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ウィトゲンシュタインと言語哲学(分析哲学)

現代論理学を創始したフレーゲに深く影響を受けた前期のウィトゲンシュタインは主著『論理哲学論考』(略称論考)で思考の限界、言語の限界を引くことによって、哲学上の諸問題は解決したと考えた。

自然科学「自然の数学化」という方法によって自然の客観認識をなしとげたように「言語の数学化」を現代論理学は狙っていた。

言語の数学化に関して、竹田青嗣氏は次のように述べる。

言語の数学化という企てがうまいくいけば、あらゆる言明はつねに「同一」の意味を表現することになるから、言語からあいまい性は排除され、人文領域における普遍認識の可能性につながる。

竹田 青嗣. 哲学とは何か NHKブックス (p.112). NHK出版. Kindle 版.

ウィトゲンシュタインの論考もまさしくそういう試みだと言う。

後期のウィトゲンシュタインは論考の理論をみずから解体する著『哲学的探求』を刊行した。

『哲学的探究』におけるウィトゲンシュタインは、一定の規則を置くことで言語にその意味を規定(記述)できる、という現代論理学の大前提を疑う。そしてこの疑いは、言語の問題に関するおびただしい難問やパラドクスを生み出すことになる。

竹田 青嗣. 哲学とは何か NHKブックス (p.113).る NHK出版. Kindle 版.

このウィトゲンシュタインの転回によって、現代言語哲学(分析哲学)は一気に相対主義=懐疑へと傾くことになる、と竹田は指摘する。

こうした竹田の指摘はあるが、分析哲学こそ哲学だという流れを感じている。これは竹田の指摘している問題を克服したということなのだろうか?

今さら、分析哲学を勉強しようという気力も失せているので、Wikipediaから引用しました。

《言語哲学以外にも、分析哲学に関わり、当初からの重要な位置をしめていたものに科学哲学があり、またこれに関連して、従来の認識論が現代の自然科学の自然認識を基礎付けないばかりか多くの点で不整合になったことから発展した知識の哲学、そして知識の哲学の中から生まれ、認知科学の発展に呼応して展開する心の哲学など、分析哲学自体は衰退することなく逆に拡大と発展を遂げた。このなかで、従来なら分析哲学が棄却しようとした問題(たとえば形而上学として排斥された実在論の問題)が、分析哲学及びそれを批判しつつ継承する流れの中で、再び取り上げられるようになっている。またそれぞれの科学についての哲学、具体的に言えば生物学の哲学や心理学の哲学も、近年における分析哲学の一角を形成している。》

その他、多様化されていて、下記のものがあります。

《分析法学、分析的政治哲学、分析的マルクス主義、分析美学など。

分析哲学の観点から、プラトンアリストテレスを始めとする過去の哲学者・哲学史を再解釈する営みも行われている。

同様に、分析哲学の観点から、仏教哲学インド哲学中国哲学西田哲学といった東洋哲学を再解釈する営みも行われている。》

カントの専門家である中島義道氏は、若いころは、「いかにしてよく生きるべきか?」「世界はあるのか?」「私は死ぬとどうなるか?」などの形而上学的なことに悩んでいたが、これらを駆除すべきだと主張する論理実証主義たちのモーブメントを知り衝撃を受けて、大森荘蔵氏の門下生となったと彼の著作『死の練習・シニアのための哲学入門』で述べていた。

同じ著書で「エイヤーやカルナップなどの初期分析哲学者(いわゆる論理実証主義者)たちは心の言語を完全に物質の言語に還元できる、あるいは両者の差異をなくす統一言語を樹立できると考えていましたが、その後80年以上経ってもこの試みは少しも発展を見せない(どころか、かえってますます難問を生み出していく)」とも述べている。

竹田氏の主張と全く同じであるが、こうした批判に対して、分析哲学者たちは、どのような、反論があるのかが今、最大に知りたいことです。

古田徹也氏共著『経験から言語哲学へ』には、論理実証主義者に対するクワインの批判、さらにクワインの理論に対するデイヴィドソンの批判が描かれています。さらに論理実証主義運動の起点となった前期ウィトゲンシュタインの理論は後期ウィトゲンシュタインによって否定された状態をどのように解決したのだろうという疑問も払拭できません。



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