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人と人とのつながり

私は自分のことをアセクシュアルだと解釈していた。
今でもそういう部分はあるように思っている。
でも、今私には彼氏がいる。

私には他人を大切に想うとか他人に執着するとか、そういった経験がなかった。
その人のことを考えて苦しくなるとか、夜も眠れないとか。
そんなことは今でもない。

告白して付き合ってくださいという了承があってスタートしたわけではないので、いつから付き合っているのかは不明瞭だ。
ある日突然誰かへの気持ちが恋情に変わるとか愛情に移行するとか、今日から関係性に違う名前がつくとか、私にはそういう明確なスタート地点を設ける意味が分からないんだ。
周囲に付き合ってる~って報告するようになっても私は彼のことをそんなに大事に思っていなかった。
むしろすぐに飽きられて(ズボラさに呆れられて?笑)フられるだろうなくらいの感覚でいた。
それが、
毎日のように一緒に過ごして、
たまにいろいろ怒られて、
たまに感心されて、
たまにバカにされて、
たまに普段はしないようなことを一緒にして、
そして頻繁にあほな私の頭の中をさらけ出して笑われて、
そうしているうちに彼は私の生活の一部になった。

これが彼の策略ならば大成功だ。
でも、私は必然なのだと感じている。
そもそも他人を家に入れることが好きじゃなくて、
他人と同じ空間で生活するのが苦手で、
他人がいると眠れなくて、
他人の前では摂食行為が怖くて、
自分の本当の気持ちを表出することがなくて、
人生に他人が存在する可能性を信じていなくて、
何より他人に興味がない私が。
彼が隣に存在することを初めから許していた。
確かに最初は彼のアプローチが嫌で嫌で仕方なかったけれど、それを無視しなかったのは私の選択だ。
きっと初めから、彼に何かを感じて受け入れて応える姿勢を持とうとしていた。
だからこそ、嫌だったんだ。
向き合う覚悟をしていたから、逃げるという選択がなくて嫌だった。

私は、今でも、女性として見られることが不快だ。
それは例え恋人である彼からであっても嫌だ。
女の子なんだからって言われると女に生まれた自分を醜く感じる。
だから、トルコで出会って数分で性の話をしだした男性はみんな気持ち悪く思ったし、世界一周すると報告したときに女だから危ないと注意してきた人はすごく苦手になった。
恋人ができてなお、自分に性があると自認してはいない。

確かに私は女性だ。
生物学的にいうのならX染色体をホモに持つし、社会的にいうのなら女子トイレを迷いなく使う。
でも私のコアの部分には性という視点が存在しない。
誰かを男だとか女だとかで評価することはない。
理解してもらえるとは思っていない。だって私もセクシュアリティに固執する視点を理解できないから。
スーツを身にまとってフルタイムで会社勤めをするあの人はひとりの人間だ。
自分の身だしなみは後回しに家事と育児に勤しむあの人もひとりの人間だ。
別に前者が男性である必要はないし、後者が女性である必要もない。
たまたまその活動をしている人が男性だった、女性だった、というだけで、それ以前に一個人であるという前提がある。
だから私は、女性はこうすべきとか男性はこうすべきとか、さらには性へのべき論を批判するとか、そういうものの見方をしていない。
どうしてそんなに性が大事なんだろうって不思議に思うだけだ。
マイノリティがマジョリティに理解を求めたくなる気持ちはちょっとわかるけれど、でもなんだかセクシュアリティを分類するのもあほらしいなと感じるのである。
みんな違う個人だよね。
性とかじゃなくて、人間は人間じゃん。

彼と一緒にいるようになった頃は、彼も私の考え方が理解できなかったみたいで彼の常識に当てはめた考え方でいろいろと言われた。
その度に、どうして”あなたが私を理解できないのと同じように私もあなたを理解できないのだ”ということがわからないのだろうと落ち込んだ。
でもそれは当たり前のことで、彼の考え方の方が世間一般的なんだ。
一般的な考え方の人は、自分と違う考えに出会った時に、それはおかしいよって自分の考えを迷いなく押し付ける。そこに悪気はなくて、むしろ善意だったりもする。
わかっていてもストレスフルだった。
彼に影響されている自分に気づいて、驚いた。


恋愛観を共有できないだけではなく、他人と生活することに慣れていない私に、彼がイラついているのはわかっていた。
それでもやっぱり理解できないものは理解できないし、わかんない知らないで通すことにした。
彼が英語わかんない知らない日本語で喋れっていうのとおんなじ気持ち。
私にとって恋愛感情や人間関係は未知の言語と同じだよ。
でも、だんだん常識を私に当てはめようとはしなくなった。
私のズレを肯定するわけではないけれど、認めてくれるようになった。
そのうえで、ズレていてオカシイと評価されることの多い私を普通の人間だと言ってくれる。人として間違っていたらこうした方が良いと怒ってくれる。
私はもはや自分でも自分のことを人間ではないのではないかと思っていたので、ひとりの人間として扱われたときは複雑だった。
彼がよくわからなかった。多分彼にも私のことはよくわからなかったと思う。
今でもか笑

どんなに変な思考回路を披露しても私を人間として見てくれて、そんな見方する?って笑ってくれる。
私はもうズレた自分を隠す必要がなくなった。
ヘンでオカシくてチガう生き物と言われ続けて、人間である自分を否定してきた私が自己肯定できる環境を作ってくれる。
私にとって彼は親みたいなものかもしれない。
私の人間性を育ててくれる。
どんな私でも、たとえ理解できなくても受け入れてくれる。
安心感と幸せをくれる。

私は、彼のことを恋愛的な意味で好きなのかと訊かれたらそれはやっぱりよくわからない。
私には恋愛がよくわからないんだ。
男として見てる?なんて質問は困っちゃう。いや、まあY染色体持ってるんだろうってことくらいはわかってるよ。
好きか嫌いかで訊かれたらもちろん好きだけれど、「好き」という言葉を安易に多用してしまう私にとって、この言葉は彼にふさわしくない。
好きにもlikeとloveがあって、それだったらどっち?みたいな質問をされたら、どうだろう。…うーん、どっちもかなあ。
彼への気持ちを言葉にするのは難しい。適切に表現できる言葉を知らない。
愛情なのかと言われたらそれにはちょっと足りないかも。彼から感じる愛情が大きすぎて追いつかない。
情熱でもない。衝動的なパッションは存在しないから。

「そろそろ好きになった?」
ってよく訊かれるし、きちんと言葉で伝えることが大切なのはわかるけれど、私にはやっぱり的確な言葉が見つからない。
好きなんて無責任な言葉では表したくない。
きちんと伝えたいとは思っている。

今月の頭に日本を出てから彼とはいわゆる遠距離状態。
毎日、今日は~したの!とか今~してる!これから~してくるね!ってLINEしている。
ひとりで旅をするのは気楽で私に合っているけれど、何でもないことを報告できる相手がいることがとっても幸せなんだと気づいた。
そして、情動をその場その場で言語化することで自分の感情を自覚できるようになった。
今まで思ったことや感じたことを素直に表出することがなかった。
表情や感情は「普通」の人から許容されるラインを保たなければならなかったし、そもそも友達もいなければ家族ともそんなに仲がいいわけではないので自分の思いを伝える機会がなかった。
無表情で無感動で、私には人間らしい感情が欠落しているのだと落ち込んだ。
それが、彼にどうでもいい情動変化をダイレクトに伝えるようになってからは自分の中に人間らしい情動を自覚するようになった。
ここもまた、彼に育てられている部分かもしれない。

今私が最もそれらしく彼への想いを表現するとしたらそれはlikeでもloveでもなくてmissだろう。
大学で東京から大阪へ引っ越して独り暮らしを始めたがホームシックになることは一切なかった。むしろ生活空間を誰とも共有しなくていいことに開放感を覚えて解き放たれた気分だった。
日本を出てそろそろ1か月が経つわけだけれど、日本に帰りたい、日本食を食べたい、家族や友達に会いたいと思うことはない。
タイで言葉が通じなくて雨に降られてタクシーも捕まらなくて心が折れたときも、日本に帰りたいとは思わなかった。
ただ、彼が隣にいれば、彼に会えればいいのに、と考えた。
I miss him.
彼が私の人生から消えたら、それは私にとって大きな損失だろう。
もちろん彼がいなくても私は生活できる。物理的にも精神的にも、そういう意味ではそこそこ自立している。
でも、誰にも何にも執着しない私に寂しい、恋しいという気持ちを芽生えさせた彼は罪深い笑

いつのまにか彼は私の心の支えで、人生の一部になっている。
これが恋なのかはわからない。
彼の周囲の人間を敵視するような嫉妬心も、衝動的に湧き上がる情熱も、大好き♡と連呼するような溢れ出る愛情もない。
彼がいることで自分を肯定出来る。
新しい感情を自覚できる。
安心できる。
頑張れる。
“女と男”としてではなく、“人間と人間”として、私にとって初めて経験する関係にあるのだろう。
恋と呼ぶかはわからないけれど、愛と呼ぶには未熟だろうけれど。
これが私の恋愛のかたちなのだと、
そういう解釈でいいのではないかと今のところは思っている。

私の価値観に、価値を見出してくださりありがとうございます。