つくばマラソン2017 回想記② 「マラソンとはつまり、マネジメントのこと」
公式の大会でフルマラソンを走り、なんとか完走はできたものの、そこで気づかされた数々の課題。今回はその気づきについて。
大会2週間前に予行練習としてフルマラソンをセルフで走ってみた。タイムは4時間21分。タイムはともかく、初めてフルマラソンを走る僕にとっては非常に良いイメージトレーニングになった。しかし・・・。
そこから左足首の関節の痛みが引かず、結局当日までその痛みを引きずったままの参加となってしまった。故障はマネジメント不足の証、ランナーの恥だ。
長い距離を走ること。フォームやペース配分。当日までの計画的な過ごし方、しっかりとした睡眠、効果的なストレッチ。マラソンがどういうものかについて僕はあまりにも知らなすぎた。
マラソンに挑戦するならば、走ること自体はもちろんのこと、栄養や体調管理、メンタル面のコントロールまで含めた、ありとあらゆる自分自身のマネジメントが必要だと痛感した。
「ちょっと走ってくるわ」では歯が立たない。フルマラソンにごまかしは通用しないのだ。10kmかあるいはハーフなら、勢いにまかせた走りも可能かもしれない。でもフルはそうはいかない。特にメンタル面において。
後半、大きなミラーがあって、そこで走る自分の姿を見た。背筋は曲がり、頼りなく足を運び、顎が外れたように下に落ち、苦痛に顔を歪めて走っている自分がそこにいた。なんて無様な。
一矢報いたい気持ちで、
「それでも奴の目は死んでいなかった」
と評価されたい一心で、背筋を伸ばし顔を引き締め腕を振った。するとどうだろう。意外にもしっかりと走れるではないか。それで僕は気づいた。
自分が自分をつらくしている。自分自身で限界を決め、もう無理だと諦め、「だって足を痛めているから」「前日も熱があったし」「睡眠不足だから仕方ない」とネガティブ要素ばかりを並べて「もう限界な自分」に自分をすっぽりと当てはめてしまっていた。
本当はそうでもないのに、もっと走れる自分がいるのに、メンタル面の弱さがどんどん自分を窮地に追い込み、本当なら感じなくてもいい苦しみをわざと作り上げては苦痛そうに演じていたのだ。
自分を変えたい、といくら望んだところで、こんなことでは一生僕は変われない。自分で限界というラインを早め早めに引いてしまっているようでは、結局今いる自分の繭の中から出てくることはできない。
ゴール直前に、小柄なじいさまが僕の目の前を走っていった。じいさまの背中にはこんな言葉が書いてあった。
私はこれまで96回フルマラソンを完走しました
96回・・・! 僕は打ちのめされたような気分になった。96回って、一体年に何回フルを走ってきたんだ、このじいさまは・・・。
96回という回数は、その数の多さや挑戦する気持ちの凄さもさることながら、それはじいさまのマネジメント能力の高さを表していると思う。気持ちだけで96回のフルマラソンは走れない。それはただ1回しかチャレンジしたことのない僕にでもわかることだ。
僕には専属のコーチやアドバイザーはいない。そういうところにお金をさけない、ごく一般的な市民ランナーだ。でも、そういう市民ランナーにも走る楽しさや醍醐味は感じられる。ちっぽけなランナーにも道は開かれている。
驚くような記録や勝ち負けが僕の目的ではない。だからプロのようなマネジメントは必要ない。ただ、自分の傾向や体のことをもっと知り、自分の満足のいくような走りを実現してみたい。
僕にとって勝利とは、繭の中で変われない自分に、変わることのできた自分を魅せつけることだ。
勝利のためには日々の、細やかで地味なマネジメントが何より大切だ。マラソンは当日に始まるのではなく、日常の中からすでに始まっているのだから。
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