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天敵彼女 (78)

 俺は、台所で皿を洗いながら、物思いに耽っていた。

 一人のモンスターに荒らされた夕食会だったが、奏に注意されてからの秘書さんは、誰かに絡むことはなかった。

 普通に、奏や父さん達と談笑しながら、食事を楽しみ、誰かのグラスが空になっていたら、飲み物を注いでくれたりもした。

 それは、さっきまでの酔っぱらいの姿ではなく、いかにも「秘書」的な行動だった。その時点で、秘書さんは素面に戻っていたのだと思う。

 俺に対しても、さっきのように無理に距離を詰めようとすることはなく、基本放っておいてくれた。

 もう警戒しなくても大丈夫なのだと分かってはいたが、秘書さんと目が合う度に俺は下を向いてしまった。

 恐らく、元々あった女性への苦手意識が刺激され、自分の中のキャパシティーを越えてしまったのだと思う。

 こうなると、俺はひたすら固まってしまい、何も出来なくなる。

 自分でも情けないが、酔っぱらった状態の大人の女性に詰め寄られたことで、多少のフラバが起こってしまったようだ。

 そう言えば、家の中で酔っぱらっている人を見るのは、本当に久しぶりだ。

 父さんも縁さんも普段お酒は飲まないので、記憶を辿ると酔っぱらいは毒母にリンクせざるをえなくなる。

(大丈夫。峻君には、おばばが付いてるよ)

 一瞬、おばあちゃんの声が聞こえた気がした。

 そう言えば、俺が落ち込んだ時、いつもおばあちゃんがそう言って励ましてくれた。

 おばあちゃんは、良く喋る人ではなかったが、俺が何かに悩んだ時、核心を突いた言葉をくれる人だった。

 今日、奏は勇気を振り絞って家族の話をしてくれた。

 その時に、俺も何か話をするべきだったのだと思うが、俺には奏に話が出来るだけの材料がなかった。

 俺は、父さんから毒母と何故離婚したかについて聞いたことがない。

 毒母とも、アノ人物と一緒に父さんに突撃して来た日以来、一度も会っていない。当然、自分のした行状に対する弁解も何も聞く機会はなかった。

 一応、父さんが入院してから、俺も時々カウンセリングに通っているが、どちらかというと俺自身が自分の課題をどう解決していくかに重点が置かれており、父さん達の間に何があったのかについての情報提供はほとんどない。

 そもそも当事者の父さんに離婚前後の記憶に欠損がみられる為、カウンセラーさんにも本当の所は分からないんだと思う。

 俺にとって、両親の離婚について、唯一知る手がかりになったのは、おばあちゃんの言葉だった。

 その日、俺は少し不安定だった。

 内心、おばあちゃんに聞いても仕方がないと思いながらも、どうしてあんなひどい事になってしまったのかと訊ねた。

 おばあちゃんは、しばらく考え込んでいたが、俺を諭すように話し始めた。

「それは誰にも分からない事なのかもしれないね。夫婦の事は他人にはね。もしかしたら、お前の父さん母さんにもどうしてなのか分からないままだったのかもしれない。でもね、おばばからすると、あの二人は違い過ぎた。愛情に恵まれた家で育ったしゅうちゃんとあの子じゃ、そもそも無理があったのかもしれないね」

 俺は、おばあちゃんの優しい口調に心が落ち着くのを感じた。ちなみに、「しゅうちゃん」というのは父さんの事で、「あの子」が毒母だ。

 そう言えば、俺はどちらの祖父母にも会った事がない。父方の祖父母は、家に仏壇がある為、亡くなっているのは知っている。

 問題は、毒祖父母がどこで何をしているのか全く分からない事だ。

 毒母は、頑なに自分の両親について話そうとはしなかった。何度か聞いたことはあるが、その度に不機嫌になったのを覚えている。

 俺は、毒ファミリーについて知りたい気はしたが、何故か質問する気にはならなかった。幼心にも気が滅入るだけのような気がしたからだ。

「父さんの家ってどんな感じだったの? おじいさんともおばあさんとも会ったことがないから……」

「ああ、そうだったね。峻君が生まれる前に二人とも事故で亡くなってしまったからね。あなたのおばあさんは明るい子だった。私とは歳の離れた姉妹で、いつも私の後ろを付いてきてね。甘えん坊だった子だけど、大人になって優しくて穏やかな旦那さんをもらってね。しゅうちゃんはお父さん似なのかもしれないね。本当に良い家族だった。しゅうちゃんが大学生の時、就職先から内定ももらって……バイト代を貯めたお金で、両親に旅行をプレゼントしたのよ……そうしたら、旅行先で事故にあってね」

 おばあちゃんは、言葉に詰まった。父さんは、祖父母の話を余りしたがらなかった。俺は、どこかで自分のせいで両親が亡くなったと思っているのではないかと思った。

「しゅうちゃんは、本当に見ていられない位落ち込んでね……でも、しばらくしたら元気を取り戻して、あの子を私に紹介したのよ。私も、詳しくは知らないんだけど、しゅうちゃんはひどい家族から自分が守るんだと言っていた……しゅうちゃんにとって、あの子と一緒に失われた家族を取り戻そうとしたのかもしれない。でも、二人の中でそれぞれ家族だと思っているものが違っていたのかもしれないね」

 その日、おばあちゃんはそれ以上話してくれなかった。

 俺は、それからずっとおばあちゃんが言った事が心に引っかかっていた。今思えば、全く違う家族観を持つ二人が、それぞれの喪失感だけで繋がってしまったのだとしたら、それはきっと不自然な事だったのだろう。

 俺は、ある日おばあちゃんに質問の続きをした。多分、何週間か経っていたと思う。その頃から、俺は考え事をすると、ずっとその事ばかりになり、時間を忘れてしまう所があった。

「ねぇ、どうして一緒にいるのに、お互いが違っている事が分からなかったの?」

「何の事だい?」

「父さんと……あの人が家族だと思ってるものが違っていたって、おばあちゃん言ったでしょ?」

「あっ、ああ、その話かい……うーん、それはね。人はね、分かっているようで、何も分かっていないものなのさ。同じものを見ても、見えるものはそれぞれ違っていて、全く違う感想を持つ事がある。それは、親子でも夫婦でも同じさ……しゅうちゃんは、幸せだった家族を取り戻そうとした。あの子は、家族の幸せを手に入れようとした。それは、同じようで全く違う。最初は、あの子もしゅうちゃんの言う家族の幸せを信じていたのかもしれないけれど、子供の頃から家族の中に居場所を見つけられなかった子にとって、それは簡単な事じゃなかったんだろう。気が付けば、元々自分がいた場所に戻ろうとして、家族を壊したくなってしまった……おばばには、本当の所は分からないけどね」

「そっかぁ……僕には、良く分からないけど、そうなのかもしれないね」

「峻君に、まだこういう話は早いかもしれないけれど、峻君は利発な子だからね……でもね、全てを理解しようとしちゃいけないよ。それは、人の手には余る事だからね。世の中分からない事は多いけれど、それでも人生何とかなるものさ。峻君には、おばばがついてる。心配な時は、おばばの顔を思い出すと良い。ずっと峻君の事見守ってるからね」

 今でもその時のおばあちゃんの優しい顔が目に浮かんでくる。俺は、気が付けば皿を洗い終わっていた。

「ねぇ、峻。そっちは終わった?」

「うん、終わったよ」

 俺が振り返ると、奏と目が合った。奏は、俺の顔を見るとホッとした様子で微笑んだ。

「良かった。ちょっと無理させちゃったかなって……」

「大丈夫だよ。俺には、奏も父さんも縁さんもいるからね」

「何それ? でも、何か嬉しいかな」

 俺は、相変わらずの無表情で奏に微笑み返した。

 今はまだ無理かもしれないけれど、いつか奏にちゃんと話が出来る日が来ればと思う。

 俺は、奏と一緒に父さん達のいる部屋に戻ると、いつもおばあちゃんが座っていた場所に目をやった。

 そこには、何もないはずなのに、何故か暖かさを感じた。俺は、おばあちゃんが笑ってくれるように、生きていければと思った。

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