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地方移住のホントのところ①

コロナの影響で地方への移住がブームだそうだ。

一足早く10年間の地方移住生活を卒業して2020年春に関東に帰ってきた人間として、地方移住生活のホントの話をしたいなってずっと思っていた。正直なところ赤裸々に書きたいところではあるが、そこは品性ある文章で綴っていこうと思う。

2010年春、映画「おくりびと」に魅了され、新築で買っていた家を3年目にして売却し、順風満帆だった学習塾も閉じて、仕事も決めず知り合いもいない地に娘と犬を連れて引っ越していった。

観光協会の専門員からスタートしたキャリアは、ホテルマンから大学教員、そして最後には私立高校の校長というポストを経験することになった。最初こそ履歴書書いて試験と面接に臨んだが、そのあとは地元有力者から声がかかったものだった。

新聞やテレビにも何度も登場し、雑誌や新聞への寄稿文や連載記事を書くことも少なくなかった。10年間で講演回数は延べ300回を超えていて、正直なところドラマチックでエキサイティングな10年間だったと思う。

人生の終末では、おそらくこの地方で暮らした10年を一番懐かしく思い浮かべるだろうと思っている。

観光協会時代には、農村で埋もれていた手作りほうきをBEAMSに売り込み、パリに渡り日仏文化会館に展示された。あのまま続けていたら、フランスでの商品販売を準備していたし、さらにブランド化しフランス以外にも海外展開を視野に入れていた。

でもこの時、集落内におけるじいさまの時代からの複雑な人間関係に悩まされていた。こっちは誰も見向きもせずただ同然で物々交換していたほうきを1万5千円の商品に作り上げ販売先も開拓したのに、足元では「あいつが気にくわない」とか「あいつは○○高校しか出てない」とか結局個人間の好き嫌いが大きな障壁となってしまって、部外者の私としては「もっと広い視野で物事を見てほしい」と願っていたのだが、こういうことが同じ土地に同じ構成員でずっと住み続ける農村の「しがらみ」なのだろうと理解しようとた。

私には推し量ることすらできない価値観だった。私がいくらバイヤーとつなぎ、世界に出ていくチャンスを作ったとしても、それが彼らの選択なのだとしたら、これ以上私が立ち入ることはできない。作るのは彼らなのだから。

0から物事を新しく作り上げることをいつもやってきた。それには一緒にやる人をその気にさせねばならない。その気にさせるには、成功する確信をもたさねばならない。「この船に乗ると必ずいいことある」と思わせねばならないのだ。それには、成功した時のイメージが描けるようにしっかり示すこと。そして、そのために言い出しっぺがガムシャラに働くこと。これをずっとやってきた。

理解しがたい人間関係のややこしさに辟易することもあったが、もちろん、農村ならではの良さもたくさん経験した。いつ行ってもおいしい手料理をごちそうしてくれたお母さんは実の母以上にあったかかった。野菜やコメを毎年送ってくれたり、寒くはないか、体は無事かと親以上に気にかけてくれる人情厚い人もたくさんいた。

ただ、県や市の行政に関わる委員には何度も任命されたが、「3代住まないと土地の者とは認めない」と言われたり、ある組織の委員に推薦したからと根回し依頼を受けたにもかかわらず、重鎮が「あの人はよその人だから」という理由で却下されたこともある。それは代々地元の名士で構成されてきた組織だった。推薦者は、「だからこそ新風を吹き込みたくて」私を推薦したそうなのだが。

私のお勧めは、地方移住するなら地元に関わるのか関わらないのかを決めること。関わると決めたなら、周りの半分は批判者になり嫌な思いをすることもあることを覚悟して、それに負けない強さを持つこと。

関わらないと決めたら、人情とか友達とかを求めず、自分の力で自分の楽しみを作っていくと決めること。どちらかかなって思います。

地方移住は、マスコミでもてはやされるような、そう簡単なものではないです。でも超濃くって、人間臭くって、エキサイティングではあります。

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