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「死」がこわい

小4の2学期の国語の授業、命に関わる話が続いています。
この思春期に片足を突っ込んだ今、この時に命に関わる話が続いている


きっとこの時期にこのテーマをくぐり、自分なりのきっかけを探す、もし見つからなくてもいい、心の隅に少し残れば何かの鍵になるかもしれない。

「死」はゴールや完成?それとも、終わり?

子どもに問いかけてみた。

「死ぬことってゴールとか完成?それとも終わりなの?」

少し考えてから出てきた言葉はこうだ「寿命を全うして死んだ人は完成、病気とかで死んだ人は終わり。かな」

なるほど・・・

病気で死んだ人と長生きして死んだ人とでは「死」が違うんだ。

確かにそういう感覚あるかもしれない。

実際、私も体験したけれど
100歳まで生きた祖母が死んだ時、葬儀で泣いている人はぜろ。

14歳の私の友人が死んだ時、葬儀でほぼ全員泣いた。悲しくならないように音楽を流していたのに、その子が好きだった音楽すら涙を誘う。とても明るい気持ちになどなれなかった。泣き崩れて立ってられない他の友達を必死で抱きしめながら顔がぐしゃぐしゃになるまで泣いた。その記憶が今もその感触とともに残っている。

どうにも取り戻せない何かに心から泣いた。あんなに泣いたのは他にあるだろうか。それくらい泣いた。

ガンと難病の自分の母が死んだ時は泣いてないんだ。
しっかりと彼女を見送ったその気持ちの方が強くて、見送れて良かったという気持ちになっていてね悲しみは襲ってこなかった。

別れる日が来ちゃったか、あと1ヶ月先だったら良かったのに、そんなことを考えていた。生きてる間に一緒に泣いて背中をさすってきたからか、母を失うより悲しくて痛くてつらい気持ちが私と母の間にはもっともっとあったからか、私にとって母の「死」は悲しみよりも安堵だったんだ。

ちょっと話がずれたけど、生物としての寿命はどの生き物だって個体ごとに決まってくる。ヒトじゃなかったら種が落ちた場所や蛹になった場所で決まってくるくらい。それくらいの差があることなんだと半分諦め気味に思うんだ。
だから、死んだ年齢が寿命なんだとこの頃思うんだよ。
10歳のあなたには到底受け入れられないと思うけどね。

戦争の話も死ぬ話も好きじゃない。

そうだよね。戦争の話はいつも命が関わってくるし、死ぬことがものすごく近くなる。だから、戦争の話、好きじゃないと思う。

できればすごく遠くの見えない国の見えない人たちの出来事であって欲しい。そんな風に感じる10歳の気持ち、すごくわかるよ。

大好きな友達や大好きな家族とお別れするなんて考えるだけでも嫌だよね。

私もそうだったからすごく良くわかる。

でも、色んなことを勉強していくと色々紐解けて行って
戦争(過去)について学ぶこと大切だなと感じるようになってた。

私たちが喧嘩しながら済ませた晩御飯。
これさえ、遠くの国の10歳には平和な日常だったりする。

それを知る前に日本に起きたことを教えようと思う学校教育もわかる。
なるべく都合よく教えたいだろうから。
なるべく被害者の立場を教えたいだろうから。

だけど、たった一つしかない地球をみんなでシェアして暮らしている以上
今起きていることにも、過去に日本がしたことも学んでみないと外に出たらびっくり。日本は加害者だからね。それでも、皆、一人のワタシとしては大切に扱ってくれる。そして失敗は何回もしたらよくないよね、同じ過ちを犯さないように知ることも大切なんだよ。

戦争は陣取り合戦、スプラトゥーンみたいなもんだよ

なんでそんな人の命がなくなるようなことするんだと怒っていたので、家の地球儀を持ってきて私はこう始めた。

「戦争は陣取り合戦、あなたが大好きなスプラだよ。みんなが大好きなスプラ。あれを本当の世界で生きてる人間が暮らす街でやったんだよ。」

日本がここでしょうと地球儀の日本を指さす。日本て小さいね、小さいから広さがもっと欲しいと思ったの。日本の陣地がもっと欲しいと思った。だからここに攻めていって日本のものにしようとしたetc そして最後は他の国がウチも日本潰せば手に入るかも??って思ってetc ざっくり説明した。

どうしてフィリピンはタガログ語が母国語なのに、英語を話すと思う?

日本が攻めていった時にアメリカが助けてくれて今もアメリカの基地がある。
だから英語がとっても上手だし、英語話せないとフィリピン行っても話せないくらいだよね。

陣取り合戦は誰にでもある気持ちなんだと思うの、だからスプラめっちゃ人気でしょ?自分だってスプラやって勝ったらすごく気持ちいい。スプラなら相手チームが死んでも何しても戻ってくるけれど、本物の町で例えばあなたの住む家が相手チームの色にされたら、それ戻すのめっちゃ大変じゃない?

それだけ言ったら、少し考えてた。

「本物の人間でやったら生き返らないじゃん」

そうなんだよ。

今だって遠いどこかでは石油資源とか水資源とか、領地が欲しくて戦争してるよ。
その時に命を落とすのは血だらけになるのは、”ゆりこ”のお父さんみたいな普通の人だし、”ゆりこ”みたいな子どもが食べ物がなくてお腹を空かせている。

思春期に片足突っ込んでいるからこその今、「死」を考えて欲しい

思春期に完全に片足は突っ込んであって、もしかしてもう片方の足も入っているのかもと思うような自立したくて反発してくる気持ちを抱えている10歳だから

だからこそ、考えて欲しいよ自分以外の誰かのこと考えて欲しい。
おばあちゃんは死んだから星になって輝いていると思っているでしょう。

でも、輝いているのは生きている命の方だよ。生きている命はあったかい、生きていたら木だって凍らない、微生物も土を温めてくれる。

生きることに意味なんかないし、生まれたことに理由なんかない
ただ偶然の積み重ねでここにこの時代に生まれてきて、まだ生きてる。

死ぬときはゴールなの?完成なの?それとも終わりなの?って私はあなたに聞いたけれど、どれでもいいし、どうでもいいと思う。

時間としたら終わりだし、人生を道に例えたらゴールだし、不完全だとしてもそこで終わりなんだから完成にするしかないし。

悲しみや怖さに立ち止まらないで

手に入れることに慣らされすぎて失うことを考えたら怖くてたまらない。

私は大好きな母をお別れしてる。寂しいと思ってるよ。でも、なんでか悲しくなったりとかなくて。でもそれって今までにお別れしてきた人たちが教えてくれたのかもしれない。

悲しみに立ち止まらない。

起きてしまったことはどうにも覆せない。命だけは絶対に戻らないって教えてくれたから、悲しみに立ち止まらないことを身につけてきたんだと思う。
そして、いつも誰かがそばにいてくれた。
今、ポッと頭に浮かぶのは小さい時からの幼なじみと自分の母親。それからしばらく考えたらたくさんの人が頭に浮かぶよ。

生まれてきたからには絶対死ぬ。
生まれるかどうかは未定なのに、生まれたからには死ぬ。
始まったストーリーは未完結でも必ず終わる。

終わりが来ることに怯えて、悲しみや怖さに立ち止まるくらいなら
前に歩こうよ。一歩踏み出してみて。あ、やっぱりちょっとズレるくらいでもいいや。場所がちょっとでもズレたら見える景色変わるから、ほんとだよ。覚えておいてね。

お別れは必ずくるから、しかも不意打ちでくるから。
その時、隣で支えてくれる人がいたら悲しみに立ち止まらずに生きていけるよ。

毎日自分を騙して悲しみから一歩ずらしてそれで生きてきただけかも知れないけれど。

私が泣き崩れる友達を抱きしめて泣いたように
あなたが悲しい時、抱きしめて泣ける人に出会ってほしい。

そして、40歳超えて子育てする時にも一緒に涙してくれるような友達に出会えるだけの宝を心の中に貯めていって欲しい。

そのために必要な「死」をテーマにした学習なんじゃないかな。

庭にいっぱいのコスモスの花

2作目のお話、出征する父が幼い娘に手渡した一輪のコスモスが父のいない庭にたくさん咲いているところで終わるんだよ。

生きてた人が遺してくれたもの。
これから先も生きていかなきゃいけないわたしたちに残してくれたもの。

うちには、100年くらい経ってる振り子時計(母の形見
色んなものがあるよね。そこからいなくなった人が遺してくれたものは形あるものだけではなくて、心の中にだけ残っていくものもあるよね。

だから、大丈夫だよ。
死ぬこと、死なれること、置いていかれることに臆病にならないで一歩ズレてみようよ。悲しみに立ち止まらないで。大丈夫だからさ。


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