1ヶ月ヨーロッパに行ってきたんやvol.26
1ヶ月、ヨーロッパにいってきた。
硬水で肌もザラザラになるし、髪の毛も明るくなるし、美味しいものもたくさんあるから太る。太陽だってサンサンに降ってるからソバカスは多分増えた。いつもは凄い気にするんだけどそんなことはどうでも良すぎるくらい幸せだった。
3年ぶりの海外、人種がミックスされている風景を見て、久しぶりにドキドキした。
自分も空気の一部になっている場所は何だか気が楽
15歳、初めての海外もロンドンだった。その時も1人で行った。
当時、英語が宇宙語だと思うくらい何もわからなかった。当時スタバが好きだった私はインスタグラムで見つけたホイップクリームが真っピンクで、下は真っパープルの明らかに海外限定であろうフラペチーノが飲みたかった私。だがスタバに入れる勇気はない。
携帯もない私が謎の自信を持ち、はるばるロンドンまで1人で行く割には、こういうところで臆病になる。夢だった念願のフラペチーノを飲まずに帰るところが、私なのだ😃
なお、写真撮ってくれとも言えないので自分の写真は一枚もない。
そんな感じで(どんな感じで)覚えてる匂いや風景は変わらずにあったけど、友達もできたり、好きなところに好きなように行けるようになっているのは、何だか不思議な気持ちだった。
その後は、ヨーロッパにいった。
鉄道でさらっと違う国にいける。それでもカルチャーはさまざまだった。
アイスは美味いし建築は美しい。みんな外でビール飲んでる。歌ってる。好きな服着てる。タンクトップで下着をつけなくても誰も見てこない。ゆるゆる歩いてると後ろから猛スピードでベルを鳴らされチャリに引かれそうになる。トイレはどうしたらこんなに水浸しで汚くなるのか教えてほしい時がある。適当だ。今はこれでええ。
そんなわけでこれから嫌なことがたくさんあったとしても、この世界には美しくて適当で美味しいところも沢山あることがわかった。もしも絶望で死にたくなった時は、ここまで行くためのお金だけを稼いで、そこからまた考えればいいやなんて、鮮やかすぎる色の街を船から眺めて本気でおもっていた。
ミックスされている場所に行くと、そこには多数派という言葉をあまり感じない。マイノリティがあることも当たり前な空気感が、私の「ちゃんと生きてない自分」のマインドを朗らかにしてくれた。
正直ここに来る前まで、私はちょっぴり疲れていた。
兄にはいつも、「ちゃんと生きろ」とばかり言われていた。「ちゃんと」をよく考えた。
日本の「ちゃんと」は、割と統一化されている様に感じる。人種も、言語もカルチャーも同じだから、ある意味自然なことなんだろうけど、まぁ色々思う。
いつもは気にしないことも、知らない間に嫌な風にばかり感じていた。何気ない会話にも傷つき、心がチクチクしていた。気がつかない内に自分の存在を否定されているように感じるほど、私は余裕を失っていた。
ずっと誰になんの否定もされず、自分のしたいことができる時間がずっと欲しかったのだ。周りの価値観に合わせようとしすぎていたことにも気が付かなかった。バランスが取れていなかった。
これは周りではなく、自分のせい。
そんな1ヶ月は、贅沢すぎるくらい、1人でいた。それでも、ずっと移動をしていたわけでは無い。疲れた日は、1人で夜中にずっと気になってたドラマを一気に観たり、天気の良い日は芝生で寝て1人でボーッと本を読んだ。
松浦弥太郎さんの本に、滞在してる間は毎朝同じ店に行け、と書いてあったのを思い出したから、ローカルなコーヒー屋さんには毎朝通った。そうしたら確かに、友達ができた。芝生で一緒にゴロゴロした。色んな話をした。
それ以外にもホステルで出会った子に話しかけたら、誘ってもらった。夜中の公園でみんなでお酒を飲みながら他愛もない適当な話をした。
朝も歯磨きをしていたら違う男の子がキッチンに入ってきた。ツアーで来たという。好きなアーティストの趣味があって盛り上がる。日本から来たと言ったらイチオシの日本のインディーズグループの曲をかけてくれた。
2人でペラペラ話してじゃあ、また会おうねって。彼、オーストリアに今日帰るって言ってるし、私も今日別の場所に行く。なんだか、小学生の頃に戻った気分だった。こうやって昔は知らない間に友達になっていたな〜と思い出す。
そんな風に、好きなままに移動した。好きなままにした。好きなままに見たいものは見た。色々考え事したり、無心になったり。とにかくボーーーっとした。捨てたいと思うものをわざわざ望もうとしなくていいのだと再確認できた。
人や、場所、ものに対して、距離感のバランスを作ることはとても大切なことだと離れてみて、感じる。
それでも、行く前は少し勇気が必要だった。お金や時間、労力や体力もいる。学生でもないのにこんなに休みをとってもいいのかなーと迷った。だけど行った自分には感謝したいし、いってらっしゃい、楽しんできてね、と気持ちよく行かせてくれた周りの環境にも感謝したい。
日本では考える時間や、休む時間を作ろうとしても、ついつい次の日の仕事のことを考えたりする。早くお家に帰ってあれしないとこれしないと、時間があるからどこどこ行かないと、なんて考える。何かを話しかけたり、発言するときも、周りにこう思われるかなーと遠慮することもある。
頭も身体も疲れていて、休む日が続くと、罪悪感を覚える。だから毎日を忙しなくしている方が満たされている感覚に陥る。
そんなふうにしていると、そんな日々が当然に感じてくる。頑張っていることを自分で認識しなくなる。当たり前だと思うようになる。自分を褒めたり、テキトーに休んだり、気楽にいる時間の作り方を時々忘れてしまう。
でも、この1ヶ月で思い出したことがあった。私たちはもっと自分のことが好きでいいし、楽しいことを楽しいままに行動していい。嬉しいことは嬉しくていい。やりたいことはやっていい。自分のペースでいい。それに対して楽しそうにしてるから、誰かに何かを言われるかも、なんて引け目を感じる必要性は一切ない。
休むことに引け目を感じたり、この歳で旅に行くこと、美味しいご飯を食べたり好きなことをすることも、誰かは遊んでばかりだと言うかもしれない。なにも考えていないとか、休みが取れない人がいるのに、自分ばっかり取ってずるいなんて言われるかもしれない。
それでも、私は今、自分のために働いて、自分のために生きて、自分のためにお金を使う。そんな風に自分に与えた愛や優しさは必ず、頑張りのエンジンになり、周囲のことも大切に出来る気がしている。
我慢は美徳だと考える先に、果たしてそれは周りに対して向ける愛のことも考えているだろうか。優しく出来るのだろうか。協調性という名前の後ろで、誰かに自分の価値観を押し付けていないだろうか。劣等感や、卑屈な心を誰かに向けてはいないだろうか。それが出来ないのなら、私にはその美徳は要らないと思った。
未来に不安になったり、過去に囚われて苦しくなる事は山ほどある。それでも、ずっと続くと思っている今は、ずっとは続かない。だから、ちゃんと噛み締めて生きたいんだと思う。
同じ人と、同じ場所で、同じ時間を過ごしたとても、その気持ちをもう一度再現することなど、不可能なのだ。
他者に感じる我慢が生まれた時に、親切心のつもりがなんで私ばっかり、なんていつの間にか意地悪な気持ちに変わっている時は、注意が必要です。休みましょう。私は休んでよかったと思う。
肩の力を抜いてアイスたべよ。適当にねてね。好きなところに行ったり、好きなことしよう。
そんなことしたって何も変わらないと思っても、実際そんなことなかったから。
次、いつ行けるかはわからない。でもこの1ヶ月で見た景色や、懐かしい匂いや美味しかったご飯の記憶、多様性のあるカルチャーをどうしても羨ましいと思った気持ち、ちょっぴり日本を恋しく感じる気持ちも、帰ってきて、ホっとした気持ち。ぼーっとした時間も、向き合って考える時間も、適当でいいと感じたことも、自分の中の一部となっている。だから、なんだか大丈夫な気がしている。
休みをくれた周りの皆さんありがとう
行ってらっしゃい、楽しんでねって言ってくれた皆さんありがとう
海外で出会って優しくしてくれた皆さんありがとう
私にもありがとよ
さ、またゆるゆる頑張ろっと
私、自分の「ちゃんと」は、やっぱり、自分で決めていきたい
では、またねーー
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