AIやロボットに関して生じる不安について

船木亨(著 )『現代思想講義──人間の終焉と近未来社会のゆくえ』に基づいて、AIやロボットについて学びます。

・ロボットたち
人間 と ロボット が おなじ 反応 を し た として も、 意味がまったく違います。ロボットは、言葉を与える人間身体の経験をもってはおらず、言葉をコマンド(命令)やトリガー(引きがね)としてしか受けとることができないのだからです。

人間の反応と区別がつかないほどに、さぞかし洗練されることでしょうが、区別できないことと同じであることとは、まったく別のことなのです。

人間 の 自己意識 は、身体をもっていることが前提となります。他者の身体との緊張関係こそが、自己意識と常識、思考する動機と行動する意志とを与える。

だから、いわばクラウド上でのテレパシーを使い、人間身体の作動、言動や表情を変数としてしか捉えることができないAIには、自己意識と意志の擬態をしかできなのです。


・不安な時代
われわれ は 不安 な 時代 を 生き て いる。 国際 情勢、 就活、 地震、 老後、失業、結婚、保育園、ハラスメント、親の介護、体調、うつ、詐欺、盗撮や痴漢される不安、痴漢したと誤解される不安、盗聴、監視社会、その他もろもろ・・・

1985年 の つくば 科学万博( 未来 博) では、壁掛けテレビやカーナビが未来の製品として紹介されていた。

それらは本当だった。それなのに今日、ひとびとが浮かない顔をしているのはなぜだろう。
科学万博の主催者たちも、まさかこんなことになっていると予想していな
かっただろう。

ひとを幸福にすることは、科学技術だけでは無理なのだ。

ある ひと たち は、 AI の 普及 が 管理社会 を 生みだす とか、個人のプライバシーがなくなってしまうとか、人間が機械に支配されるようになるとか、人間の仕事が奪われるとかいって、盛んに警鐘を鳴らしている。

それは間違っていていないと思うのだが、もっと大きな問題がある。

それは、さきに挙げたような不安を、AIは解消してくれそうにもないということである。

親との 確執 に 苦しん で いる ひと や、新宗教の教義に囚われてしまっているひとや、他人を支配しようとすることばかりに考えているひとなど、他人の判断をまったく受けいれる姿勢のないひとたちの抱えている問題に対して、そもそもAIはどんなアドバイスができうるのだろうか。

AIは正しい判断をするのではなく、正しいとされた判断をさらにデータとしてインプットして、正しいとされる判断の確率を上げていくだけだ。

AIの前提とする未来においては、ただ時だけが刻一刻と経ち、暦がその数を積み上げていく。それは、時間測定法における未来であって、われわれの夢や希望のある「未来」ではない。

AIが普及しつつあること自体は「未来」なのではないか、と思うひともいるかも知れない。
便利、快適、安全な社会である。しかし、その普及は人類の進歩ではない。人間が歴史の主役の座から降りるのだから。

AIが普及する理由は、ひとにやらせるよりも効率がよいという点にある。ロボットが普及する理由は、その仕事が人間にできても、人件費よりも安価にでき、持続して労働できるといった具合で、経営者にとっては、剰余価値を最大に生み出すメリットがあるからである。

・家族の衰退
家庭 を 意識 し すぎ た ことによる病的な精神は、決して人間の普遍的な問題ではなく、19世紀から20世紀にかけてのブルジョア家庭崩壊の「時代の病」にすぎないのだ。

フロイトの理論は、近代的人間の精神構造の理論であって、普遍的人間については何も教えてくれなかったーーそもそも「普遍的人間」など存在しないのだ。

資本主義時代になり、自給自足 以外 の 余剰 生産 物 を 交換していた市場に対して、労働市場が生まれて、ひとは労働を売って賃金を受け取り、市場において生活必需品を購入して衣食住を賄う生活に入った。

それでひとびとは、実質的にはずっと貧乏になった。自分の食べるものを買わなければならなくなったからである。

ヘーゲル は『 法哲学』 において、 その 過程を、家族・社会・国家という段階での弁証法的移行として説明しようとした。

①ひとは愛を基盤とする家族の中で生まれる。

②成長すると愛のない「欲望(欲求)の体系」とされる社会に出る。

③それが国家という体制のもとで再び愛のある社会生活へとアウフヘーベン(それ以前より価値あるものとなること)される。

しかしながら、その説明は、出発点からして間違っている。

われわれ が 赤ん坊 として 産まれ て くる のは 確か に家族のなかではあるが、そこには必ずしも愛を普遍的本質とするような場ではない。

核家族 が 普遍的 な もの と みなさ れる よう に なっ た のは、前近代の家族が政治的経済的宗教的活動の中心であったことが忘れられているからである。

間違えてはならない。

精子 と 卵子 の 結合 による 生物学 的 遺伝 的 関係 によって 核家族 が 生じてきたのではない。資本主義において「労働者」という身分と階級が成立して、家族だけを例外として、すべてのひとが労働を売買する「個人」にならねばならなかったからである。


家族 とは 人間 の 再生産 工場 で ある。「 工場」 という のは、ほかではない、社会の他の組織と同様に組織であって、「家庭」という牧歌的な名まえで呼びかえられるにせよ、疲れて帰宅する労働者に食事と寝場所の世話をして再生し、かつ道徳的に正統化された公然たる性交渉の結果として、将来の労働者となる人間の子どもを生産する場所なのであるからである。

・家族の崩壊
今日 において、 子ども が 大学 にまで 進ん でいるあいだ、労働者とならない空白期間(モラトリアム)が延長されていることも、女性が社会進出して労働者となることが推奨されていることも、以上の過程に矛盾しているように見える。

それは、資本主義の発展のなかで、家族の位置づけにおいて生じた矛盾であろうか。

人工授精 および 人工 子宮 による 将来 有能 な 子ども の 生産、および施設による集団育児であろうが、しかし、そのことは、「自由で平等な個人」という近代の理念に対して、大きな葛藤を引き起こす。

ひと びとは 矛盾 を 抱え た まま 生活 し て いく だろ う が、家庭崩壊や生涯独身者は、例外的な現象ではなく、資本主義の行きついた、避けられない現象なのではないだろうか。

AI化と家族崩壊の現象のあいだには、因果関係があるわけではないが、ポストモダンへ向かっての、おなじひとつの地崩れであるといえる。

それは、人間と機械の違いが本質的なものではなくなってきていることの二つの現象ということであろうか、やがては家族も消滅して、いみじくもホッブスが家族を無視して構想した近代市民社会、個人が生まれたときから社会に直結している状態が、リアルに出現しつつあるように思われる。

AIの 普及 と 家族 の 衰退 は、 構造主義 的 に いえ ば、どこかで共通している歴史の変化の二つの現象である。そこでは、人類全体の人口増加にもかかわらず、質量ともの減少が進む。







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