理解、賞賛と犠牲


令和も早いもので6年目になった。
正直なところ、令和という素敵な元号にそぐわない哀しいことばかりが起きてもいる。

大きな声で言いにくいが、ひとは理解や賞賛を求めすぎたし、世界はそれらを認めすぎたと思う。
身近で見るファーストフード店やコンビニで理不尽なクレーム付けるアホ、もっとデカい言葉で言えば、親ガチャだの弱者男性だのジェンダー、LGBTといった多くを救おうとした結果、より社会はギスギスしてしまった気がしてならない。
差別を推奨するつもりもないが、そういうマイノリティに媚びた結果、足の引っ張り合いでみんなで堕ちつつあると思う。
たくさんの理解や賞賛を得ることによる副作用がある。

以下、自分の生活で感じたことを綴る。
趣味でダンスを習ってる影響から、最近DリーグをYouTubeなどで 視聴している。
誰でもダンスを楽しめる「NEW STANDARD」を掲げて、興行として成り立って多くの人を楽しませていてとても凄いことだと思う。もちろん俺も楽しんでいる。
少なくとも中高生の頃にダンスを習ってる人は身近にいなかったこともあり、今は音楽シーンからもダンスがより身近なものになってると思う。
実際、たくさんの子どもたちがスタジオに習いに行っているのも見て本当に驚いた。
ダンスは黒人から始まったアングラなものと思っていたが、今では学校の授業科目にすらなって本当にスタンダードになっている。

しかし、多くの人に理解されるスタンダードが良いものなのか。
Dリーグは各プロチームが作品を持ち込んで披露し、審判とオーディエンスに評価してもらい、どのダンスが良かったかで競う。
プロチームの勝負事なので、審判やオーディエンスのツボを狙う作品を作ったり、SNSで人気を集めるといった踊る以外の勝負もある。
今回のDリーグでは各チームが勝つために、あまりにも仕込みがありすぎて違和感を持つようになってしまった。
ついには一般的にイメージされる「踊る」ことすらしないチームが現れてとても驚いた。
確かに「斬新」であるし、一つの作品でもあるし、作り手が「これはダンス」と主張すればそれを否定することはできない。
ダンスをよく知らない人たちの心を掴むため、多くの人からの理解や賞賛を獲ようとするあまり、ダンスではなく競技になって大切なものを失ってるのではないかと思ったのだ。

週末に習いに行っているど素人だけど、俺にとってダンスはもっとアングラなもので、自己表現の一種で、気楽に楽しむものと思っている。
音楽をより楽しみ、表現するためのツールだ。
ただそれが、勝つために、多くの理解、賞賛を得たことでどんどん方向がズレていく犠牲があると感じた。
売れず、地味に活動してた良いミュージシャンが、売れ始めたことで世の中に迎合し、良い曲が書けなくなるのもそういうロジックなのでないだろうか。

理解、賞賛、お褒めの言葉はキマりやすいクスリであり、それ相応の犠牲がある。
そして、それらを与える我々「多くのお客様」はすぐに飽きて捨ててしまう。

それ故にしょうもないゴシップで勝手に盛り上がり、今では巨大コンテンツすら潰す脅威にもなった。
そんな今、たとえ潰されて地獄に落ちようとひとり孤独に自分らしく生きることが道を開くのだろうと信じている。

媚びるな、群れるな、納得のために孤独に生きろ。
それが2024年の目標になりそうだ。



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