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特集#1 保育のプロって何のプロ? 「保育者」が体験している世界を紐解く。〜前篇〜

みなさんは、保育者の仕事にどんなイメージがありますか?

「子どもたちと一緒に遊ぶ、楽しそうな仕事」
「身体を動かしたり、ピアノを弾いたりする仕事」……

そんなイメージを持っている方も少なくないでしょう。
しかし、保育者が体験している「子どもと関わる」という仕事は、とても一筋縄ではいかないことばかり。
知性や観察眼、さらには自身の「あり方」が問われたり、深い内省を求められるものなのです。

そんなことを教えてくれたのは、日本大学芸術学部出身という異色の経歴を持つ社会福祉法人東香会理事(6月就任予定)、上町しぜんの国保育園副園長、ののはな文京保育園アドバイザー 青山誠さん。

「子どもと関わる」保育者の仕事とはどんな営みなのか、「保育のプロ」とは一体何のプロなのか?お話をお聞きしました。

青山 誠
社会福祉法人東香会理事(6月就任予定)、 上町しぜんの国保育園 副園長、ののはな文京保育園アドバイザー
日本大学芸術学部で「ドストエフスキー」「宮沢賢治」を専門に研究。卒業後、幼稚園、りんごの木子どもクラブ(横浜市の認可外保育園)などでの勤務を経て現職。現在、社会福祉法人では保育担当の理事を務めるほか、大学講師として教壇に上がったり雑誌・書籍などの執筆活動や、イベント企画も多数行う。著書に『あなたも保育者になれる』(小学館)『子どもたちのミーティング——りんごの木の保育実践から』(柴田愛子との共著/りんごの木)『対話でほぐす 対話でつくる 明日からの保育チームづくり』(フレーベル館)など多数。



子どもから見た、生き物の「死」の光景

「子どもの世界」と「大人の世界」の違い

ーー今回は「保育のプロって何のプロ?」というテーマでお話をお聞きできればと思います。そもそも保育者って、どんな仕事なのでしょうか?「子どもと関わること」とは、それほど特別なことなのでしょうか?

青山さん:それは、大人が体験している世界と子どもたちが体験している世界が違う、という前提から説明した方がいいでしょう。
子どもと大人、それぞれの世界で大きく違うのは「言葉」の有無です。

ーー「言葉」の有無?

青山さん:はい。大人はそれまでにしてきた多くの経験を、言葉によって意味づけし、整理して、コミュニケーションを取ります。でも、子どもたちは言葉によって意味が与えられる以前の世界を生きているんです。

カナヘビの死に出会った“シゲル”の経験

ひとつのエピソードを紹介しますね。
以前、関わった子に4歳のシゲルという子がいました。ある日シゲルはカナヘビを捕まえて、「トカポン」と名前を付けて大切に飼っていたんです。
ところが、ある日「トカポン、そろそろおうちに帰した方がいいかな」と言ったので、翌日に捕まえた場所に帰そうと約束しました。

でも、翌日、シゲルが「トカポン」を園に持ってきたときには、くたっとしていた。
僕の中では「あぁ、これ、死んじゃったな」と、「死」という言葉を用いて目の前の現象を理解したわけです。でも、そのときシゲルは「動かなくなっちゃったんだけど」と言った。

ーー「死んでしまった」とは言わないわけですね。

青山さん:そう。僕が「死」という言葉でその現象を把握できたのは、子どもの頃から直接的にも間接的にも「死」にまつわるさまざまな経験をしてきたから。

それはシゲルと同じように虫を捕まえて死なせてしまったことを「死」という言葉で理解した経験だけでなく、映画や小説で出会った「死」のシーンなども含まれます。でも、シゲルはそういった経験はまだしていない。

その後も、ずっと「死んじゃった」とは言わず「動かなくなっちゃった」と言い続ける。そして、彼なりに目の前の現象を把握していこうと、カナヘビの身体をまじまじと見るわけです。
まずは足を見て「カエルの足と同じ」と気づく。そして次に「目が死んでいる」と言う。

僕は「“目が”死んでいるということだから、まだ生き物自体が死んでいるとは把握していないのかな」と思いつつ、しばらくシゲルを見守っていました。
そうしたら、シゲルはふいに木の上に登って、「トカポン」を木にひっかけた。何をしているのかと思ったら「こうしておけば、早く天国に行けるかな」と言ったんです。

ーーだんだん「死」を受け入れはじめている……?

青山さん:そのうち、ほかの子どもたちがシゲルのもとにやってきたんです。その子たちは、シゲルよりも入園時期が随分早かったから生き物の死はすでにたくさん経験済み。

ぱっと見た瞬間に「おれ、トカゲたくさんいるところしっているよ」と言いました。もう「トカポン」が死んじゃっていることは、彼らは経験のなかから了解しているわけです。でも、シゲルの世界の中で、まだ「死」という概念を獲得しきれていないのか、ずっと無言で。

結局、いろいろ思案したり、試した末に、草むらに「トカポン」を投げて、じっと見つめていました。最後は「俺ずっと世話していたのに、なんで死んじゃったのかな」と半分怒り混じりで話していましたね。

ーーシゲルのペースで、徐々に目の前の状況を「死」の経験として把握していったんですね。

青山さん:そう。このように言葉以前の世界を子どもたちは生きているんです。それがゆくゆくは経験や言葉と結びついて、概念整理が行われていく。子どもたちは時間とともに言葉を得ていきます。

保育者として大切な姿勢は、その時間を追い越さないこと。大人は言葉から入って目の前の状況を把握しようとしますよね。でも、先に言葉を与えてしまって、子どもたちが世界を経験していく時間を追い越さないようにすることが保育者としてとても重要なんです。

大人ってついつい、子どもたちとの間にある知識や技量の差によって、教える側に立とうとします。そして、ものごとの良し悪しや、社会的なルールを教えると同時に、そうした価値規範を基準に子どもたちに成績表をつけるように“評定”していく。

でも、本当に大切なのは、子どもたちの声に耳を澄ますこと。保育者は、教える・教えられる関係性だけには収まらない存在だと言えるでしょう。

「大人目線で教えない」保育者だけが実践していること

ーーたしかに普通の大人だったら、「それは“死んじゃっている”って言うんだよ」と教えてしまいそうです。なぜ保育者は、教える・教えられる関係性から離れることができるのでしょうか?

青山さん:そのことを理解するためにひとつ問いを出しましょう。いわゆる一般の大人と保育者で決定的に違うことがあります。それは何だと思いますか?

ーー子どもたちの発達に関する理解などでしょうか……?

青山さん:残念。答えはもっとシンプル。それは子どもたちへのまなざしです。

ーーまなざし……?

青山さん:はい。医者だろうが、学者だろうが、近所の八百屋さんだろうが、世の中の一般的な大人は子どもたちを”対象”として見ます。

たとえば、医者だったら「この子、ちょっと風邪気味だな」、近所の八百屋さんだったら「一人で買い物できるようになって、成長したな」など。子どもたちの発達に詳しい大脳生理学者や発達心理学者も、研究に際しては抽象化され、一般化された「〇歳児」という枠組みで子どもたちを対象として見ます。

でも、保育者だけは目の前にいる子どもたちが見ている世界を、子どもの隣で一緒に見ようとする。ここが一般的な大人と保育者の大きな違いです。

世の中で唯一、保育者だけが実践していること

保育者だけが、子どもと一緒に毎日のように鬼ごっこをして、カレーライスを食べて、泥遊びや水遊びをする。
だから、子どもが感じていることを身体でともに感じることができる。たとえば鬼ごっこをしているとき「昨日よりも今日は走っていて暑いな」と、その子と一緒に世界を感じているわけですよね。

たしかにママやパパもそうやって子どもと一緒に経験しているかもしれない。でも、生活の中で常にそうすることは難しいはずです。いつも子どもたちと一緒の世界を感じようとする。それが保育者なんです。

「一緒にいる」からこそ感じる、子どもの他者性

青山さん:ただし、ここで大切なのは、いくら一緒に同じ経験をしているからといって、見ている世界が完全に重なることはないということ。

「一緒に世界を感じていたと思っていたけれど、実は違った」という経験は決して少なくありません。「楽しそうにしていたけれど、実はあのときさみしかったのかもしれない」など、自分が感じていたことが覆される経験を保育の現場では何度も味わいます。

そんなときに保育者は「目の前の子どもは、あくまで一人の他者」だということを身を持って感じざるを得ません。
「一緒にいて同じ風景を見ていても、この子のことを完全に理解することはできない」ということを思い知る。

でも、子どもの内面に見えない部分があるのは当たり前なんですよね。だからこそ、見えてない部分を思いやることが何より大切なのかなと。

「私はこの子を、完全に理解している」と決めつけるのではなく、どんなに仲良くなっても、どんなに心が通じていても、自分には見えない部分があるとどこかで踏まえておく姿勢は大切です。それは相手が、子どもだろうと大人だろうと同じことですが。

「いかにモヤモヤに耐え得るか」こそが保育

ーー青山さんの話を聞いていると、「保育のプロ」とは「上手に子どもたちに言うことを聞かせられる」「大勢の子どもたちを盛り上げられる」といった技術的な側面ではなく、子どもたちと向き合う姿勢やあり方であるように感じます。

青山さん:そうかもしれませんね。
保育の実践には「手立て」と「見立て」というものがあります。「手立て」は、実際に取る対応のことです。「上手に子どもたちに言うことを聞かせられる」「大勢の子どもたちを盛り上げられる」といった保育スキルは、「手立て」の部類でしょう。

おそらく、「上手な」保育者に対する世間的なイメージはこの「手立てに優れた保育者」だと思います。でも実は、それらのスキルは数年保育の現場にいれば誰でも身につけることができます。

だから、私たち保育者から見ると「手立て」よりも「見立て」に優れた保育者の方がリスペクトの対象になるんです。


青山さん
:たとえば、ある子が散歩から帰ってきて玄関で勢いよく転んで泣いたことがありました。
僕はその子に「痛かったね」と声をかけたんですが、担任の先生は「違うよね。悔しかったんだよね」と声をかけた。すると、その子は「うん」とうなづいたんです。

これは、担任の先生の「見立て」が深いということ。
その子が「いつも一番になりたい」という想いを持っていたけれど、転んで一番になれなかったから悔しがっているのだろうということを「見立て」た。

僕の「転んだから痛くて泣いているんだろう」という「見立て」だけだったら「よしよし」と膝を撫でる「手立て」だけで終わっていたかもしれない。でも、それはその子からしたらとんだ見当違いなんですよね。

ーー「見立て」の深さが保育者の力量にもつながるということでしょうか。

青山さん:“深さ”だけではありません。「見立て」の“幅広さ”も保育者の力が試されるところです。個人的には、実際はモジモジして優柔不断そうに見える保育者の方が優れていることが多いように思うんですよ。

モジモジした保育者こそ優れているワケ

ーーと、いいますと?

青山さん:もしかしたら保護者からみて「頼りになりそう」と思えるのは、歯切れよくハキハキ喋る人の方かもしれません。
でも保育の現場においては、ハキハキしていて、一見明晰に見えても、子どもたちに対して「この子はこういう性格だから、こういうことをするだろう」という一方的な「見立て」の上で限定された「手立て」を行ってしまっていることだってありうるわけです。

一方、優れた保育者というのは、いつも複数の「見立て」を行っているから、うっすら迷いがあります
たとえば「もっと早く手を繋いであげればよかったのかな。抱っこの方がよかったのかな。それとももっと放っておいてほしかったのかな」のように。
だから客観的に見ると、「モジモジした人」のように見える。

なぜ「モジモジした人」の方が保育者として優れているか、それは子どもの立場で考えてみると分かります。
子どもたちにとってみたら、仮に行われた「見立て」や「手立て」が望ましいものではなかった場合、「あぁそうじゃなかったね」と振り返って、別の「見立て」や「手立て」をしてくれる保育者の方が信頼できるでしょう。

ーーたしかに冒頭のシゲルのエピソードでも、ずっと青山さんは「見立て」に集中されていたように思います。

青山さん:はい。子どもたちといるとわからないことも多いし、答えなんて出ない。だから、いつもモヤモヤしているし、迷っています。

でも、それでいい。保育の実践で一番大切なのは、「いかにモヤモヤに耐え得るか」
今、世間ではモヤモヤした状態を嫌ったり避けたりする人も多いと思います。そんな世間の価値観と対岸にあるのが、保育の世界ではないでしょうか。

後篇につづく

撮影:飯坂大
インタビュー・ライティング:小林拓水
企画・編集:市川敦史(株式会社Reproduction


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