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「サピエンス全史 下」 スペインによるアステカ帝国の植民地化と日本の幕末明治維新を考える

15世紀にメキシコ一帯を支配していたアステカ帝国。本書にはそのアステカ帝国をスペインが滅ぼし、植民地にした工程が記されている。これが非常に興味ぶかい。

なぜかというと、その流れが日本の幕末にそっくりだからだ。とはいえ流れはそっくりであっても、その異国人の来訪にたいしてのアステカ人の行動と、日本人の行動に違いがみられる。その違いについて考えてみたい。

そのまえに、まず幕末における欧米の日本植民地化について軽くネットで調べてみた。するとまあ、さまざまな説がでるわ、でるわ。それらの説を大きくわけると、欧米は日本を植民地にしようとした説と、植民地にする気はなかった説だ。どちらが定説かなんて、ボクなんぞがわかるわけがない。

そこで両方の説を意識しながら考えてみることにした。つまり、欧米が日本を植民地にしようとしたのなら、なぜそれができなかったのか。またそうではなく、日本を植民地にする気がなかったのなら、なぜ彼らは世界中の土地を植民地にしたのに、日本を植民地にしようとしなかったのか。

ではアステカ人と日本人の行動の違いをくらべてみる。最初にスペインは、アステカ帝国の玄関口であるカリブ諸島の先住民をほぼ全員虐殺し、そこにアフリカの奴隷を送りこんで植民地とした。その後、1519年にスペインはカリブ諸島から巨大な船で、アステカ帝国に乗りこんできたのだ。これは日本では、1853年の黒船来航にあたる。

このときのアステカ人にとって、スペインの船ほどの巨大な船はそれまで見たことがなかったという。またアステカ人は、このときに初めて白い肌の外国人を目にしたというのだ。アステカ人はスペイン人を、神か悪魔か、霊か魔術師か、とにかくあまりの恐ろしさに戦うことなく、グズグズと長い時間をかけて交渉し、最終的には恭順の意をしめした。

いっぽう幕末の日本でも、巨大な黒船に多くの日本人が驚かされた。そして幕府はアステカ人と同様にグズグズと長い時間をかけて欧米人と交渉することになっていった。ところがその幕府の姿勢にたいして、下級藩士らは不満をいだき、そして全国に攘夷論が拡がっていったのだ。つまり外国人を追い払えというのだ。なかには外国人にたいしてあからさまに敵意をいだく者もあらわれ、生麦事件から薩英戦争、また下関戦争などがぼっ発した。日本人は欧米列強に対して、抵抗をしめし戦ったのだ。

恭順をしめしたアステカ人は、スペイン人を首都まで進むのをゆるし、さらに皇帝にまで引き合わせた。するとスペイン人は会見中に、皇帝の護衛たちを斬り殺し、皇帝を捕虜にしたのだ。しかし表向きでは皇帝は何ごともなかったかのように振るまい、スペイン人は裏で皇帝をあやつることになったのだ。

いっぽう日本では、将軍徳川家定と欧米との会見があったかどうかは定かではない。しかし家定は病弱なうえに障害を患っていたため、公務のほとんどを老中である阿部正弘が取りしきっていた。そのため、欧米との交渉は老中阿部がほとんどを担っていたであろう。つまり欧米は将軍家定とはほとんど会うことがなかったにちがいない。家定が暗愚だったことが功をそうしたとも考えられる。

アステカ帝国の皇帝を裏であやつるようになったスペイン人は、なんと国内で内乱がおきるように仕向けるのだ。アステカ帝国のへの不満分子をつくり敵対させたのだ。そしてスペイン人はなんとその不満分子の側に立ち、アステカの皇帝や家臣らを皆殺しにして、アステカ帝国を陥落させたのだ。

はなしはそれだけでは終わらない。その後、スペインは本国からぞくぞくと兵士を呼びよせるのだ。そしてその兵士らが持ちこんだとされる、スペイン人には免疫のある天然痘が流行ったのも重なり、残りのアステカ人は病死や虐殺によって全滅することになった。つまりこれでアステカ帝国は完全に滅亡し、スペインの植民地となったのだ。

いっぽう日本でも内乱がおきた。戊辰戦争だ。この戊辰戦争は、幕府と薩長が対立するように欧米が仕向けたかどうかはわからない。ただこのとき欧米は薩長土肥、つまり幕府に対しての不満分子側にせっせと武器を提供したのだ。そしてこの戊辰戦争によって、幕府は完全に倒れた。

しかしここからがアステカ帝国とは違うのだ。アステカ帝国は不満分子側もスペインによって滅ぼされた。ところが日本は、日本人だけの新しい国家を作り上げたのだ。明治維新だ。では日本はアステカ帝国と比較して、なにが違ってて新しい国家を作れたのだろうか。

これはボクの憶測だが、アステカ帝国が持っていた武器は、木剣やヤリだった。対するスペインは鉄砲や金属の剣によろいだ。つまりアステカ帝国内の内乱とはいえ、戦争のすべてを支配していたのはスペインなのだ。

いっぽう日本は戦国時代から、欧米に近い武器を独自につくり、そしてつかいこなしていた。薩英戦争でも下関戦争でも、欧米は日本の強さに目を見張ったにちがいない。下関戦争ではたかだか長州藩一国を攻めるのに、英・仏・蘭・米の4カ国が連合となったのがものがたってるように思う。日本人の戦争は、欧米が支配できるようなものではなかったということだと思うのだ。

最初の問いにもどる。欧米が日本を植民地にしようとしたのなら、なぜそれができなかったのか。それは日本が彼らの思った以上に抵抗をしめし、彼らの思った以上に日本人が強かったからではないだろうか。

またそうではなく、欧米は日本を植民地にする気がなかったのなら、なぜ彼らは世界中の土地を植民地にしたのに、日本を植民地にしようとしなかったのか。それは1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸してから始まった日本の調査で、日本は彼らの思った以上に文明が進んでいて、彼らの思った以上に戦争のレベルが高かったからではないだろうか。

ともあれ、この幕府明治維新に関しては、さまざまな説があるようだ。歴史研究の専門家でもさまざまな意見があるのだから、素人のボクが研究したところで、なにが正解かなんてわかるはずがない。しかしこれらのさまざまな説を自分なりに検証し、自分なりの正解を導きだすというのは、じつにたのしいものだ。

以前、幕末にハマったときは、通説とよばれるものを知るのに精一杯だった。しかし、ここでもういちど幕末を研究し、そして諸説を自分なりに検証してみたくなった。

歴史ってじつにおもしろいッ!

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