介護と保育と感情と仕事


はじめに

ひとつ前の記事を…

この面談後、介護に向き合う気持ちが少し変わった。
なぜ変わったのかを、今回は自分なりに考えてみた。

保育者時代の感情

まずは、保育者時代にどのような思いで保育をしていたのかを書いておきたい。

  • 大きな声を出さない

  • 声をかける際、聞こえない場合は近くまで行く

  • こどもの人権を最優先に考えた声掛けを行う

  • こどもと横の関係であること

細かく上げればもっと沢山あるのだが、保育において対象とするこどもの年齢やその日その時の状況によって対応も変わってくるため、この時は必ずこうするというような内容は書く事が難しい。物的・人的環境が日々刻刻と違う為、それに柔軟に対応するのが保育においては大切であり醍醐味でもあるかもしれない。

保育をしている時は、ほとんど感情的になる事はなかった。
「ほとんど」と書いたのには、保育の仕事を始めたばかりの時はそうではなかったからだ。
前置きとして書いておくと、保育者時代後半は保護者から「先生の関りや寄り添いが親としても参考になります。」と伝えていただけるほど、丁寧にかかわる事ができていたと思っている。しかし、そんな自分も最初の頃は、「べき・ねば」の考え方が強い人間だったので、こどもたちの為にしっかりと教え込まなければいけない。と自分の思いばかりで「指導」していた時期があった。しかし、それは保育者側のエゴであり、結局はこどもたちを自分の意図で動かそうとしている事に気づいた。そこからは、こどもたちの伴走者として仕事をする事を心がけた。なぜ気付いたのかは、長くなるので別の機会に改めて書きたいと思う。

介護へ

保育から一転。介護の世界へ入ったのは、保育の仕事を11年経験してからの事。
前回の記事に書いているが、介護の世界に入ったのは所属している組織内の配属によるもの。
未経験ではあったが、これも糧となるはずと前向きに捉え、介護の世界へ飛び込んだ。
後から書くが、上に書いた「これも糧となるはず」がどんどん自分の心をむしばんでいく事となる。

保育と介護 支援者の心構えは一緒?

介護の仕事をするにあたり考えた事。
大学が社会福祉学部であった為、浅くはあるが介護の知識は多少なりとあった。福祉の範囲は広いが、高齢者福祉・児童福祉・障がい者福祉どの分野にも通ずるのは「基本的人権の尊重」。人を相手にする以上、そこはまず第一であり、保育と介護は心構えとしては一緒である。と考えていた。

介護を始めて最初の頃は、保育と介護がどうと考える余裕すらなく、仕事を覚える事に必死だった。年齢も30を軽く越えており、周りのスタッフに迷惑だけはかけまいと毎日がむしゃらだった。こどものおむつ交換と高齢者のおむつ交換は勿論の事ながら全く違っていたし、覚える事は山ほどあった。

そんな中でも、少しずつ仕事をこなせるようになり、自分の思考を挟む隙間も少しずつできた。
笑顔で接しても、丁寧に関りを持っても、叩かれたりつねられたり、時には罵声を浴びせられたり。
保育者の時、こどもたちの叩く蹴る、暴言に対しては寛容になれていた。勿論、叩いたり蹴ったりされるのは大人も痛いことは伝えるし、暴言を言われれば悲しい事も伝えていた。発達段階を考えれば、繰り返し伝える事でこれから理解できていくだろうという予測も立てる事ができた。
しかし、介護ではそれが一切通じない事に気づいた。何度繰り返し伝えても、言われたこちらが辛いと言っても、認知症の方はしばらくすると忘れてしまう。それは本人に悪気はない。しかし、言われた方は残ってる。
罵声を浴びせられたり、叩かれてしばらくしてからにっこりと笑いかけられる事に感情が追い付かなかった。その笑顔に段々と応えられなくなっていった。

そして
なんだ、保育と介護。同じなんかじゃないじゃないか。そう思うようになっていった。

辛くて苦しい日々の幕開けだった。

介護と保育を切り離す

介護と保育はやはり根本から違うのだ。と思った。
だから切り離して考えることにした。
そうした方が、自分が辛くないのではないかと考えたからだった。
同じ人に関わる仕事だけど別物。
笑顔で返しても唾を吐きかけられる事だってあるのだから、無感情で目の前の「作業」を淡々とケガの無いようにこなすのが一番。
そう思って仕事に取り組み始めた。

なんとか楽しくしようとする

そうやって取り組む仕事は、実に面白くなかった。辛さは日々増していくばかりだった。
しかし、性格はポジティブシンキング。たまたま配属が特別養護老人ホームだったからと言って、根本の部分を選択したのは自分。特養に配属される可能性だって0ではない事は分かっていた。ここで弱音を吐いてはいけない。この環境下でも、自分なりに楽しくやれる方法があるはずだ。
そう思って楽しくする方法を模索した。
本も読んだ。保育者時代アドラーに出会い保育が変わった経験もある為、アドラーの書籍も読み返した。でも、それを介護に落とし込むことができなかった。
しだいに介護への憤りは、怒りに変わっていった。
心の中でも外でも常に怒っていた。
怒りに取り込まれ抜け出せなくなっていた。
それでも前向きになりたくて何度も何度も考えを切り替えようとした。
切り替わったと思う時もあった。だけど、すぐに元に戻ってしまう。
もう介護を離れるしか、この怒りから抜け出る方法はない。そう思っていた。
楽しくなんかならなかった。
だから、自分の心を保つ為に仕事中は何にも反応しないように心を閉じる事にした。それでも怒りは増すばかり。その心のモヤモヤを一時的にでも晴らしてくれるのは、仕事外で大切な人に話す事や保育仲間と保育の話しをする事だった。プライベートのそれが、心を支えてくれていた。
仕事で怒っている自分。
プライベートで笑っている自分。
もうどっちが本当の自分なのか、自分自身が疑うようになっていた。

何回も言うが辛くて辛くてたまらなかった。

怒りの正体?

でもこの辛さが、なぜか1日でなくなる出来事が起こる。
上司との面談だ。
この際だから介護が辛いことから、この組織に対する不満まで全部ぶちまけてやろうと思ってた。
上司は否定をせずに話をずっと聞いていた。
そして、ひとしきり話が終わると。下を向いて深く息を吐くような仕草で出た言葉が
「あなたは本当にそちら(保育)の人なんだね」
だった。
一気に力が抜けていくのがはっきりとわかった。
介護や利用者に対して怒っているとずっと思っていた。
しかし、自分の怒りはそこではなく別の場所にあった事が一瞬で理解できた。
【保育を離れた事での寂しさ】←自分自身の選択に対する怒り
【組織が自分を介護へ配属させた事への憤り】←組織への怒り
これが自分の中に渦巻く怒りの正体だった。
無意識うちに怒りの本質に気付かないように、必死で他の怒りを作り上げて隠していたんじゃないかと思う。

怒りを隠した最初のところは、保育を離れるという選択肢が正しかった事を証明する為だったかもしれない。
自分にはここを経験することで新たな視点が見えてくるはずだ、この経験は必要なものだ。そう思い込むために。
でも、そう思い込まなければ自分の選択が間違っていた事になってしまう。
多分そうなるとメンタルは総崩れになったかもしれない。

少しずつ少しずつ誤魔化していた怒りがもうどうしようもない所まできていたのだろう。

そんな時に
自分の核となる部分を曝け出した。それを自分の意図しない形で上司から認められた。
肯定や否定ではなく、ただ在るという事を。
それが自分にとってどれだけ大事だったのかという事を。

まとめ

自分の核が認められる事で何が起こったのか?
自分らしさが戻った。自分らしく在って良いのだと思えた。
核を取り戻すことで、本来自分は怒る事へのエネルギーをもったいないと感じている事も思い出した。
何に怒りを感じているかが分かったことで、怒りを手放すことができた。

怒りはその本質を捉えなければ、その場しのぎの対応をしてもまたすぐに、ぶり返してしまう。
自分の中のそれと向き合うのは、かなり辛い作業になる事もあるが根本の解決をしたいのなら必要な事だと思う。

上司と話した後、もう大丈夫な気がする。そう思えた。
でも少し怖かった。
大丈夫と思っても、この3年間幾度となく怒りは復活し続けたのだから。
以前の大丈夫は怒りの本質を捉えずに出てきた答えだったのだから怒りの復活は当然と言えば当然だったのかもしれない。

自分の核を取り戻すって本当に大事なのだと思う。

最後に…

「あなたには笑顔が似合う」
この言葉を言われるのが好きだ。
何よりも笑っている自分が好きだ。
介護の現場でも、そう在りたいと思っていたけどできなかった。
できなかったんじゃない。しなかったんだ。
自分らしくいる事が、自分の保育を離れた選択を否定してしまう気がしてたから。
でもさ
自分らしさ否定して過ごすことほど辛いものはないよ。

保育者時代にこどもたちに伝え続けていたことを今こそ自分に言う時なんだなって思ってる

あなたはあなたのままでいい
あなたはあなたのままがいい

どんな行動をしても
どんな失敗をしても
あなたの味方でいるよ
あなたのそばにいるよ
だから大丈夫
あえて言葉にすることはなかったけど、こどもに向き合う時は常にこの姿勢だった。

笑顔が似合わない人はそんなにいないんじゃないかと思う。
無理に笑おうとすると辛い時だってある。
でも僕は笑う事をあえてしないようにしていた。
それが自分の心をどれだけ蝕んでいた事か。
無理に笑わなくてもいい。
だけど、心から笑えるのなら
その笑顔をためらう事はない。

さぁ今日も俺らしく笑って過ごそう♪

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