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天敵彼女 (29)

「痛ててて、やーめーろーよー」

「うるさいっ! さっさと歩け!」

 俺は、佐伯にヘッドロックを極めたまま、階段を上っていた。

 当然、時折腕の硬い部分を佐伯の頬骨の辺りにグリグリするのを忘れなかった。

「まじで、これきつい。や、やめて」

 暴れる佐伯。俺は、階段の踊り場で一度立ち止まった。

「もう言わないか?」

「何を?」

 俺は、佐伯の頭を自分の胸に押し当てるようにして固定し、それから腕をクイッとやった。

「いててててててて、もう言わない。もう言わないからっ!」

 一際大きな声が響いた。いつもふざけた雰囲気の佐伯だが、さすがに今だけは真剣に「反省」してくれたようだ。

「分かったならいいよ」

 俺は、佐伯を解放した。

 最近、色々あってむしゃくしゃしていたが、何だか胸のつかえが取れた感じだった。

 頬を抑える佐伯。思わず頬が緩む俺。

 しばらくすると通常モードに戻った佐伯が俺に訊ねた。

「で、何?」

「何って?」

「言っちゃいけないって何の事?」

 こいつ何にも分かってねぇ……俺は、どう話したらいいものかしばらく考えた後、端的に説明した。

「あの子に……ちび……とか言うな」

「何て?」

「だから、ちびっ子はやめろ!」

「えっ?」

 聞こえないふりをする佐伯に殺意がわいたが、俺は自分を落ち着かせながら丁寧に丁寧に説明した。

「あの子は、奏の大切な友達なんだ。五年前はどうか分からないが、高校生にちびっ子はやめろ!」

「えっ? あの子って、ちびっ子の事?」

「だから、それをやめろ!」

「どうして? 俺、自分に嘘つけないよ」

「じゃあ、どうなってもいいんだな?」

 俺の説得(物理)を佐伯は受け入れ、心底理解してくれたようだ。

 奴は、もう二度と都陽という子を小学校時代のあだ名で呼ばない事を約束した。

「分かったよ。そこまで言うならやめるよ。実は、早坂の親御さんにあの子の事頼まれててね。でも、どう声かけていいか分からなかったから、つい昔の呼び方になっちゃったんだよ」

「ふーん、って誰?」

 俺は、思わず聞き返した。

 佐伯は、きょとんとした様子で言った。

「早坂都陽だよ。名前知らないの?」

「ああ、苗字早坂だったんだ」

 俺は、ようやく都陽という子のフルネームを把握した。

 うちに来た時も確か名乗っていたはずだが、見た目の衝撃にやられ、聞き逃してしまっていた。

 それをこんな形で知るなんて……佐伯には朝から冷や冷やさせられたが、これはこれで良しとしよう。

 一人頷く俺に、佐伯が呆れ顔で言った。

「全く、相変わらずだなぁ。叶野様は女子の名前覚えないので有名だからね」

「まぁな、でも初対面で……驚くだろ? なぁ? あの子もかなり緊張してたみたいで、声小さかったし……まあ、女子の名前覚えられないのは認めるけど」

「そっか……ちょっと、話し戻すけど、早坂の母親とうちの母親が昔から仲良くてさ、娘が転校するから面倒みて欲しいって言われてるんだ……ちなみに、うちは母親の権力が非常に強い家でね……」

 佐伯の乾いた笑顔。こいつもそれなりに苦労してるんだなと初めて思った。

 俺は、佐伯の言葉をそのまま鵜呑みにする程お人よしでもないし、そもそ
もこんなサイコパス野郎が奏の周囲をうろつくこと自体良い事とは思っていない。

 出来れば排除したい奴ナンバーワンだが、こいつの情報網はそれなりに使える。

 一応、裏はとる必要があるが、こいつの家に怖いママがいるなら、佐伯は都陽という子にはちゃんと接するだろう。

 正直、都陽という子にまで手が回らない現状があるので、協力者が出来ること自体はありがたいが、よりによってこいつはなぁ……本格的に悩み始めた俺に、佐伯が更にぶっこんできた。

「これは、君にとっても悪い話ではないと思うよ。早坂って、奏ちゃんだっけ? その子の友達なんでしょ? 例の君とは家族同然でトラブってる子。うちの母親から聞いた話だと、早坂はその子と一緒に転校して来たみたいだから、かなり親しい友人という事になる。君は家族同然の奏ちゃん、俺は早坂の世話を焼かないといけないから、これからやらなきゃいけない事が被る訳だ。だから、俺達協力しない? 悪いようにはしないから、協力しようよ。ねぇ、いいでしょおぅ?」

 一応、佐伯の話は筋が通っているように思えた。

 出来れば、こんな提案即座に突っぱねたいが、そうもいかない事情がある。

 俺一人で出来る事は限られているからだ。

 例えば、都陽という子がどこに住んでいるのか分からないが、少なくとも俺や奏とは学校の近くで別れることになる。

 その後、都陽という子は一人だ。

 元実習生と面識がある以上、都陽という子にも危険はある訳で、特に登下校時が心配な訳で……家が近い佐伯が付いていてくれれば、それはそれは安
心なのだから、今は過去のわだかまりは水に流さざるを得ない。

 だからといって、こいつを信用した訳じゃない。許したわけじゃないんだ。

 俺は、こんな俺に娘を頼むと頭を下げた都陽という子の親御さんの為にも、今は涙を呑まなきゃいけないんだ。

「わ、分かった」

「叶野君、これからよろしくね」

 俺は、自己嫌悪に襲われながらも、何とか佐伯から差し出された手を掴んだ。

 ちょうどその時、誰かが俺達に声をかけた。

「おーい、もうホームルームだぞ」

 俺は、思わずぎょっとした。

 悪魔に魂を売った瞬間を、よりによって他人に見られるなんて……反射的に佐伯の手を払いのけた俺は、両手を後ろに回し、何事もなかったように振る舞った。

「イケナイ、遅刻シソウダ」

「あっ、俺達教室に行かなくちゃ……叶野、急ごう」

「あっ、ああ、早くしないとイケナイナァ」

 そんなわざとらしいやり取りの後、俺と佐伯は慌てて逃亡をはかったが、一部始終をばっちり見られていた担任に呼び止められた。

「お前ら、ちょっと待て。いやぁ、丁度良かったよ。誰に頼もうかと考えてたんだ。お前ら、空き教室から椅子と机二つずつ頼むな」

「まじかよぉ」

 思わず天を仰ぐ俺。佐伯も乾いた笑みを浮かべていた。

「プッ」

「都陽、笑っちゃかわいそう……で、しょ」

 何故か中年男のものとは思えない笑い声とヒソヒソ話が聞こえた。

 振り返ると、奏と都陽という子が担任の後ろにいた。

 こっぱずな所を見られたのもショックだが、うちの担任が引率していて、机二セットという事は……二人ともうちのクラスだという事になる。

 俺は、喜んでいいのか悲しんでいいのか、複雑な心境だったが、佐伯と二人大人しく空き教室に向かった。

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