日常

今の幸せを手放したくないと思えるくらい、今の生活を充実させることができたのなら、私は一人でも生きていけるのかもしれない、と最近思う。
例えば可愛いソファを買うにしても、可愛いベッドカバーを買うにしても、センスのない私にとってはこれが正解なのかの選択を迫られることが1日に何度もある。それはもう、本当に何度もだ。
インスタを見て、こんな部屋にしたいだの、掃除をしなきゃだの、頭の中はお花畑見たいに妄想と想像に支配されて、気がついたら現実は午後7時なんて、ほとんどそんな毎日。緊急事態宣言が始まってから気がついたらもうすぐ1年が経とうとしていて、私の日常から仕事がなくなって、時間が長く感じる生活が続いている。こんな生活嫌だーと嘆いたけれど、時が経って仕舞えば人は不思議なものでして、その生活に順応できるようにできていると実感させられる。

自分の日々は楽しい、幸せだ、満たされている、これ以上の幸福はいらないと、思っている人などいるのだろうか。
みんなそれぞれ、満たされない何かと戦いながら、叶わぬ夢や希望に打ちしがれながら、それでもそんなこと感じていないような顔をして、人と比べながら自分の嫌な部分に凹み、息も耐え耐え生きているのだろうか。
だとしたら、人が本当に満たされるのは、死ぬ時以外ないのではないだろうか。生きている限り少しの不幸が続いていくのなら、きっとそれと手を繋いで仲良く生きていけた方がいいのではと、最近思う。
しかも、それは決してネガティブなことではなく、むしろそれができる精神状態はポジティブなものなのではないかとすら思う。
頭の硬い私は、気がつくのに人の倍時間がかかるが、この世に全く同じ人間は居ないと言う当たり前の言葉をかけられた時、自分の傷が少しだけかさぶたになり、今までの自分をぶん殴りたい気持ちになった。

私はたとえ間違ったとしても、私の人生しか歩めない。今日は1日寝ていようが、掃除をしようが凝ったご飯を作ろうが、彼氏がいようがいまいが、私が今日生きていると言う事実は変わりない。
そしていつか死ぬのだとしたら、と言うか人はいつか死ぬのだから、そう考えたら少しの不幸を連れて歩こうがなんだろうが、そんなことはどうでもいい話なのである。

前向きに!でも、私なんて、、、でもなく、この世に生きていること自体、大変なことなのだ、それでいい、そしてそれは私だけじゃなく、とてつもなく幸せそうに見えているあの人だって、あの人なりの悩みや不安を抱えながら今日も電車に揺られているのだ。

確信めいたことは言えない、人の気持ちも変えられない、ただ私はもう少しだけ自分を許すことはできるのではないかと、少しずつそう思ってきているのである。これは成長と呼んでもいいのかもしれない。

数年後に会う過去の知り合いが、私のことを別人だと思えるほど変わりたいと思う。もし5年後生きていたら、私の周りにいる人は間違いなく変わっているはずなのだから。

良くも悪くも、人は変われると信じたい、そしてその変化の過程では必ず傷はつくと心得たい。無傷で変われるわけがなく、振り返った時にあの時傷ついて良かったなと言う記憶を増やしていくしか無いのだ。

人生経験などつんではいない、私には特に秀でた才能もなければ全く目立つところもない、優等生でもないし別に仕事もできない。

でも明日もただ好きなドラマを見ながらカルボナーラを食べたい。生きる理由なんて、前日の夜に明日のことを考える時間があればそれで満たされるのだと、最近少しだけ思えるようになった。

私の未来は私だけのもの。大きくも、何者にもなれないけれど、少しずつ自分を好きになる努力を、行動から手に入れたい。

だから私は今日も皿洗いをして洗濯物を取り込む。気持ちの良い日曜日を過ごすために。

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