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実践的弁証法についての弁証法的考察

弁証法とは語源に遡れば対話によって真理を発見するための方法である。
ヘーゲルにおいてもこの意味は保存されている。
つまり、より一般化した形での弁証法は事物を思考する際に生じる矛盾を通じてより事物に適った思考を発見するための方法である。アリストテレスが用いていた意味においては人同士であったのに対してこの場合では矛盾を生ずる相手は人でないことが多い。

ヘーゲルが考えた事はこうだ。人は皆個々別々の存在であって、完璧な知の体系を一挙にして把握する事はできない、即ち有限者にすぎない以上、有限な認識を通じてのみ最終的に絶対的な知に到達することができる。そしてその方法こそが弁証法である。有限な認識が矛盾に逢着したとき、それを乗り越えることによって一層絶対的な認識に近づく。

弁証法的認識というのは別に高級な方法論というわけでは決してない。
誰しも自分の知ること考えることが絶対的に真であるという保証を取り付けることができぬ以上それがひとまずは正しいものとして取り扱い、反例が考えられそうであれば吟味するという態度を思いつくのはそう難しいことではないだろう(尤もここまでいってしまうとヘーゲルの弁証法というよりはむしろベーコンの帰納法に近くなるかもしれないが)。
そういうわけで少年の私も同様の考えを抱き、宿題のやり方にせよ友達との付き合い方にせよ、弁証法的方法をとった。複数方法が考えられそうなときひとまず一つ選んでおいて後から反省してより良い方法を考えようとしたのだ。もし自分に不都合があれば自分で気づいて改善することができるだろう、もし他者に不都合があれば他者が私に指摘ないし示唆してくれるだろう、少年の私はそう考えた。そうすれば自他ともに不都合がない行為の原則に近づくことができるのではないかと。私が思い至らなかったのは多くの人にとって行為の原則というのは独立した地位を持っていないということである。多くの人はよりよく生きるためにはいかに行為すべきかということに関してさほど頭を悩ませてはいないようなのである。自己の有限性に如何ほど自覚的であるかは推察しようもないが他者の立場と自己の立場を対話させてより高階な立場を構想しようという欲求を持たぬ人は存外多いわけだ。そういうわけで私の実践的弁証法は頓挫した。なんとなれば私の立場の根拠を吟味しようとして対話を求めても拒絶されるというはこびになるのだ。それゆえ私の実践的弁証法自体が今や吟味にかけられねばならないのだ。私に認識可能な限りでの私と矛盾する立場との対話だけでなく、私に認識不可能かつ私と矛盾する立場との対話をせねばならない。すなわち行為を批判しうる契機をのんびりと待っていてはならない。行為する時がその都度弁証法の契機である。以上のことに気がついた時、己の怠惰と傲慢さに愕然とさせられた。私の認識はこの上なく狭量で、盲目的で、暴力的ですらあった。

自分にとって不必要なものに活力を感じ取ること。例えば路傍の花を愛でることが最も人間的な振る舞いである。あるときからそう信じている。本当にそれができるためには無限のもの言わぬ他者を自己の内に存在させなければならない。尊厳というものがあるとすればおそらくその後である。

末筆ながら弁証法に関して、岩崎武雄『辯證法』は簡便な良書であった。絶版本ではあるが紹介しておく。


追:「弁証法」という語の使用に関しては必ずしも定まってはおらず、それゆえ当然弁証法をどう理解するかということも多少ズレがある。ここで用いられている「弁証法」は上の岩崎武雄の書に依拠するところが多分にあり、岩崎流の弁証法理解が混ざっているだろう。少なくともヘーゲルのテクストで最も頻繁に用いられる意味での「弁証法」とは距離があると思う。
上にも述べたように、「実践的弁証法」はベーコンの帰納法に近い。

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