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大学の学びは贅沢か?-生活保護になって退学しました-

 5月末を持って大学を退学しました。大学7年生までいた私は残り1単位を残して退学という結果になりました。退学届には「持病の療養と学費の工面のため。また、生活保護受給中のため大学に通えないため。」と書いた時に何か違和感を覚えたのを今でも手に残っています。

1番最初に書いた生活保護日記では、休学中の生徒は病気が理由であれば生活保護を受給できるとのことを書きました。まさに私が生き証人であり実際受給できたのは事実です。毒親のもとから逃れ大学側にもたくさん配慮をしてもらってわたしの持病と実際の勉学とバイトの両立、生活まで回すことは不可能でした。休学という延命治療を使っても在籍できるのは8年生まで、休学を伸ばし続けても現実的に生活基盤が整っていないと大学生をやることはできないのです。例えば、一時期シェアハウスにいましたが、どんなに仲の良い友達と住んでいたって自分の生活に入り込むことになるので衝突は起こります。また、学生と社会人が一緒に暮らすことは家賃面でも少し減免してくれた通り、普通に暮らしていてもやや自分にとって心苦しかったり対等な立場にいれない、なにかしらのヒエラルキーが生まれざるおえない状況なのが居た堪れなかったです。

しかし、退学届に書いたように「生活保護受給中のため大学に通えないため」という文章を人生で初めて書いた時、学びの選択も奪われているのかと少しこれまでの生き方として驚きに似たなんとも言えない不気味な感情を抱いたのは初めてでした。

そもそも学び自体がカーストによって分けられているのかもしれない、親の年収によって変わるものなのか?権威主義のものなのか?日本にとって大学の立ち位置とは?たくさん考えることがあります。実際に生活保護世代から世帯分離をして大学に進学された方、無事に卒業できた方は知っていますが、いわゆる一般的な普通の大学生より何倍も苦労を強いられることも事実でそれによってなんらかの精神疾患を患わざるおえない(たとえ病名がついていなくとも)それに似た自傷行為に走ることもあります。本来の勉学に集中するというステップに辿り着くまでの壁が何重にも折り重なってそれをたった1人で壊し続けないといけないという負荷とともに大学生をしないといけません。

こういう負荷の話をすると巻き起こるのは想像力のなさといった自分の家庭がいかに恵まれているかを自覚しているか、いないかの違い、自己肯定感の有無(または、自覚を通り越して自分の家庭の階級がどの位置にいるのか、中流階級だからおまえも中流階級であって苦労なんて変わらないでしょ、甘えてるだけだよといった不慮の事故など)といった同じ大学生であってもコミュニケーションの事故で起こる前提条件の共有のなさで傷つくことがあり、そこの可視化されていない部分が学びに対して贅沢か否かである議論にそもそも同じ土俵で戦えないのもあると考えます。


ただ、令和の現代、誰しもが健康で一生肉体労働(頭脳労働も含む)ができるか?と言われればそうであると言い切れない部分もあります。それが生まれ持った資質や家庭環境、いわゆる親ガチャに大外れした時、せめてもの大学卒業という魔除けがなければみんなの想像する中流階級の生活には辿り着けない、いや学歴差別や職業差別といったしょうもない戦争から逃れられないのでしょう。そんな残酷な現実を目の前にしながら「生活保護のため大学に通えない」という文章を書いたことについてゆっくり考えたいと思います。

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