目的への抵抗とは
國分功一郎著『目的への抵抗』に基づいて、目的への抵抗とは何かを探ってみる。國分氏は、本書の冒頭でいきなり次のような暫定的な結論を述べている。
勉強にしても、仕事にしても、何事につけて、目的を立てて、計画に行わなければ、必ず、失敗すると、散々言い聞かされてきたが、本書では、それを疑えと提示している。どういうことだろうか?
本書を読むのは、2度目であるが、今回は、どういうことかを探りながら、前回よりは、早めの速度で読んでいる。ところが、アガンベンの論点の説明が延々と続き、これが、何処に帰結するのかと、2度目なのに、ハラハラドキドキしながら読んでいる。
そして、ようやく「移動の自由」というのが現われてきた。ここで、おぼろげながら、思いだしつつある。自由には、表現、信教、学問、結社、職業選択等々と実に多くの自由の権利があるが、移動の自由となると地味な感じがする、と書かれていたことを。
移動の自由について、ベルリンの壁の崩壊のことが描かれていたが、これはほんの偶然によるものだと述べていることに驚きました。私のイメージでは、東ドイツの人々が自由を求めて、過激に、壁を打ち壊したというものだったからです。これは、他の人にも共有されているものだと認識していた。
ここで、アガンベンがコロナが始まったころの緊急事態時に発した論考は、重要なことと思われるので引用します。
ここで、様々なカテゴリーという中には、法律家も含まれている。これが最重要です。行政は基本的に法律で決められたことしか行えないが、緊急事態事項や、例外状態を、安々と受入れると、どんなことになるのかということを、アガンベンは強調しているわけです。
アガンベンはナチスドイツのことを探求されていたことでも有名ということです。ナチスでは、知られているように、行政を自由自在に操れるように、厳格なワイマール憲法下で緊急事態条項を制定した。ヒットラーはそれを利用して「全権委任法」制定して、行政でのフリーハンドを獲得した。その結果が、悲惨なことになったことを、アガンベンは、熟知していました。これが、ナチスの手口と言われるものです。
麻生副総理は、以前、安倍元首相政権下で、日本もナチスの手口を真似したらよいなどと問題発言して大騒動となったことがありました。自民党政権は、憲法改正と称して、この緊急事態条項を憲法に加えることに必死となっているが、その含意しているものが何かは透けて見える。
さて、目的を疑う話しですがコロナ渦では「不要不急の外出はひかえるように」が喧伝されたが、このことに触れてきたので、そろそろ、これと目的がリンクするのでは、と想定できる。
「不要不急」が「必要」という概念に関わってくることは容易に分かる。すると「必要」と「目的」の関係性が見えてくる。
國分氏の過去の著書『暇と退屈の倫理学』で贅沢について言及していましたが、この贅沢は、「必要」なものかと言われれば、そうではないと、少なくとも、人の生存のためには、必要とは言えないだろう。だが、生存のために必要ではなくとも、人間が人間らしく生きるためには、これが必要とする人たちもいるはずです。
有名な格言で「人はパンのみで生きるにあらず」というのがあり、サーカス、映画、スポーツ、テレビ、スマホなどの娯楽も、人は必要とする。
人間の生存にとって必要という限界を超えた支出を贅沢と感じる、と國分は述べている。贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶが、この浪費と消費の違いの解説があり、また、どこに向かうのだろうかとザワザワしてくる。
浪費は物が対象で消費は物ではなくて観念や記号を対象としている。消費は「あの店にいった」という観念である。だから、浪費には限界があるが、消費には限界がないと言うわけです。
ここから、國分氏は、限界のない消費社会は、われわれに何の贅沢も提供していない、と論点を展開するのです。浪費は物が対象ですから、いくら美味しい食べ物でも、どこかで満足に達してしまう。
さて、そろそろ目的の結論へと導くかと思うと、イギリスの食のまずさは何故かという話しに脱線します。
ようやく、贅沢と目的の関係に論及してきました。贅沢の本質は、目的なるものからの逸脱があるのではないか、という主張です。
以下、ハンナ・アーレント、ベンヤミン、プラトンの論考を解説後に、國分氏は、下記のようにまとめています。
本書でも、記述していますが、國分氏は、約10年前、地元の東京小平市で、都道の建設に関する住民投票に参加していたことは、リアルタイムにラジオ番組でも聴いていました。哲学者が、実際に、街に出て社会運動しているのは、現在では非常に稀有なことだと驚きました。それだけに、彼の政治的発言には、真実味と誠実さを感じる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?