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天敵彼女 (98)

 車に乗る時、実はかなり緊張していた。

 父さんは、普段は穏やかだが、キレると怖い。

 さすがに、今回はまずいと思っていたが、運転席の父さんはそれ程怒っていないようだった。

「大丈夫か?」

 思わず、身構える俺。

 ちょうどその時、一緒に後部座席に乗り込んだ奏が俺の手を握ってくれた。自分でも情けないとは思うが、一人じゃないと感じられ心強かった。

 俺は、自分でも驚く程素直に父さんに謝る事が出来た。

「う、うん……いきなり出てってごめん」

 こちらを振り返る父さん。俺の目をしばらくじっと見つめてから、素っ気なく呟いた。

「せめて行き先くらいは言いなさい」

「うん……」

「まあ、無事でよかった。帰るぞ」

 それで終わりだった。父さんは、それからは何も言わなかった。奏も、俺をそっとしておいてくれた。

 さっきまでの緊張感が嘘のようだった。

 やはりここが自分の居場所なんだと、改めて思った。

 俺は、車の窓から景色を眺め、ふと考えた。

 何故あんなことをしたのか? わざわざ、みんなを心配させるような形でする必要があったのか?

 自分でも何故あの場所に行きたかったのか分からない。

 父さんの言う通り、周囲への配慮が足りなかった。ここ数日、自分でもどうかしていると思う。

 これは本当に反省しなければならない。

 でも、悪い事ばかりではなかった。初めて毒……母親的なものと、まともに対峙出来た気がする。

 それが俺の人生にどんな意味を持つのかまでは分からないが、今この瞬間、俺の心は良く分からないもので満たされている。

 ある意味、今日あの場所に行ったのは正解だったのだろう。

 今となっては、そう思うことは出来るが、あの時は本当に焦った。

 まさか、本人が出てくるとは思わなかった。

 今日は、公園に行って、そうそう偶然は重ならないと確認するのが目的だった。

 俺が怯えていたのは、母親的なものの影であって、母親的なものは俺の元をとっくの昔に去り、これ以上俺に被害を与える事はないのだと知る為だったと言ってもいい。

 俺は、それを足掛かりにして、自分の中の怯えと向き合い、父さんがそうしたように自分の中の恐怖を克服しようと思っていた。

 俺の中には、まだ強い部分と弱い部分がある。

 元実習生のような存在には強気に出る事が出来ても、奏との関係を進めて行く事にはどこまでもヘタレてしまう。

 大切な人を守る為なら簡単に自分を犠牲にするくせに、守りたい相手と幸せになる事が出来ない。

 そのアンバランスさを解消しなければいけないと思った。

 俺が、女性である奏をどこかで母親的なものと重ね、決して手に入らない愛情と結び付けてしまう原因は、言うまでもなく両親の離婚だ。

 父さんは、大変な心の痛手を乗り越え、俺の為に一生懸命頑張ってくれている。

 それは、俺の大きな心の支えになっているが、それだけでは俺は前を向けない。少なくとも、女を恐れ、敵視する事からは抜け出せないだろう。

 だから、もう一方の原因……むしろ元凶と向き合いたい願望が生まれたのだろう。

 俺は、あの人に会う覚悟などないまま、公園に向かった。

 あの時は、一杯一杯でろくにあの人の顔を見る事も出来なかった。でも、一番言いたいことは言えたと思う。

 確かに、俺は母親の愛情には恵まれなかったが、父さんも縁さんもいる。おばあちゃんもいた。サルマンさんとの出会いもあった。早坂や、ものすごく不本意だが、佐伯という奴もいた気がする。

 そして、何より奏がいる。

 だから、もう大丈夫だ。

 もう、過去に縛られ続ける必要はない。

 たまたま、俺には俺の人生があり、あの人には別の人生があっただけだ。

 酷い形ですれ違ってしまったが、俺の幸せを願っていない訳ではなかったのだと思う。

 だから、あの時幸せになるという俺に、あの人は微笑んでくれたのだろう。

 もう会うことはないかもしれないが、あの人がいなければ俺は存在しなかった。

 これから俺にどんな運命が待っているのか分からないが、生きる時間をくれたのは父さんとあの人だ。

 それを無駄にしないよう、俺は生きていこうと思う。

 そんな事を考えている内に、車が家に着いた。

「父さんは、もう少しここでやる事があるから、八木……縁さんに謝ってきなさい。お前の事心配してたから」

「分かった」

 俺は、奏に玄関を開けてもらうと、そのままリビングに向かった。

 縁さんは、ソファに座っていた。俺は、まず心配をかけた事を謝罪した。縁さんも、俺を責めたりはしなかった。

 ただ、一言「青春だわぁ」とだけ……その言葉を聞いて、急に俺は気恥ずかしくなり、思わず部屋に帰りかけた。

 もちろん、話はそこで終わる事はなく、俺は縁さんと奏に引き止められた。

 縁さんは、俺達に座るよう促すと、真剣な表情で俺に問いかけた。

「峻君、会えたの?」

「ええ……」

「どうだった?」

「うまく言えませんが、会えて良かったです」

「そう……、それは良かったわね」

 俺は、頬が熱くなるのを感じていた。他人から見れば些細な事かもしれないが、母親的なものと初めて対峙出来た事を、縁さんが認めてくれたように感じたからだ。

「良かったね。本当に……」

 奏が鼻をすすった。俺も、何だかしんみりしてしまった。縁さんは、俺達が落ち着くまで、黙って微笑んでいた。

「もう大丈夫?」

「はい……」

「じゃあ、一つ聞いていい?」

「大丈夫です」

 俺は、ソファに座り直した。

「奏とこれからどうするつもりなの?」

「ずっと一緒に生きていきたいと思っています」

「そう……奏は?」

「私も……ずっと一緒に……」

 奏が泣いていた。俺は、奏の方に向き直り、まっすぐに目を見た。自分でも驚く程、気持ちが落ち着いていた。

「奏、俺とずっと一緒にいて欲しい……俺と付き合って下さい」

「……はい」

 こうして、俺と奏は正式に付き合う事になった。縁さんは、そんな俺達にらしい言葉をかけてくれた。

「奏、峻君、おめでとう。私も嬉しいわ……これは、ちょっと今言う事じゃないかもしれないけれど、聞いて欲しいの。人生にはね。自分達の力だけではどうにもならない事があるわ。どんなに二人の心が深く結びついていても、いつか離れ離れになるかもしれない。それは、災害とか戦争とかかもしれないし、他の原因かもしれない。もっと言えば、二人が最後まで一緒にいたとしても、人って同じ時に死ねないでしょう? 私は、二人に幸せになって欲しいし、後悔しないように生きて欲しいけど……うまくいかなくても、余り自分を責めないでね。言いたいのはそれだけ……」

 縁さんが目に涙をためていた。俺は、最後の言葉を聞いた時、あの時の父さんの姿が頭に浮かんだ。

 多分、こういうのは世間一般とは違うんだと思うけれど、俺達には最高のはなむけの言葉だと思った。

 俺は、奏と見つめ合い、縁さんに感謝の気持ちを伝えた。

 丁度、その時父さんがリビングに入って来た。

「おかえりなさーい」

 俺達が振り返るより先に、縁さんが父さんの元に駆け寄っていた。

「二人とは話が出来ましたか?」

「ええ、峻君男らしかったですよ。これで安心ですね」

「ええ……今日は色々ありましたが、これで一安心ですね」

「そうですね。帰りましょう!」

「えっ、ちょ、ちょっと……」

 俺と奏は、父さんの手を引っ張って自分の家に戻ろうとする縁さんに、思わずツッコミを入れた。

 さっきまでの感動的な雰囲気が台無しだった。そんな所も縁さんらしいと言えばらしいいのだが、付き合い始めたその日にいきなり二世帯同居にするのは勘弁して欲しいと思った。

 俺は、別れ際奏に言った。

「これからよろしくね」

 奏は、すごく嬉しそうに微笑んでくれた。その顔を一日の最後に見る事が出来て、本当に嬉しかった。

 俺は、自分の部屋に戻ると、思わずため息をついた。こうして、俺達家族の長い一日は終わったのだった。

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