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轟孝夫(著)『ハイデガー「存在と時間」入門 』読書メモと呟き

(1)この よう に『 存在 と 時間』 では、 存在 了解 に関して、 存在 を 単に 現前 性 として 理解 する か、 それとも 今 述べ た 意味 での 将来 と 過去 の 次元 も 含ん だ 重層的 な 現象 として 捉える か という 二つ の 類型 が 対比 さ れ て いる。


(2)「存在 の 意味 が 時間 で ある」 という とき、 そこで「 時間」 と 呼ば れ て いる もの は、 存在 了解 の 地平 という 意味 で 理解 さ れ て いる。


(3)現象学 は この よう な、 唯一 の 客観的 実在 が 存在 し、 それ 以外 の 世界 の 表象 は 主観的 でしか ない という 考え方 に 異 を 唱える。


(4)不機嫌 は 何 かが うまく いっ て い ない ため に 自分 の 存在 も 含め た 状況 全体 が 重荷 と 感じ られる こと、 ないしは 特定 の 何 かが うまく いっ て い ない という わけ では ない に せよ、 とにかく生きる こと が 面倒 だ と 思わ れる よう な 気分 で ある という こと だ。

(5)ハイデガー は この こと(投稿者追記:気分において開示される自己の存在は、自分の意志によって引き起こされたり、生み出されたりしたものではないこと) を、 現存在 が おのれ の「 現」 へと 投げ入れ られ て いる と 表現 し、 現存在 の「 おのれ の 現 への 被 投 性( Geworfenheit)」 と 呼ん で いる( SZ, 135)。

(6)情態 は「 襲っ て くる」 という 性格 を もつ。 そして その よう な 情態 において こそ、 むしろ 意識的 反省 よりも 根源 的 な 自己 開示 が 起こっ て いる の だ。

(7)しかし そうした 娯楽 こそ が、 皮相 な「 笑い」 や「 涙」、 ときには「 怒り」 を 生みだし、 また「 夢」 や「 希望」、「 勇気」 や「 感動」 を 惹起 する こと によって、 気分 の 根源 的 な 自己 開示 から むしろ われわれを遠ざける。

(8)通常 の 意味 での 認識 は「 すでに 別 の 第一 次 的 な ふる まい によって 発見 さ れ た ものの 単なる 捉え 直し」 に すぎ ない。それどころか、 認識 とは「 根源 的 に 非 認識 的 ふるまい において 発見 さ れ た もの を 単に 隠蔽 する 可能性 に すぎ ない」 の だ。

(9)すなわち 現存在 は「 被 投 的 な もの として、 企投 する という 存在 様式 へと 被 投 さ れ て いる」( SZ, 145)。 つまり 現存在 は「 投げること」 へと「 投げ入れ られ て いる」。 こうした 現存在 の あり方 を ハイデガー は 被 投 的 企 投 と 表現 する。

(10)語り と 言語 を 比べる と、 語り が 第一 次 的 で あり、 その 語り を 具体的 に 保持 する 物理的 な 存在 者 が 言語 で ある という 位置づけ で ある。

(11)語り とは「 世界‐内‐存在 の 情態 的 了解 の、 意義 に 沿っ た 分節 化 で ある」 と 規定 し、 その 語り には「 語り の 主題( 論じ られ た もの)、語ら れ た 事柄 そのもの、 伝達、 表現」 が 構成 契機 として 属し て いる と 述べ て いる( SZ, 162)。

(12)現存在 が この (投稿者追記:不安においては、現存在がおのれの本来性の可能性に直面させられているが、その可能性は、自分自身の可能性であり、それを選び取るか取らないかを自分で決めなけれならない状態の)ように「 それ 自身 単独 で」 存在 し て いる こと を、 ハイデガー は「 実存 論 的 独我(Solipsismus)」 とも 呼ん で いる。

(13)自分自身 の 存在 能力 を 気遣い つつ、 他方 で そこ からの 逃避 として「 世界」 を 気遣う という 形 で、 現存在 の 存在 が 二重 の 意味 での「 気遣い」 で ある こと が 浮き彫り浮き彫り にさ れる の だ。

(14)世界 を 欠い た「 私」 という もの は 存在 せ ず、 また 他者 から 切り離さ れ た「 私」 が ある わけ でも ない。 したがって「 私」 とは その つど その つど 私 自身 に 直接 与え られ て いる もの だ という、 従来 の 哲学 で 語ら れ て き た「 私 の 所与 性」 は、 現存在 とは「 誰 なのか」 という 問い の 答え には なら ない の だ。

(15)ハイデガー は 現存在 が こうした(投稿者追記:人々がお互いに他者の様子を気にしつつ行っている) 競争 によって 他者 と 隔て られ た あり方を「 疎隔 状態( Abständigkeit)」 と 名づけ て いる( SZ, 126)。

(16)「標準 性」 の 気遣いの うち には「 存在 の あらゆる 可能性 の 均等 化」 という 現存在 の 傾向 が 示さ れ て いる、 そう ハイデガー は 指摘 する( SZ, 127)。

(17)おしゃべり という 様態 において 語り は「 語ら れ た 存在 者 への 一次その 存在 者 について「 語ら れ た 事柄」 だけを 受け売り し て、 言い 広める という 仕方 で 行わ れる( SZ, 168)。

 こうした おしゃべり の あり方 を ハイデガー は「 地盤 喪失( Bodenlosigkeit)」と呼んでいる。この よう に ハイデガー は 一貫 し て、 おしゃべり を、 語ら れ て いる 物事 への 根源 的 な 存在 関係 を 失っ た あり方 と 特徴 づけ ている。

【呟き】
会社組織内の命令、連絡、報告等を除いた、日常生活での会話は、ほぼ地盤喪失した状態での、単なる、おしゃべりに過ぎない。ハイデガーは、その裏面として、語りの主題となっている物事に対する存在関係もありうると実存論的分析している。

最近、読み始めた、竹田青嗣のフッサール解釈によれば、ハイデガーは、現象学の本体論の解体から、存在論の探求へ転換しており、フッサールが主張している、「現象学的還元」つまり「確信構造の解明」から離脱した。

ハイデガーが『存在と時間』で人間の実存について優れた本質観取を行ったが、現象学の真の意味は現象の背後に隠れているものを「解釈」することだとして、フッサール現象学の核心をなす認識問題の解明から離れ「存在の真理」(=存在の意味)の探求へと進んだ、と述べている。

古代から、哲学の中心的な謎は「認識の謎」であり、そこから「存在の謎」と「言語の謎」が現れたといえる。「認識の謎」が根本的に解明されない限り、「存在の謎」も解かれないわけで、こうして『存在と時間』は未完とならざるをえなかった。

竹田青嗣は、ハイデガーに限らず、構造主義、ポストモダン思想、分析哲学、新・実在論と、あらゆる哲学界に対して、「認識の謎」が解明されていないので、有効ではないと批判している。したがって、読書ノートを投稿するたびに、竹田青嗣的視点からの見直しをせめられていて、神経的にも、疲れてくる。しかしながら、竹田青嗣の著書には、柄谷行人を引用している箇所があるが、全面批判ではなく、一部批判に終わっているので、救いとなっている。】





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