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中庸でいること

中庸(ちゅうよう)・・・
どちらにも片寄らないで調和がとれていること。両方の良いところをバランスよく取り入れるような考え方。

良いか悪いか、天使と悪魔、光と闇、敵か味方か、男性と女性など、ほとんどの言葉に対義語があるように、この世界は2極に分かれています。

どっち派?どっちが好き?
2択のどちらかを選択する機会も沢山あります。
それが当たり前であり、普通のことで、疑問すら持つこともあまりないかもしれません。
(究極の2択ゲームや、きのこ派?たけのこ派?みたいな話が楽しかったり^^)

でも、闇がないと光も存在できないように、悪者がいないとヒーローが存在しないように、どちらも表裏一体で同じもの。
元々ひとつだったと考えると、両極端なものはこの幻想世界で生きる為に創造されたものなのかもしれません。

実際、良いか悪いかのルールや規則があることでこの世界は一定の秩序が保たれていますし、幸せに過ごせることも沢山あります。
しかしそれすら反対となることがあり、そのルールや規則、2極に分かれた考え方が私たちを苦しめていることも多くあります。
いろんな場面でどちらにも当てはまらないことも沢山あり、当てはめないほうが物事が上手く進んだり、自分が快適になることも。

私自身「白か黒かはっきりしてないものは嫌!!」という、曖昧なものを良しとしない考え方をしていました。
でもある時、その考えを持っていることが自分を窮屈な檻に入れているのかもしれないと思うことがありました。
そのキッカケとなったのは、病院で看護師をしてる方から「人は自分が亡くなると(肉体の死を)感じたとき、会わなくなった友達を思い出して会いたくなる人が多い」という話を聞いたことでした。
よく思っていなかった人や縁を切った人にも会いたくなり、もうそれが叶わないことに深く後悔する人が多いそうです。
自分を赦し、他者を赦せた時だったのかもしれません。

この話を聞いたとき、これまで自分と合わないと感じた人や傷付けられた人に対して、心では許していても、その人と距離をおいてきた自分と重なりました。
心では許していたというのは、合わないところがあるのは当たり前であり、私の事を心底傷つけてやろうと相手が思っていないことを、心では理解していたからです。
「好きか嫌いかのどちらか」「曖昧なものは良しとしない」というマイセオリーは、当時の私の自我的考えでした。

今からその人達ともう一度仲良くとか、合わない人や傷付けてくる人とも仲良くしようという話ではなく、「白か黒か」という2つしかない選択肢を拡げていくキッカケになりました。

私の場合、何かに対して「これが良いんだ!!!これが私のやり方だ!!」と強く思っているときほど、大体エゴ・自我の考えや誤ったプライドです。
真我(本当の自分)には、良いも悪いも、白か黒かといった2極に分かれた考えなどはありません。

1+1は2だけでなく、3にも4にもなることを本当は誰もがどこかで知っています。
「そんなことがある訳ない」と思うとき、2極に分かれた世界のルールや規則にそう思わせられているのかもしれません。

「中庸でいること」
孔子の論語からきている言葉・考えだそうです。
このどちらにも偏らない視点(真我の視点)を持ちながら、2極に分かれた世界を見ていくことが、今まで以上にこれからの時代とても大切になる気がしています。


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