フッサール現象学の概念「超越」「内在」「現象学的還元」について(追記)
先日、竹田青嗣著《はじめてのフッサール『現象学の理念』》に基づき、「超越」「内在」「現象学的還元」について投稿しましたが、「先構成批判」を追記します。
「超越」と「内在」
「内在ー超越」の構図の意味において、「超越」(客観存在)と見なされるものは、「内在」において構成された「構成的内在」(志向的内在)すなわち「対象確信の像」である。つまり「実的内在」から「構成的内在」が構成され、この「構成的内在」が「超越」である。
「構成的内在」とは、「実的内在」から構成された意識内での「対象」である。たとえば、いま「赤くて・丸くて・つやつや」(知覚対象)を見ている。ここから「これは赤いリンゴだ」という「対象意識」が構成される。これが「構成的内在」である。
「赤くて・丸くて・つやつや」という実的な知覚(認識)が「一個のリンゴ」であるということを客観的に証明することはできない。夢であったり偽物であるという「可疑性」がどこまでも残るからである。
でも、まず自分にとって疑いえないものであるという確信を持っている。さらに、誰にとってもそれが疑いえないものであるという確信(間主観的確信)を得るならば、それは「客観的認識」あるいは「妥当な認識」と呼んでよいものとなる。
あるいは、これを逆に考えると、「客観的認識」というものは、「主観」と「客観」の一致が確証された認識ではなく、個々の「対象確信」が誰にとっても同じ「対象確信」となりうる条件をもった「認識」であるということができる。
確信は、「主観的確信」⇒「共同的確信」⇒「普遍的確信」へと拡大していくごとに客観的実体に近づいていく。
「主観的確信」
「私」だけに成立する。対象存在についての(これはある)、またその存在様態(これこれのものとしてある)についての内的信憑である。
「共同的確信」
「私」と「誰か」のあいだだけに成立する確信。あるいは人々と共有する共通の信念。民族神や世界宗教への強固な信仰。
「普遍的確信」
ふつうの理性的推論の能力をもつ人間なら、必ず、その存在の証拠、論証によって同意せざるをえない対象確信。「人は死ぬ」 「日はまた昇る」など
現象学的還元
客観が存在するという前提を中止する。そしてすべてを自分の意識体験に還元する。すると、世界の存在のすべては、自分の意識に生じている表象である、ということになる。この「意識表象」を自分で内省し、そこでいかに世界が構成されているかを記述する。これが現象学的還元の概要となる。
「事象に帰れ」とは、「内在意識」ですべてを考えよ、ということだ。
フッサールの現象学の方法は、「方法的独我論」の立場といえる。つまり、世界の一切を「意識」のうちでの表象(現象)にすぎない、という見方をあえてとるということです。
これは何故かについて、竹田氏はこう述べる。この「態度変更」によって、世界のすべては、いったん客観的に存在するという想定をはずされ、すべて「私の確信」であるとみなされるのである、と。
現象学的還元によって「主観客観」図式をいったん中止する。するとどうなるのか。「主観ー客観」図式が「内在ー超越」 図式に変えられるのである。
その意味はわれわれがこれまで「超越」 と呼んできたもの、つまり主観とは決して 一致しえない「客観それ自体」とされてきたものは、じつは「内在」において形成され た 「対象確信」にほかならない、ということになる。こう考えることによって、現象学における「構成」の概念の意味は明快になる。つまり「世界の構成」とは、「世界確信」の構成を意味することになる。
一般には、独我論とは、「一切は私の意識表象である」という考えから、したがって「世界は存在せず、私の意識だけが存在する」という独断論に進むことである。
これに対して、方法的独我論は世界の全体的な実在性は、じつは、あくまで「私のうちの確信である」とみなすことである。
「先構成批判」
フッサール現象学の批判者たちの合意は次のようなものです。
フッサールは人間存在の絶対的な「起源」と「根源」を求め、それを「純粋意識」の領域に定位するが、この試みは不可能である。「意識」の直接的探求によっては、つまり独我論的方法によっては、人間存在のより深い次元にアクセスすることはできない、と。
こうした現象学批判の核心点を、竹田は「先構成批判」と呼んでいる。
たとえば、ハイデガーの主張は、こうなる。
「意識」に定位する現象学の「本質観取」の方法は、じつはそれ以前に、人間の実存的な「気遣い」からくる「世界了解」をより根本の基礎としている。だから、この実存的視線からは「直観」(現象学的方法)に優位は奪われる。つまり、実存的な「気遣い」こそが「意識」による世界の対象化を可能にしている、と。
これを「先構成批判」と、竹田は述べる。
フッサールがいう、意識が「ありえないことを考えることが背理」である存在であるというのは、簡明なことで、「意識」領域で内省されたことは、内在の対象としては原理的に不可疑である、という現象学の基本原理のことです(コーヒーをおいしいと感じたことを、じつはその体験は存在しないかもしれないと疑うことは無意味)。
しかもこの内在の不可疑性は「先取的な確定」などといった仮説的な措定ではなく、内省の方法によって誰もが確かめられることである。これを怪しいといえば、一切が怪しいという懐疑論に逆戻りすることになり、つまりはじめから現象学の立場自体を認めないことになる。
要するに、「意識が絶対的な根源である」に対して、それに先立つより「根源的なもの」があるはずだということを暗に前提にしているために、フッサールが「意識の絶対性」をはじめから前提にするのはおかしい、という言い方になっている。
【私見:意識があることは自明であるが、深層心理があるのかというと自明ではない。つまり、深層心理なるものは、意識を超え出て意識の背後にあるものを想定している。だから現象学は意識の領域に踏みとどまっているということ、つまりUFOや幽霊などのような超常現象的な存在を仮定しないということか?】
ハイデガー以降の思想家は「存在」についてそれぞれ思索している。このような存在や実存についてに思索(=形而上学)をまったく無意味とは考えない。さまざまな人間が生や実存の意味をどう考えたらかの多様性は、現代人の「人間学」の重要な内実であるからである。
しかし、こうした形而上学的思索からの現象学の方法の批判が、まったく的が外れているのは明らかだろう。そのような存在の形而上学はまるきり無意味であるわけではないにしても、必ず多数の存在解釈を生み出し、なぜそのような多様性が生じるかのについての自覚のないところでは、しばしば延々とつづく不毛なスコラ哲学的議論を生成するのである、と竹田は言う。