今日はタイトルの通り、舞台「カリギュラ」で主演を案じた菅田将暉について語りたい。

カリギュラの舞台
公演概要 *公式サイトより一部を抜粋

“不条理の哲学”で知られる20世紀のフランス文学界を代表する作家・アルベール・カミュ自身が、『異邦人』および『シーシュポスの神話』とともに“不条理三部作”と位置づけた傑作戯曲のひとつ『カリギュラ』。暴君として知られるローマ帝国第3代皇帝カリギュラを題材とし、1980年の映画版ではあまりの過激な内容のため「カリギュラ効果」という言葉まで生み出した。
ストーリー
ローマ帝国の若き皇帝カリギュラ(菅田将暉)は、愛し合った妹が急死した日に宮殿から姿を消し、その3日後に戻ってきた。その日を境にそれまで非の打ち所のなかった皇帝は豹変し、貴族平民問わず、何らかの財産を持つものを区別なく殺しその財産を没収する、という驚くべき宣言を出す。
しかし、それはほんの序章でしかなかった。

皇帝カリギュラを演じた菅田将暉。日テレ系列ドラマ「3年A組」を観ていたときに突き抜けるような演技を感じて、これは不条理の哲学を描く作家カミュの題材を彼が演じたらもっと凄いものが観れそうと感じていた。

「3年A組」と「カリギュラ」って、なかなか対極にある話だと思う。

「3年A組」は過去の事件を明るみにさせるべく、大胆にも生徒全員を人質に取りながらも己の命を懸けて無念な現実を突きつけSNSを通して人はどうあるべきかを一介の教師が教えてくれるドラマだった。

「カリギュラ」は妹の死をキッカケに破壊的な暴君となり残忍なやり方で政治を行う。しかし、もはや政治を行うと呼べるものではなく、階級に関係なく誰でも呆気なくカリギュラに殺されてしまう狂った皇帝を描いた物語だった。

教師の役も、皇帝の役も、非常に頭が良く同時に物事を残酷な視点で見ているキャラクターといえるのではないだろうか。そういう類似点がありながらも、それぞれに持つ信念は異なる。人間の持つ愚かさを考えさせてくれる話は菅田将暉が演じた教師役を通して視聴者に分かりやすく伝えたように思う。それよりも人間がどれだけ残酷になれるか、暴走した行いを繰り返しても実は何も解決しないことを暴君役を通して観客に届けたように思う。

そもそも、カリギュラに信念と呼べるものがあるのだろうか。それも疑問には感じているが、自身の行いをひたすら論理に論理を重ねて答えを探し出し、突き詰めた先にあるものは信念と呼べるのか。

教師役のキャラクターは法律を犯してまでも残酷な中にあるポジティブな思考が垣間見えるものだった。反対にカリギュラ役は極めて深いネガティヴな思考を持つキャラクターだった。

難しさでいえば、カリギュラの方がとても難しいキャラクターである。カリギュラの中にあるポジティブさは、どんな第三者でさえも理解に苦しむだろう。不条理の中にあるからこそのポジティブさなど、普通の人はあまり持たない。

だから暴走と化したカリギュラは、もはや精神に異常を持った人間として人々の目に映る。普通に生きる人々の思考ではないからこそ、人々はカリギュラを恐れ理不尽な出来事の数々に怒りを覚えて殺意が芽生える。

ドラマも舞台も、本当にどちらのキャラクターも熱量が凄いのだけど、その引き込まれる力強さを演じ分ける菅田将暉の演技に圧倒される。

やはり観れて良かったと心の底から思う。

今、この時代にその両作品を観ることが出来る感動は素晴らしいと、とてつもなく私は感じた。

宝城亘.


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