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さようならアデリー

アデリーペンギンが好きだ。
いや、正しくは好きだったというべきかもしれない。
アデリーペンギンを知ったのは森見登美彦の小説の「ペンギン・ハイウェイ」だったように思う。読んだのは10年ほど前だ。
ペンギンの生態を追う作中の内容に沿って、自分も調べ始めてみたところ有名なコラ画像(※)のペンギンであることがわかり、そこで俄然興味を持ったと記憶している。


※コラ画像のペンギン

このペンギンがアデリーだと知った時、旧友に出会ったような気分になった。もしくはジョジョを読んで「2ちゃんでよく見たやつの元ネタだ!」と久々にワロタ感情と似たものかもしれない。
実は以前から触れたことがあった存在だったという事実は、感情の振れ幅をより顕著にする効果がある。お前はあの時の転校生!
とにかくそこに感動と感謝があった。

ペンギンというのは世界に18種類発見されているらしい。
その中でもアデリーペンギンはレアなように思う。
ここでのレアというのは、ペンギンを扱うモチーフとしてアデリーのデザインが採用されることが少ない、という意味のレアである。
世で見るペンギングッズは、概ねコウテイペンギンかジェンツーペンギンがベースなように思う。水族館でもアデリーを飼育しているのは日本では片手で数えられるほどだ。
今でこそそうでもないかもしれないが、10年前に調べた時は本当にアデリーペンギンのグッズは世に皆無だった。
現にペンギンコレクションと銘打たれたガチャガチャにもアデリーはいない始末であり、あれには本当に憤慨した。
唯一と言っていいものとして、suicaのペンギンがアデリーモチーフらしいのだが、ちょっと可愛すぎるところが解釈違いだった。
アデリーの魅力として挙げたいのは感情が虚無っている瞳であり、アデリーに限らず私はそういうものが大好きなのである。
他で挙げるとすると中国三大家魚のハクレンもそうと言えるかもしれない。
suicaのペンギンはそれはもう可愛い愛おしいと思うけれど、そこに私の求めているものはなかった。

前置きは終わりである、本題は嗜好とは何かである。
最近、アデリー熱が冷めてきている。
というのも世にアデリーが溢れ始めている。
まるでブルーオーシャンを見つけたのか如く、ペンギングッズコーナーには当たり前のようにアデリーの姿が散見されるようになった。
アデリー好きな自分にとっては「やっと時代が追いついたか」と喜ぶべき状況である。

しかし、不思議なことにそれを嬉しく思っていない自分がいたのだった。
そしてその事実が、私を非常に追い詰めていた。
つまり私は「アデリーペンギンのようなマイナーのものを好きな自分が好き」なだけだったのかもしれないのだった。
アデリーグッズを探して、「見つからないなぁ~ジェンツーはあるのにアデリーはないか~笑」と、したり顔で腕を組みながら溢している時間が楽しかっただけなのかもしれない。
水族館に行っても、そこにいるペンギンがアデリーじゃないことをツマミにしてアデリーうんちくを語る自分に酔っていただけかもしれない。
アデリーって言うのは発見者の妻の名前なんだよ~とか言ってさ。
つまり、私はアデリーそのものを、別に好きではない可能性。
ペンギンという大人気コンテンツの中での不遇な立ち位置や、それを取り巻く外的要因に魅力を感じているだけなのかもしれなかった。負けヒロインを好きになるのと同じ構造だ。
確かに、アデリーそのものに詳しいかと言われると、つまり生態について知っているかと聞かれると、全然知らなかった。オタ芸打ってて曲は全然聴いてない打ち師のようなものだ。
インディーズがメジャーに行って冷めるときような感覚も同時にあり、結局はマイナーな存在を知っている自分が好きなだけだったのかもしれなかった。

そう思った時、嗜好とは何なのかわからなくなった。
10年を通して私が好きだと思っていたもの、つまり私にとって嗜好品は、私のステータスとしてしか扱っていないことになり、だったらそれはもう嗜好の対象とは呼べない気がする。
だったら他にないかと本当に嗜好しているものを考えてみた時に、何も浮かばなかった。
なにも好きなものがない。
アデリーに限らず、自分が「好き」と思っていたすべての存在が揺らいだ。

ただ、多くの人は青春の時期に終えてしまいそうな、こんな浅い悩みを大人になってからも自問をしている時点で、それはもう私にとってはそういうものと思う方が早いのかもしれない。

だからもう、考えるのを止めることにした。
ありがとうアデリー、昔好きだった人。
これからはハクレンを推します。


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