見出し画像

みんなみんな、ありがとう



※この記事には頭の手術跡の写真を載せていますので、閲覧の際はお気をつけください※

*********

7時間にわたる大手術を受ける直前に「写真撮って」って言ったなんて、今だから笑える話ですが・・・。

画像1

この写真を撮って2日後に


まさかこんな状態で目が覚めるとは(術後の浮腫みで目が開かない)

画像5

画像2


6年前、くも膜下出血になり、自衛隊のヘリで沖縄まで搬送されたのが

7月15日。

私の記憶は、沖縄まで運ばれた場面で途切れていたのですが、後で話を聞くと 16日の朝までは、意識もわりとハッキリしていて、夫や友人とも会話ができていたみたいです。

でも私は、16日も
手術を受けた17日も全く記憶が無く
目が覚めたのは、18日の朝でした。

いたっ……痛い……とにかく、あちこち痛い…何があったの?と思って目をこらしたら・・・・

「目が覚めたみたいね。良かった。手術が成功したんですよ」と、私の顔をのぞきこんだ看護師さんに言われて

え!手術!? ………いつの間に!?!?

ってなって

驚いている私に、看護師さんが教えてくれました。

「あなたのご主人はすごい人よ。カッコいい。

主治医の先生が、奥様の頭皮を切って、頭蓋骨を開いてクリップで止めるという手術説明をしたら、ご主人は説明を聞いているだけで体が震えるぐらい恐くなったそうなの。

しかも、手術は成功するかどうかもわからない。
もし成功しても、血管が傷ついて重い後遺症になる可能性もあると言われて。それで、ご主人が私達や先生に、こう言ってきたの。

“僕の妻はとても恐がりなんです。
今の説明をしたら、絶対怖がって手術を拒否すると思います。

でも命が助かるために手術だけは受けてほしいので、どうか手術をすることは妻に内緒にしていてくれませんか?

私が全て責任を背負って同意書にサインします。

だから皆さん、妻には何も知らせないで手術を受けさせてください”って。

こんなご主人初めてで、申し送りの時も話題になって、みんな感激してたのよ。
だからあなたは手術室に入る前、検査するだけだと思っていて
大手術の直前に、写真撮って~ってご主人に笑顔をふりまいていたのよ(笑)ご主人の思いやりのおかげで助けられたね。ご主人喜ばせるために絶対元気になろうね」

と聞かされて。

もう話の途中から涙が止まりませんでした…。

夫の言うとおり、私は昔から、異常なまでの恐がりで、ちょっとケガして指から血が出ただけで大げさに騒ぐような、痛がり怖がりの小心者でした。


もし、自分の頭皮を切って頭蓋骨を開けるなんて言われたら、私は絶対に手術を拒否していたと思います。

もし手術しなければ今ごろ私は……。

夫がいなかったら、私は助かっていなかったかもしれない。

夫が、私の恐怖も 命の責任も背負ってくれたから、いま私の命があるんだと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

恩返ししたい気持ちとは裏腹に・・・

私は、手術してくださった先生やスタッフの皆さん、励ましてくれた仲間、そして何より家族に対して

退院したら、必ず恩返しするつもりでいました。

それなのに・・・。

退院後の生活は、そんなに甘くはなかったのです。
入院中のリハビリで、自分で歩くことはできるようになったものの、私の脳は大きなダメージを受けたようで、様々な弊害が出るようになっていました。

まずは、情動失禁です。

情動失禁とは、他愛もないことで、泣いたり怒ったりの感情が出てしまい、自分でそれをコントロールできなくなることです。
退院後の私は、まるで小さな子どもみたいな精神レベルでした。

特に悲しい感情が強くなっていて、外出先で ちょっと何かあるだけですぐに泣いてしまうので、恥ずかしくて外に出られなくなったのです。

1度目は、買い物していて人とぶつかった時。

「すみません」と謝ったのに、相手には聞こえていなかったみたいで、ぶつかったおばさんから不機嫌な声で言われました。
「ごめんなさいぐらい言いなさいよ」

そのたった一言で、私は急に泣き出してしまい、周りの人にジロジロ見られて…私は逃げるように家に帰りました。

2度目は、子どもがインフルエンザにかかったので病院に連れて行って、看護師さんと会話した時。

「インフルエンザの予防接種は受けさせたの?」
「いいえ 受けさせてません」
「あなた、インフルエンザが重症化するってこと知らないの? 昨日も一人、救急車で運ばれてきたわよ、こういうのは親がしっかりしないと・・・・」
途中からもう相手の話が耳に入らず、私は涙いっぱいになって、そばで見ていた我が子に、お母さん大丈夫だよと背中をなでられ・・・夫に迎えに来てもらって号泣しながら家に帰りました。

家族の優しさで余計に落ち込む私

そんな私を見ても、家族は、優しく慰めてくれていました。
「あんな大きな手術したんだから仕方ないよ。命が助かっただけでいいんだよ。」

でもその時の私は、何を言われても前向きになれなくて。
見た目は普通なのに、中身はこんな風になってしまって、これから一体どうしたらって・・・。

家にいても、頭がボーッとして家事もほとんどできず
たまに調子が良くなったと思って動いても、失敗ばかりだったんです。

ご飯を炊いたつもりが、洗ってもいないお米を入れ、水は入れずに気づいたら空焚きしていたり
子どものゲームソフトがどこを探しても見当たらないと思ったら、私が間違えて冷蔵庫に入れていて、買ってあったチーズケーキを、ゲームソフトと間違えてテレビ台の下にしまいこんで、気づいた時にはケーキが腐っていたり。。。

ある日、子どもの算数の宿題を見ていて、8+4の答えがいくら考えても分からなかった時に「もうこれはダメだ」と、激しく落ち込みました。

私はこのままこの家で、母親としても妻としても何もできない
体に麻痺があるわけでもないのに動けない
なんのために助かったの?
私って いる意味あるんだろうか…。

とんでもないマイナス思考におちいってしまっていました。

外で周りの人に声をかけられても、このもどかしさや辛さは
バレると「恥」な気がして、私は無理に笑うようになり
そんな自分に疲れて、家に閉じこもるようになっていきました。

でも夫だけは、諦めずに 私のフォローをしてくれました。

私が何もできなくても、責めたりすることなく、家事、育児、仕事の全てをこなしてくれて、ただ、淡々と普通の生活をしている背中を見せてくれました。

でもその時の私には、その姿を見ることがよけいにプレッシャーに感じてしまい、ある日とうとう、言ってはいけない言葉を言ってしまいました。

「私やっぱり、助からなければ良かったかな。子ども達には別のお母さんがいてくれた方がいいかもしれない。私は、いるだけで周りに負担しかかけてない」

自分で言いながら、涙が止まりませんでした。

本当は家族とずっと一緒にいたい、でも助けてもらっておきながら何もできないからこんな自分はいない方がいいんじゃないかって。

夫は しばらく黙りこみ、少しため息をついてから、私に向かってこう言いました。

「あのな、ユミが子どもの世話するのがしんどいなら、世話する代わりを探すことはできるよ。
でもな、お母さんって、そういうものじゃないんやで。
あの子達にとって、世話する代わりはいくらでもいるけど、お母さんの代わりだけは、お前以外にどこを探してもいないんよ。
俺にとっても子ども達にとっても、お前は絶対に必要な存在。
どんなにボケてもいいからさ、それだけは忘れんといてな。」

できることだけに集中する日々


夫からのその言葉で、自分が考えていた事がどんなに情けないことだったか痛感し、そして何より、必要だと言ってもらえたことが、嬉しくてありがたくて・・・。
それから、私は自分なりにできることだけをするようになりました。

私の場合、右手側に痺れが残っていたので、とりあえず、右手のリハビリのために、気がまぎれる塗り絵に集中(当時 塗ったものです)

画像6


画像4


夫に、今日の宿題はたこ焼きを焼くこと、と言われたら、その宿題に挑戦したり(たこ焼きをクルクルまわす動きがリハビリにちょうど良かった)

画像5


周りに対して何も恩返しできないっていう気持ちは、なるべく考えずに過ごすようにしました。


私にも恩返しできる日がきた


それから、半年後のことです。こんな私が、まさか主治医の先生の手助けができるなんて思いもしませんでした。
手術してから半年後の定期検査に病院を訪れた時のことです。

検査の画像を見ながら

「クリップ部分も問題ないし、新しい動脈瘤も見当たらないようだし、大丈夫そうですね。お家で過ごしていて、困っていることはないですか?」と聞かれ

私は思い切って、これまでのことを先生に打ち明けました。

「あれから、頭の中がずっと晴れない感じが続いてるし、すぐ泣いてしまうし、家にいても普通のことができなくて落ち込むことが増えてしまいました。でも、半年前より少しは前向きになっている気はします。」

そしたら先生が急に何かをひらめいたように、私に向かって言ったのです。

「あなたが今話したことを、別の患者さんに話してもいいかな? もし良かったら、その患者さんのご家族にあなたから直接話してもらえるとありがたいんだけど・・・」

先生の話によると、私よりちょっと後に同じ手術を受けた人が

麻痺も残らず順調に見えたのに、本人がすぐ泣いたり何もできなくて落ち込んだりして、社会復帰もできてなくて

ご家族から見たらただのワガママに見えて困っていたそうです。

先生も、ご家族への対応にも悩んでいたし、私ぐらいの年代で、麻痺がほとんど残ってなくて、情動的な症状がメインの後遺症という人がなかなかいなかったから、ぜひ話してあげてくれないかと。

まさか、「無意味な自分」と思って過ごしていたあの日々の事が、ここにきて先生の役に立つなんて……!!

私はそのご家族に、自分の落ち込み具合や、その時から今ぐらいの回復までの過ごし方などを説明しました。

きっとご本人は、私と同じように無力感にさいなまれているだろうから、どうか本人のペースが戻るまで見守ってあげてほしいと。

その結果、先生にもそのご家族にも 私のおかげで病気に対する理解ができたと感謝され、それを聞いて私まで元気になりました。

それをきっかけにプラス思考が戻ってきたのか、私はどんどん前向きになり少しぐらい失敗しても、天然ボケかな〜って笑いとばせるようになったし、体調が悪い日は無理せず、家族に甘えられるようになりました。

そんな風に過ごして2年がたって、外でも働けるようになり
3年たってすこぶる快調になった時には、今度は姉がガン宣告を受け……。

でもその時に、死の恐怖を味わう気持ちを理解してあげることができたので

姉からも「ユミが先に命に関わる病気を経験してくれたから、いろいろ話ができて心強いよ」と言ってもらえました。

姉には、私が手術して入院している間ずっと、2人の子どもの世話をしてもらっていたので、今こそ恩返ししたいと思い、それからの姉の闘病生活、自分にできることは一生懸命やりました。

私はこうして、主治医の先生や、同じ病気のご家族、姉の役に立つことができたのです。

助け合うということ


ふと、さかのぼって考えてみました。
この人達のちからになることができたのも、6年前に夫が私を助けてくれたからこそ。
それを考えたら

誰かが誰かを助けようとする行動は
その時、その人を助けただけで終わるのではなく
時間がたって、何かのタイミングやその時に出会った人へと、また繋がっていくのかもしれないって。

あの時に夫が助けてくれたから
主治医の先生が助けてくれたから
私がまた誰かの役に立つことができたし
もしかしたら、あの時に私が相談に乗った患者さんとご家族が
今頃また、別の人のちからになっているかもしれないって。

私の姉は、亡くなってしまったけれど
姉との日々で私が学んだことをnoteに書くことで
癌患者を支えるご家族のちからになることができるかもしれない。

みんなにありがとう

この経験で気づいたこと。

それは、助けてもらったからと言って、すぐにその助けてくれた人に何かしてあげることだけが助け合うということではない。

それに、今この瞬間、「それぞれ助け合おう」なんて言われたって
自分に何ができるかなんて分からない。
でも 分からなくて大丈夫。

分かる必要はないから
ただ、一人ひとりが、目の前のことに真剣に向き合って
自分にできること、小さなことでもいいから行動することで
それが、見えないところで誰かを助けてあげることに繋がっているのではないかということ。

これが「助け合う」ということなんだと思いました。

今日もみんながどこかで、誰かを助ける未来に向かって
息をして、家事をして、仕事をして、泣いて、笑って 日々を過ごしている。

誰かを助けることに、意味はいらない。
あなたがいることにも、意味なんてつけなくて大丈夫。

ただいてくれるだけで、誰かの支えになっていると思うのです。

だから私は言いたいです。

「みんなみんな、たすけてくれてありがとう」


#たすけてくれてありがとう



私の書く記事は多分、伝わる人が限られています。いじめ、機能不全家族、HSP、病気などの記事多めなので。それでも深くせまく伝えたくて書いています。サポートとても嬉しいです。感謝します。コメントも嬉しいです🍀