見出し画像

 私は、昔からよく自分よりも一回りも二回りも上の人から落ち着いているだとか実年齢よりも上に見られる事が多いのですが、一番印象深かったのは親戚の葬儀の時に何十年ぶりに会った80代の方から当時20歳でしたが「貴方、色々あったのね。だって、雰囲気が私と同じくらいに感じるもの」と言われた事でした。思わず、どんな雰囲気だよ!?と、ツッコミを入れたくなりましたがそこは苦笑いを浮かべていました(^_^;)

さて、そんな輪廻転生をした私ですが……(輪廻転生したのかよ!?)冗談はさておき、今回は死生観についてのお話です。

皆さんは、自分の死生観って持っていますか?

死生観とはつまり、簡単に言うと死と生に対する自分なりの考えであり意外とこの限りある人生を生きていく上で大切な事なのではないかと私は思っております。

私は、前途した通りまあ人より少しだけ若いうちに色々と経験してきた事が多く、今はそれこそ第二の人生を生きている感じすらあるのですが、その中でも特に強く思った事が“人は、そう簡単には変われないが窮地に立った時には変わる事が出来る"と言う事です。

人の心の中には常に"甘え"と言うものがあり、それは親にだったり友達にだったり、恋人にだったりはたまた自分自身や地位にだったりと様々です。そして、精神的な甘えは人を我儘にしてそれは時には他人に対しての期待や自分への過大評価、傲慢な態度としても現れ、それが思い通りにならないとストレスとなりイライラへと繋がります。

私も昔は何をやっても要領が悪い自分が嫌いでした。その癖、周りが何か自分を攻撃したりすると腹が立ち、時には自分を責め常にストレスに晒されていました。特に、現代社会はストレス社会とも言われているように敢えてストレスを与えるような情報やSNS、社会制度により人々のもっと自由に生きたいという思いとは反対の行動を取っているのですから不満が溜まるのは当然ですよね。

ですが、私は高校の時に出会った本の中の一節で人生について考え直しました。それは、「人は、死に向かって生きている」という言葉です。

そしてもう一つ、シスターの書いた本の中のキリストの話でこういうものがありました。「キリストは、三人の弟子に同じ額のお金を渡して私が帰って来るまでそのお金を預かっているように言いました。一人は、そのお金をそのまま大切に隠して保管しました。もう一人は、そのお金を使い、物を売り買いして最終的には元の金額よりも増やしたそうです。そして、最後の一人はそのお金を全て使い切ったとの事でした。でも、キリストが帰ってきた時に三人に預けたお金を渡してもらった時にこの中で唯一叱られたのはそっくりそのまま保管していた弟子だった」という様なお話でした。

これは、私のその時の解釈なのですがこのキリストが平等に渡したお金というのは自分の能力・才能の事であり、キリストが帰って来る=死を迎える時という事で死ぬまでに自分がどのくらいその才能に気付き活かせたか?を説いていたのではないか?と思ったのです。

そして、肉体は器であり自分とはその中にある魂で肉体自身も借り物であるという事に気付いた時に、私は今迄共に過ごしてきた自分自身の事を今まで一度も客観的に考えた事がなく、ぞんざいに扱ってきた事に気付いた時慈しみ愛する事を知りました。

さらに、9.11の時の実際の遺族が書いた本で最愛の人を亡くした人の言葉が胸に刺さりました。

「もっと、愛していると言葉にして言っておけばよかった」

これは、恋人か伴侶に向けた言葉でしたがいつも一緒にいる妻や夫、彼氏や彼女、子供達や家族に気恥ずかしくて普段は言えない「愛している」という最大の愛を表現する言葉。

言葉は、本当に大切なものであり実際に口にして言わなければ伝わらないものです。そして、その中でも"愛している"・"有難う"等のプラスの言葉は特別なものだと感じました。

毎日同じ様な日々でも、同じ日は二度と来ない。そして、いつ尽きるかも分からないこの命。

その考えに気づいた時に、例え今が苦しくても今というこの時間がとても重要に感じ、一日一日一時一時を大切に生きる事を心掛けるようになりました。

そして、その考えに気づいた瞬間ーー何故でしょうね。周りの人間も花や動物も全てが愛おしく感じ、特に植物に関わる事が好きになり自然と笑顔が増えるようになりました。

私は、死は生きていく上での終着点であり、生を全うした時にのみ迎えられる場所で、そこで自分自身がどう生きてきたか?後悔なく生きられたか?という事を問われる様な気がしています。

今、生きている事に感謝を。そして、二度と来ない今という時間を噛み締めて一日一日を丁寧に過ごして行きたいですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?