ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(13)読書メモ

第三章 第八節 原国家

そもそも私有財産、富、商品、諸階級といったものは何を意味しているのか。もろもろのコードの破産を意味しているのだ。いまや、脱コード化したもろもろの流れが出現し生起して、社会体の上を流れ、社会体を貫通する。

すでにコード化されている大地的諸要素を超コード化することにはとどまりえない。国家は、ますます脱コード化される流れのために、特殊なコードを発明しなければならない。専制君主制が新しい階級関係に役立つようにすること。

富裕と貧困の、商品と労働の関係を統括すること。市場貨幣と収税貨幣とを融和させること。いたるところで新しい情況の中にたえず〈原国家〉を注ぎ込むこと。こうしていたるところに潜在的モデルがあり、ひとはそれに匹敵するができないが、それを模倣せざるをえない。


国家は変幻自在であるが、未だかって唯ひとつの国家しか存在したためしがないのだ。だから、これからもろもろのヴァリエーションが生じ、新しい縁組のあらゆる変形が現れるとしても、これらはすべて同じカテゴリーに属している。

例えば、封建制は、抽象的な専制君主国家を前提とし、私有財産の体制と商品生産の躍進にしたっがて抽象的な専制君主国家を線分化するのであるが、それだけではなく逆に、私有財産と商品生産とは、厳密に封建的な国家の具体的な実在をもたらすのであって、専制君主はそこに絶対君主として帰ってくるのだ。

というのも、商品生産が発展すれば、必ず封建制が爆破するなどと信じること(逆に多くの点で、商品生産は封建制を強化し、封建制の存在と存続の新しい諸条件を与える)、また封建制がおのずから国家に対立するなどと信じることは、二重の誤りである。逆に国家は、封建制国家として、商品が流れの脱コード化をもたらすことを阻むことができる。流れの脱コード化のみが、当のシステムにとって破壊的なのだ。


何と奇妙な機械が、いくつもの円柱の上に、また木の幹に出現することか。キリスト教は、この意味ではパラノイア機械と独身機械のあらゆる働きを、つまりパラノイア人と倒錯者たちの全系列を展開することができた。

彼らは、私たちの歴史の地平に属し、私たちの暦に住みついている。ここには国家の生成をめぐる二つの様相がある。ひとつは、物理的システムを形成しつつ、ますます脱コード化される社会的な力の場において、国家を内面化すること。

形而上学的システムを形成しつつ、ますます超コード化する超地上的な場において、国家を精神化することである。無限の負債が内面化されるのとは、同時でなければならない。良心の呵責の時がやってくる。それは大いなるシニズムのときであろう。

「内面生活において抑圧され、恐れおののいて自分自身の個人性に後退した〈畜群人間〉のあの押し殺された残酷さ。飼いならされるために〈国家〉の中に閉じこめられ。・・・・」


この国家は別の次元に属する抽象のようなもので、常に一歩退き、 潜在性に侵 されているが、後続する国家形態はこの抽象に具体的な実在を与えるので、それだけにこの抽象はま すます後続の国家形態の中にはね返り舞い戻ってくることになる。 国家は変幻自在であるが、未だか つて唯ひとつの国家しか存在したためしがないのだ。だから、これからもろもろのヴァリエーション が生じ、新しい縁組のあらゆる変形が現われるとしても、これらはすべて同じカテゴリーに属してい る。

【「潜在性に侵されている 」 というのは、〈原国家〉のモデルから逸脱して、輪郭が崩れ、モデルとしての〈原国家〉は、他の 無意識の欲望と共に潜在化して、直接的に影響を及ぼさなくなっている、ということでしょう。(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義より】

国家とは欲望であり、専制君主の頭から臣下たちの心へと、そして知的な法則から物理的システムの 全体へと移行する欲望そのものである。物理的システムは、知的法則を免れて自由になるのだ。また 国家の欲望という、この最も幻想的な抑制機械はやはり欲望だ。 国家は欲望する主体であり、また欲 望の対象である。欲望とは、起源的な〈原国家〉を新しい状態の中に再び注入し、この〈原国家〉を できるだけ新しいシステムに内在化させ、あるいは内面化させる働きのことである。

【 物理的現実と、〈原国家〉を めぐる知的理想が乖離すると、各人の欲望を超コード的に抑制するという本来の機能が果たせなくなりま す。 そこで、キリスト教は、霊的帝国を築いて、地上の帝国と相互に補完し合うようにさせた、というこ とですね。(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義より】

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