ブラジルのとある建築が壊された。
数日前のとあるニュース。
この暴動が繰り広げられた舞台は、モダニズム建築として世界遺産にもなっているオスカー・ニーマイアー設計の連邦議会。
白いお椀のようなものが屋上に2つ配置された見た目が印象的な建築。
現代建築を学べば、ほとんどの人は目にしたり聞いたことのある建築。
そんな建築が壊された。
(※壊されたといっても、僕がニュースで確認したのは窓ガラスやアート作品で、建物の構造自体はそのままある。)
そんな建築知るかと、建築関係の人以外大部分はこうなる。
そりゃそうだ。
だからどうしたと、特にデモ参加者にとってその建築は些細なものだ。
そりゃそうだ。
ブラジルの情勢や政治は全く分からないのでその是非を述べるつもりはないが、デモ参加者にとってそうするしかない状況だったのだろう。切羽詰まった状況の中で、建築とかアートとか、そんなの知るかよってなるのは当然だ。
いろんな時代で、いろんな建築が壊されてきた。
学術上重要な建築だけでなく、庶民的な名もない家も含めて全部だ。
壊れる、壊される。
前者の理由は耐久性や構造安定性など建築自体に問題がある場合における寿命による死。後者の理由は用途が合わなくなってきたり、不便になってきたりなど人間都合の問題がある場合の殺害的な死。
その「壊される」時はどんな時なのかを考えてみたい。
今思い当たる例は戦争や紛争、相続や売買の時。
例えばウクライナ侵攻。敵国の主要な軍事施設、主要なインフラ施設、政治関連の施設、主要都市の建物、いろんなものが壊される様子をこの約1年間見てきた。
例えば土地や建物の売買による建替え。新しい持ち主により新しい建物が必要になり、取り壊される。規模や寿命によらず、壊される。
これらに共通するのは壊される建築と壊す人とが無関係であること。マザーテレサの言葉を借りるとそこに「愛がない」と言い換えれそうだ。お金さえあれば、利益さえでれば、壊す価値があるという合理的な理屈だ。愛とかそんなものは勘定に入れない、というよりそもそもない。
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では逆にどんな建築が生き残ってきたのか。
例えば第二次世界大戦後も残った京都や奈良の神社仏閣。どこかで聞いた話だが、空襲の際に戦闘機で爆撃を行う軍人が空から下を見下ろした時に、あの美しい建物は残そうと思って、そこを避けたらしい。眉唾物かもしれないが、確かに残っている神社仏閣を見るとそれに似た感情に至ったのかもしれないと信じれる。
例えば、原爆ドーム。壊れたといっても過言ではないあの建物は今もなお、核兵器の悲惨さを後世に伝える象徴として生き残っている。このように古いものでも世界遺産として認定され残っている。世界遺産でなくても重要伝統的建造物群とか文化財とか受賞とか、お墨付きをもらい生き残っている。
これらには心のゆとりがあり、そのゆとりに愛があることで生き残っていると言えそうだ。もしもアメリカが優勢でなく日本とギリギリの戦いだったなら、生き残っている今の伝統的な建築物も爆撃されていたかもしれない。もしも日本や世界のみんながみんな生命の危機にあったなら、世界遺産も賞もなくなって、生きるために必要のないものは壊されていたかもしれない。
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建築家として何ができるかを考えようとしたが、結局は人次第という結論を導いてしまった。あくまでも建築は容れ物で、中身を作ることにはあまり関与できないのかもしれないというネガティブ感想を持ってしまった。
それでも建築が生き延びていくために、耐久性とかだけでなく、愛されることが必要なのだということ、愛されるために建築をどう作りどう関わればいいかという問いを得られたので良しとする。