ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーク』状況に置かれた知:フェミニズムにおける科学という問題と、部分的視覚が有する特権

第9章 状況に置かれた知:フェミニズムにおける科学という問題と、部分的視覚が有する特権


アカデミズムのフェミニズムも、運動のフェミニズムも、我々とは何を意味するのかという問いに、「客 観性」という奇妙かつ逃れようもない用語をもって幾度となく折り合いをつけようとしてきた。

我々は、 有毒なインキや紙に加工された木を大量に費やして、彼らが「客観性」という用語をもって何を意味して きたのか、そして、それがいかに我々の痛みを生じてきたのかについて非難してきた。

ここで「彼ら」と して想定されているのは、

ある種の目に見えない共謀関係を形成している、 研究助成金や実験設備をうだ るほど所有している男性至上主義の科学者や哲学者たちであって、

「我々」として想定されているのは、

 身体を持たないことを許容されず、限定された見解を有さないことを許されず、したがって、結論が自分 たちのこじんまりしたサークルーー 「大衆」 予約講読雑誌が二、三千人のたいがいが科学嫌いであるよう な読者に届くかどうかといった程度の我々のこじんまりしたサークルーーの外部に及ぶ事象について論じ る際には必然的に不的確かつ有害な偏見を持つことしか許されないような具現化された他者である。

私には、客観性という問題に関しては、 フェミニストたちが、 二元論という魅力ある存在の両極を選択 的かつ柔軟に使用しつつも、こうした二元論の罠にはまっていたように思えてならない。

自分自身につい てはそうであったと思うし、 本章では、こうしたことがらについて、集団としての言説というものが存在 するという見解を提示しようと思う。 

一方で、 最近の科学技術社会学は、あらゆる形態の知の主張、なか んずく、科学の知の主張に関して、極めて強固な社会構成主義の議論を提出している。

こうした誘惑的 な見方では、内部に位置する者の視角に特権が与えられることは決してない 内部と外部の境界を描くあらゆる行為は、権力の動向なのであって、 真実をめざした動向などではないと 理論化されているからである。

したがって、頑強な社会構成主義者たちの視角からすると、科学者が自ら の活動や成果をいかに描写しようと、我々がびくつく必要などないということになる 科学者たちやそ のパトロンたちが、我々の目をめがけて砂を投げるには、それだけの利害関係があるのだから。

科学者た ちは、

入門したての学生には、客観性や科学の方法についての寓話を語るけれども、 高度な科学の技芸を 実践する者で、そんな教科書的な客観性や方法などにのっとって行動したあげくに身動きのとれなくなる 者などいない、というわけである。

 社会構成主義者たちは、

客観性や科学の方法に関する公式イデオロギ が、実際に科学知が生成される過程について考えるうえでは、不適切きわまりない指針としかならない 点について明らかにする。

科学者以外の人々の場合と同様に、科学者たちが信じていたり、信じていると 称したりすることと、科学者たちが実際に行うことには、守備一貫性などないというわけである。

 初学者用の教科書や、科学技術の宣伝文書に掲げられた具体的なかたちに具現化されることなどない科 学的客観性なるイデオロギー上の教義を実際に信じつづけ、あまつさえ、そうした教義にのっとって行動 してきたのは、科学者以外の人々、たとえば、数少ない純情な哲学者たちだけであった。

もちろん、私が 哲学者をこのように認定してしまうのは、おそらくは、 科学史家と自己認定したことから来るこの学問分 野への忠誠心の名残と、細胞が細胞に見え、生物が生物に見えた、ある種、学問上の前エディプス期であ り、近代主義の詩的な瞬間でもあった大人になりたての頃に、あまりに多くの時間を顕微鏡とともに過ご してきた経緯を反映しているにすぎない。

しかし、次 にやってきたのは、父の掟と、そうした掟に基づく客観性という問題の解決であって、その際には、客観 性という問題は、常に、すでに不在である指示対象 、 据え置かれた記号内容 、 引き裂かれた主体 、 そして、そして記号表現の終わりなき遊戯によって解決さ れることとなった。

社会構成主義の観点からすると、科学 ーーつまり、街で進行中の本物のゲームで、我々も参加せざるをえ ないようなゲームもーーレトリック、つまり、社会の特定の行為主体たちが、説得を行う行為すな わち、ある者にとっての製造されたものとしての知は、このうえなく客観的な力/権力、 それも所望のかたちの力/権力 に至る経路なのだと説得する行為ーーだということになる。

こうした説得行為に際しては、 事実と人工物という構造や、知のゲームにおける、ことばによって媒介された存在としてのアクター について考慮せざるをえない。この場合、事実と人工物は、レトリックという強力な技法の一部であ る。 

実践とは、すなわち説得行為であり、焦点は、なかんずく実践にあることになる。 すべての知は、権 力が拮抗する力の場における凝縮された結節点だとされる。

 知識社会学のストロング・プログラムが、記 号論や脱構築論のかわいらしくも性悪なツールと結託して、真実―ー科学上の真実も含む真実ーーの持つ レトリックとしての本性を主張する。

歴史とは、西欧文化の信奉者同士が語り合う物語である。

科学と は、論争の対象となりうる一つのテキストであり、かつ力/権力の場である。

内容とは、形態である。

科学における形態とは、世界を有効な対象へと紡ぎだすような、人工物 社会のレ トリックである。

科学における形態とは、 世界の変容に関わる説得行為の実践過程なのであって、こうし た説得行為は、驚嘆すべき新たな対象 微生物、 クオーク、 遺伝子など―――といった形をまとう。 

しかし、二〇世紀後半の科学の本体たる感染性の媒介体(微生物)、 基本的な粒子(クオーク)、生体分 子の暗号 (遺伝子)といった存在は、それらがレトリカルな対象としての構造や特性を有しているといな いとにかかわらず、一貫性という内的な掟が貫徹するロマン主義やモダニズムの対象などではない。

こう した二〇世紀後半の科学のさまざまな本体は、力の場によって焦点化された一瞬の軌跡や、認識と認識ま ちがいという行為によって秩序づけられた、かろうじて具現化され、高度の変異性を有する記号現象にお ける情報ベクターである。

というわけで、ラディカルな社会構成主義のプログラムや、その特定のポストモダニズム版が、 人文科 学の批評言説というアシッドなツールと結託した記述につきあうほどに、私は不安になる。 

ノイローゼの たぶんにもれず、 わたしのノイローゼも、メタファーの問題、すなわち身体/生体とことばの関係とい う問題に根ざしている。

 たとえば、完全にテキスト化され、暗号化された世界におけるさまざまな動きに 関して、力の場で思い描かれるような内容は、ポスト近代の主題に関して社会が取り決めたリアリティを めぐってさまざまな議論を行っていくうえでの基盤となる。

こうした暗号としての世界は、まさに初心 者にとってみれば、ハイテク軍事の戦場、すなわち、自動化されたアカデミズムというある種の戦場なの であって、こうした場では、知と権力のゲームにとどまらんがために、プレーヤーと称される光の輝点が、 互いに互いを解体(なんたるメタファー)する。

科学技術とサイエンス・フィクションは、その燦然 たる(非) リアリティの栄光 戦争 何十年にもわたるフェミニ へと崩れこむ。こうした場では、 ズムの理論の積み重ねなどなくても、敵を知覚することが可能である。

ナンシー・ハートソック は、抽象的男性性という彼女の概念で、こうしたことのすべてを自明のものとする。 

 私も、私以外の人々も、敵対的な科学による真実の主張を脱構築するための強力なツールを求めて出発 し、科学やテクノロジーの構成が有するタマネギの皮一枚一枚のラディカルな歴史特異性――すなわち、 そうした一つ一つが、どれ一つをとってみても論争の対象となりうるようなものであることを示して いったのだが、ある種の認識論的電気ショック療法で終わってしまい、我々は、公の真実に挑むゲームが ユージェンシー 進行中の掛け金の高いテーブルへといざなわれるどころか、自己誘導性の多重人格障害に陥ってテーブル 上に打ちのめされることとなった。

 我々は、科学の偏向を明らかにするだけでも(それではあまりに安易 であることが判明したわけだが)、良い科学という善良なる羊を、偏向や悪用という悪い山羊と区別する だけでもないような方策を、なんとか見いだしたかったのである。

そのために、とりうる限り最強の構成 主義の議論を用いることは、 すなわち、さまざまな問題を偏向対客観性、善用対悪用、科学対疑似科学といった枠組みに還元してしまう隙を残さない議論を用いることは、 当時にあっては、有望に思 えたのだった。

我々は、客観性という教義の覆いを剥ぎとった。

 というのも、客観性という教義は、集団 としての歴史的主体性や媒介行為といった当時芽吹きつつあった我々の感覚や、真実を「具現化された」 かたちで記述する我々の作業を脅かしていたからである。

 そして、その結果、我々は、ニュートン力学以 降の物理学を勉強しない今一つの言い訳と、自分の車くらい自分で修理するという古いフェミニズムのセ ルフ・ヘルプの実践を放棄する今一つの言い訳とを手に入れたのであった。

科学技術なんて、どうせテキ ストにすぎないのだから、男性科学者に返してあげましょう、というわけである。それに、こうしたテキ スト化されたポスト近代の諸世界は、どうも薄気味が悪い。 

我々は、我々のサイエンス・フィクションに は、たとえば『時を飛翔する女』程度に、あるいは、せめて「ワンダーグラウンド」程度に、今少しュー トピア的であってほしい。

 我々のうちのある者は、こうした解体、隠蔽された時期にあって、あくまでもフェミニズム版の客観性 を要求することによって、正気を保とうとした。 

ここに、動機となった政治上の欲望の多くが同じであっ たにもかかわらず、客観性の問題という二枚舌の問題が迎えることとなったもう一つの誘惑的な結末があ る。

人間主義的なマルクス主義は、その源泉において汚染されていた。

というのも、マルクス主義は、 人 間が自己を構成する過程で自然を支配するという存在論的な理論を形づくっていたし、さらには、これと 密接に関連して、女性の行ってきたことがらのうちの賃金不適格とされてきたことがらのすべてに関して、 それを歴史化する能力を欠いていたからである。

しかし、依然として、マルクス主義は、客観的見方につ いての我々なりの教義を模索する立場として、フェミニストたちの認識論的な精神衛生上、有望な源泉で ありつづけた。

マルクス主義という出発点は、我々なりの各種の立場論に到達するためのツールの数々、 たゆみない具現化作業 実証主義や相対主義によって力をそがれてはいない豊饒なヘゲモニー批判の伝統、 そして媒介行為についての陰影のある理論を提供したのである。

精神分析のいくつかの潮流、特に、英語 圏の対象関係論は、こうしたアプローチにはかりしれない影響を及ぼした。 

対象関係論は、ある時期、マ ルクスやエンゲルスの手になる著作をさえ凌ぐ影響を、 アルチュセールをはじめとするマルクスやエンゲ ルスの衣鉢をついでイデオロギーと科学という主題を取り扱うと標榜した者たちは言うに及ばず、米国の 社会主義フェミニズムに対しても及ぼしたのではないかと思う。 

もう一つのアプローチである「フェミニズムの経験主義」も、客観性の持つ正当な意味の数々にこだわ りつづけ、記号論や物語り論と接合したラディカルな構成主義に対して懐疑的でありつづけるような科学 論を得るべく、フェミニズムの立場にたったマルクスの資産の使用へと歩みよっていった。

 フェミニズムの立場にたつ者は、

世界について、より優れたかたちでの説明を求めつづ けなければならない ラディカルな歴史の偶発性や、あらゆる事物の構築物としてのモードを示すだけ では不十分である。

なんとも皮肉なことに、ここに至って、フェミニストたる我々は、我々自身が、多く の現場の科学者たちの言説と連接していることに気づくこととなった。

というのも、実践科学者たちにし たところで、たいていの場合、すべてが語られ、実行されてしまった段ともなれば、自らが記載したり発 見したりしている事物が、すべて、自らが構築し、議論してきた過程を通じて達成された内容だと信じて 疑わないからである。 

フェミニストたちが 利害関係を有しているのは、世界についてのより適切で、豊饒で、優れた説明を提供するような継承人に よる科学のプロジェクトである。

というのも、そうした優れた説明があればこそ、より良いかたちで世界 に棲息し、なおかつ、我々や我々以外の人々による支配の実践や、あらゆる位置に付随する特権や抑圧と いった不均質な部分に対しても批判的かつ反省的な関係性を持ちつつ世界に、棲息してゆくことが可能と なるからである。

ひょっとすると、こうした問題は、伝統的な哲学の範疇では、認識論というよりは、倫 理や政治の問題になるのかもしれない。

 かくして、私の問題、そして「我々」の問題は、

いかにして、あらゆる知の主張や、知ろうとしている 対象/抜け目ない主体のラディカルな歴史的偶発性について記述する作業 意味を形づくる際の我々 自身の「記号論の技術」を認識するうえで必須の実践を行うのと同時に、

「リアルな」 世界について 誠実に説明する作業 部分として共有することが可能な世界であり、自由が限られ、物質が適度に豊 富で、困難にも控えめな意味付与を行い、そこそこ幸福であるような地球規模のプロジェクトの数々と敵 対することのないような世界について説明する作業にもまじめに関わっていくのかということであ ると思う。

 ハーディングは、こうした複数たらざるをえない欲望を、継承人による科学のプロジェクトが 必要とされている所以であり、還元不能な差異やローカルな知のラディカルな複数性へのボスト近代なら ではのこだわりなのだとみなす。

 欲望の構成部品は、どれ一つとってみても、矛盾と危険に満ちており、 その組み合わせは、矛盾していると同時に必然的である。 

フェミニズムの立場にたつ者は、超越性ーー誰かが何かについて責任を有さざるをえなくなったまさにその地点で、自らの媒介行為の轍を消してしまう ような物語りーーや、無限の機器的権力を約束するような客観性という教義を必要としてはいない。

我々 は、ことばと身体の双方が有機的共生の至福へと転落していくような世界を表象するための無垢なる力を めぐっての理論を欲しているわけでもない。

我々は、大文字のグローバルシステムとしての世界を理論化 したいわけではないし、ましてや、そうした世界で行動したいわけでもないものの、地球規模の連携のネ ットワーク―――それも、場合によっては、極めて異なった、しかも力に差があるような共同体同士の間 で知を翻訳する能力を備えているようなネットワーク は必要としている。

我々は、意味や実体/身体 がいかにして形づくられるのかをめぐっての現代的な批判理論の力を必要としているし、そうした批判理論の力が必要なのは、意味や実体/身体を否定するためではなく、未来への成算があるような意味や実体 身体/生体に棲息していくためである。

 自然科学も、社会科学も、人文科学も、常に、こうした希望に関ってきた。

 科学とは、

翻訳、 互換性、 意味の動性、そして普遍性について探る作業に関わる存在であった。

しかし、あらゆる翻訳や変換に際 して一つの言語 (誰の言語かについてはあえて書かない) が標準として強制されざるをえない以上、私は、 科学のこうした営為を還元主義とみなす。

 資本主義の交換秩序において貨幣がなすこと、グローバル科学 の強力な精神秩序において還元主義がなすこと そこには、とどのつまり、一つの等式しか存在してい ない。

こうした等式こそ、 フェミニストやそれ以外の人々が、ある種の客観性の教義知としてみなさ れうる存在の持つ階層的で実証主義的な秩序に貢献しているような教義の中に見いだしてきた致命的 なファンタジーである。

こうした等式が存在すればこそ、客観性をめぐる議論の数々が、メタファーとし ても、メタファー以外のものとしても、意味を持つ。 不死の存在であることも、全能の存在であることも、 我々の最終目標ではない。

しかし、我々は、ものごとを説明する際に、何かもっと具体的に力をこめるこ とができ、信頼できる説明のしかた 権力の動向や、 レトリックという好戦的でハイステータスな遊戯 にも、また、科学主義や実証主義の傲慢にも還元されえないような記述のしかた をすることもできる。

 そして、このことは、我々が話しているのが、遺伝子、社会階級、素粒子、ジェンダー、人種、テキスト のいずれについてであろうとも、あてはまる。

 というのも、こうしたことは、我々が問題の領域を滑走 してまわる際に客観性や科学といった言葉が示すぬるぬるした曖昧さにもかかわらず、科学そのもの、自 然科学、社会科学、人文科学のいずれにもあてはまるものだからである。

 客観性という使いでのある教義 を求めて、油でツルツル滑る竿を登ろうとして、私も、客観性をめぐる討論に関わったフェミニストたち の大半も、二元論すなわち、ハーディングが、 継承人による科学のプロジェクト対ポストモダニズム の差異の説明として記載し、私が、 この章で、ラディカルな構成主義対フェミニズムの批判的経験主義と して抽出してきたような二元論の両端に、交互に、場合によっては同時につかまってきた。竿の両端 に同時につかまったり、交互につかまったりしていたのでは、むろん、竿になど登れたものではない。

 以 上のような状況からしても、そろそろメタファーを取りかえるべき時期である。

 視覚の存続 

私が話を進めるにあたって依拠せんとするメタファーは、フェミニズムの言説では悪しざまに扱われて きた感覚系、すなわち視覚である。視覚は、二元論的対立構造を避けるうえで役に立つ。

私は、 目に映ったものが有する具現化されたものとしての性質を強調したいし、刻印された身体を脱し、どこで もない位置からの征服のまなざしを獲得するような跳躍を記号化すべく使用されてきた感覚系を手なずけ たいと思う。

こうしたまなざしこそ、あらゆる刻印された身体に神話として書きこみを行うようなまなざ しであり、刻印されざるカテゴリーをして、見こそすれ見られることのない、表象こそすれ表象はされず にすむという権力を要求させているまなざしである。

こうしたまなざしが記号化しているのが、大文字の 男性や白人という刻印されざる位置なのであり、白人男性という位置は、ここ、怪物のはらわたたる1980年代末の米国に確固として存在している、科学や技術に溢れ、後期産業社会で、軍事化されており、 人種差別主義的で、男性が支配しているような一つではない社会において、 フェミニストたちの耳に聞こ えてくる世界規模の客観性が奏でる数多い不快な音色の一つである。

私は、具現化された客観性という、 逆説と批判に満ちたフェミニズム科学のプロジェクトの数々を包容しうるような教義を採用したい 

すなわち、フェミニズムの立場にたった客観性とは、

簡潔に言えば、状況に置かれた知 のことである。

目は、邪悪な能力―ー科学が、軍事主義、資本主義、植民地主義、男性至上主義と密接な関係を保って きた歴史の中で、完璧をめざして磨き上げられてきた能力ーー を記号化し、権力という拘束されざる存在 の利害に基づいて、あらゆる人々やあらゆることがらから、知ろうとしている対象/抜け目ない主体を切 り離す際に使用されてきた。

 多国籍主義のポストモタニズム文化の視覚化/映像化装置は、こうした脱具 現化が有する意味合いを増幅させてきた。

視覚化/映像化の技術には、これといった限界というものがな い――というのも、我々のような普通の霊長類動物の目であっても、超音波検査/探査装置、磁気共鳴に よるイメージング、 人口知能に連結されたグラフィックな操作システム、 走査型電子顕微鏡、コンピュー タ連動断層撮影用走査装置、着色技術、衛星監視システム、家庭や職場のビデオディスプレー端末、大陸 プレート間の断層から湧きだすガスに棲息している海生蠕虫の消化管の粘膜のフィルム撮影から、太陽系 のどこかの惑星の半球の地図づくりに至るまでに使用される汎用カメラといった機器を用いることによって、際限なく増強しうるからである。

こうしたテクノロジーの饗宴にあっては、視覚/見る行為は束縛な バースペクティブ ヴィジョン 暴飲暴食となり、あらゆる視角は、視覚という無限の移動性に道を譲る。 

視覚は、もはや、ど こでもない位置からあらゆるものを見るという神のトリックのみに神話として関与する何ものかではなく なり、視覚によって、神話は、ごく普通の作業となったのだと思う。 

そして、 神のトリックの場合と同 様、こうした目も、世界を凌辱してテクノモンスターたちを産出する。 ゾー・ソフーリス (1988) は、 こ の目のことを、排泄による第二の出産をめざす男性至上主義の地球外プロジェクトが有する共食いの目と 呼ぶ。 

私が、ここ で示唆したいのは、我々が、あらゆる視覚というものの特殊性や具現化過程としての性格 (この具現化 の過程は、必ずしも有機的ということはなく、テクノロジーによって媒介される過程も包含する)にメタ ファーとしてこだわりつづけ、 脱具現化や第二の出産に至る経路としての視覚という神話の誘惑に屈し ないことによって、使いでのある しかし無垢ではない客観性の定義を我々が構築しうるのだとい う点についてである。

私が欲しいのは、再度、視覚見る行為にメタファーとしての力点を置いたフェミ ニズムの身体/生体論である。

というのも、我々がこの感覚をてなずけることなくして、我々が、近代の 科学やテクノロジーが持つ視覚/映像化のトリックや力の数々 客観性をめぐる議論を変容させてきた 当のもの できようはずもないからである。

というわけで、さほど予想外というわけではないけれども、客観性とは、特定の具 体的な具現化の過程に関わるものであって、決して、あらゆる限界や責任を超越することを約束するよう な偽りの視覚に関わるものではないということになる。

 客観的な見方とは、

視覚にかかわるあらゆる実 践の生成能力に関わる責任という問題を隠蔽するのではなく、創出していくような見方である。

部分的 視角は、

見る過程で現れることとなった有望な怪物に対しても、破壊的な怪物に対しても、アカ ウンタビリティーを持ちつづけることができる。

 客観性に関わる西欧文化のナラティブは、いずれも、 我々が精神と身体、あるいは距離と責任と称するものの間の関係性ついての各種イデオロギーのアレゴリ であって、こうしたアレゴリーが埋め込まれているという点では、フェミニズムにおける科学の問題も 例外ではない。

フェミニズムの立場にたった客観性とは、限定された位置、 そして状況に置かれた知に関 わるものなのであって、主体や客体の超越や、主体と客体の解離に関わるものではない。 

こうした方法を とるならば、我々は、いかにして見るかに関して自らが習得した内容について返答しうるようになるかも しれない。

 こうしたことを考えるようになったのも、飼っている犬と散歩しながら、中心窩がなく、色覚に関わる 網膜細胞が極めて少ない一方、臭いに関しては膨大な神経処理・知覚領域を持つ犬のような場合、 世界は いったいどんな風に見えているのだろうと思いをめぐらせていたからかもしれない。

こうしたことに気づ く契機は、昆虫の複眼に映る世界をとらえた写真のこともあるだろうし、場合によっては、スパイ衛星が 撮った写真や、木星「近傍」の宇宙探査機が探知した差異が、信号としてデジタル方式で送られてきて姿 を変えたコーヒーテーブルを飾るカラー写真のこともあるだろう。

 現代技術に裏づけられた科学が作り出 する「目」は、視覚の受動性などという発想を木っ端微塵に打ち砕く。

こうした補綴装置は、 我々 自身の生物的な目をはじめとするあらゆる目というものが能動的な知覚系であって、翻訳機能や特定 のものの見方、要するに生活のありようをも含みこんだ存在であることを示してくれる。 

媒介作業を経て いない写真や受動的なままのカメラ・オブスキュラなど、身体/生体や機械が行う科学の記述には存在し ない ーー存在しているのは、視覚をめぐっての高度に特異的な可能性の数々のみであって、そうした可 能性の一つひとつが、すばらしく精密で、能動的で、部分的なかたちで世界を組織化しうるような可能性 である。

世界についてのこうした見取り図は、決して、無限の移動性や互換性のアレゴリーであってはな らず、精緻な特異性や差異、 そして、いかにして他者の目の位置から誠実にものを見るかを学ぶ際に人々 がかいまみせるかもしれないいとおしみについてのアレゴリーでなくてはならない。そして、その他者が、 我々自身の機械であることもありうる。 

疎外を生じるような距離が問題なのではないーー問われているの は、

フェミニズムの立場にたった客観性のアレゴリーとして、どういったアレゴリーが可能なのかである。

 こうした視覚のシステムが、技術的、社会的、心理的に作動している過程について理解することが、フ ェミニズムの立場にたった客観性を具体的なかたちにしていくうえで一つの方法となるはずである。

 ヴィジョン フェミニズムの多くの潮流が、被隷属者という視点に特段の信頼を置く理由を理論化しようとしている。

 確かに、権力者の燦然と輝くスペース・プラットホームの上からよりは、 下からの方が眺めがよかろうと 信じるには、それなりの理由がある。

こうした疑 念とも関わるものとして、この章では、状況に置かれ、具現化された知を擁護し、どこにも位置を確定す ることができず、したがって無責任であるような各種形態の知の主張に対して反論する。

 ここで無責任で あるとは、説明を求めることのできないことをいう。周縁や深みから見る能力を身につけることが重要視 されている。

しかし、こうした傾向には、権力弱者の位置から見るのだと主張しつつ、権力弱者の見た眺 をロマンとして解釈し、領有してしまうという重大な危険性がある。 

下から見るという作業は、たやす く習得できるような作業ではないし、問題をはらんでいないわけでもないそして、仮に、「我々」が 隷属下の知という偉大なるアングラ領域に、もとから「自然に」棲息していたとしても、こうした事情は 同じだろう。

被隷属という位置の選び方は、 批判的再吟味、暗号解除、脱構築、 解釈といった、記号論と 解釈学の双方のモードでの批判的探求を免れるわけではない。

 被隷属の立場が、 何か 「無垢な」立場だと いうことはない。それどころか、こうした立場が好まれるのは、こうした立場では、あらゆる知が有して いる批判的で解釈的な核心部分が否定されることが、原則としてほとんどないように見えるからある。

「被 隷属」の立場は、抑圧、 忘却、失踪といった行為を通じての否定のモード、すなわち、包括的に見ている と主張しつつ、どこにもいないというやり方に精通している。 

被隷属の立場には、神のトリックや、それ にまつわるありとあらゆる眩惑的な めくらまし的な したがって、 イルミネーションにのみこまれ る可能性が相当程度ある。 

「被隷属」の立場が好まれるのは、こうした立場が、世界に関してのより妥当 で、持続的で、客観的な説明や、世界の変容をもたらしうるような説明を約束するかのごとく見えるから である。

しかし、いかにして下から見るかという問題は、身体やことばに関して、すなわち視覚の媒介 行為に関して、「最先端」のテクノサイエンスによる視覚映像化にまさるとも劣らぬ熟練を要する問題 である。

 こうした好まれがちな位置の選び方は、相対主義の各種形態に対しても、最もはっきりした全体化指向 を持つような科学の正統性の主張に対するのと同程度に敵対的である。

しかし、相対主義に対しての代案 は、全体化指向でも、単一視点から見た光景でもない。全体化指向も、単一視点から見た光景も、最 終的には、常に刻印されざるカテゴリーであり、そうした刻印されざるカテゴリーの権力は、システマテ フィックな狭小化と曖昧化に依存している。

相対主義に代わりうるのは、可能性としての関係性の網の目 ーー政治では連帯と称され、認識論では共有された会話と称されるような関係性ーー を持続させるような、 部分的で、位置を確定することができ、 批判的な知である。

 相対主義とは、

あらゆる位置に等しくいるの だと主張しつつ、どこにもいないというやり方である。

 位置を選ぶうえでの「等質性」とは、責任を否定 し、批判的探求作業を拒むことに他ならない。

 相対主義は、

客観性イデオロギーの内部において、全体化 指向と完璧な鏡像関係をなすー―双方ともに、位置、具現化、部分的視角の地位を否定し、 そして双方と もに、よく見ることを不可能とする。 

相対主義も、全体化指向も、あらゆる位置、 かつどこにもない位置 からの眺めを、等しく、かつ完全に保証してくれる神のトリックであり、こうしたトリックは、科学をと りまくレトリックにつきもののありきたりの神話である。

 探求作業を持続的、合理的、客観的に行ってい く可能性があるのは、まさに、ポリティクス、そして認識論としての部分的視角の方である。

 というわけで、私は、多くの他のフェミニストたちとともに、異議申し立て、脱構築、情熱的な構築、 網の目状の関係性、そして知の体系やものの見方を変容させることへの希求を優先するような、教義とし て、実践としての客観性を擁護したいと思う。

 しかし、部分的視角であれば何でもよいというわけではないーー安易な相対主義や、部分を足し合わせて包摂することによって築かれたようなホーリズムに対し ては、我々は敵対的である必要がある。

 「情熱的な脱離」  は、 部分性 了解され、自己批判 的であるような部分性 以上のものを必要とする。 我々には、前もって知ることの決してできない複数 の目の位置からの視角 何か尋常ならざるもの、すなわち、支配の軸によって組織化される度合いが少 ない諸世界を構築していくうえで力になる知が保証されるような視点からの視角 を探っていく義務も ある。

そうした地点から見るならば、刻印されざるカテゴリーなど、今度こそ本当に消滅してしまう―― 単に消滅行為を繰り返すような動向とのちがいはここにある。

 想像上のものと合理的なるもの、すなわち DYDRA 視覚の幻と客観的眺めは、近接しつつ、滑空する。

私が思うに、ハーディングの継承人による科学、 そしてポスト近代の知覚可能性への祈りは、次の点について、すなわち、客観性や合理性 ーーぎょっとするような否定や抑制が充満していたりすることのない客観性や合理性 ーーについての誠実な主張は、 変容可能な知を希求するという空想上の要素と、持続的で批判的な探求を真摯にチェックして激励する作 業との、前述したような触れ合いを基盤としている点について論じていると読まれるべきではないだろう か。

科学革命の記録を、こうしたフェミニズムの立場にたった教義としての合理性や客観性にのっとって 読むことさえ可能である。

科学は、その出発の時点から、 ユートピアや視覚の幻の色彩を帯びていたし、 ヴィジョナリ それが、「我々」が科学を必要としている一つの理由でもある。

 モバイル 流動的な位置の選び方や情熱的な脱離に関わっていく以上、よく見るという目的で被隷属の立場から見 るための戦略として、無垢な「アイデンティティ」 ポリティクスや認識論に依拠することは不可能となる。

 誰しも、細胞あるいは分子で「いる」ことや、女性、植民地支配下の人間、あるいは労働者といった存在 で「いる」ことは、ーー もし見ることを希求し、それも、こうした複数の位置から批判的に見ることを希 求するならば、ーーできない。 「何かでいること」とは、もっともっと多くの問題をはらんだ、偶発的な 事態である。

付け加えるなら、誰であっても、どこに移動するにしても、その移動先への移動について説 明できない状態のままに移動を行うことはできない。視覚/見え方は、常に、見る力/権力に関わる問題 であり、ひょっとすると、我々の視覚/映像化の実践に暗に内在する暴力の問題なのかもしれない。

いっ たい誰の血をもってして、私の目は創出されたのか? 

こうした論点は、「自己」という位置からの宣誓 にもあてはまる。我々は、我々の内部で、ただちに存在しているわけではない。自己について知る作業は、 さまざまな意味とさまざまな身体とを結びつける記号 物質のテクノロジーを要する。自己というアイデ 体系である。 融合は、位置を選ぶうえでの悪しき戦略である。 

人文科学の学者たちは、自己存在に関わるこうした疑念を、「主体の死」 ――あの、単一の、意志と意識の指令ボ イントの消滅 ーーと称した。こうした判定は、私にはなんとも奇怪に映る。

こうした生成的な疑念であれ ば、私なら、むしろ、 はじまり単眼の巨人キュクロプスにも似た、自己飽和したマスター主体の目の 位置に安住していたのでは想像だにしえないような物語りの数々に関わるさまざまな同一ならざる形状の 主体、媒介行為主体、領域といったもののはじまり と呼ぶだろう。西欧の目は、根本のところで は、さまよう目、流浪するレンズであった。

こうした彷徨・流浪は、往々にして暴力的で、自己を征服す る過程で鏡にこだわることが多かったものの、常にそうであったというわけでもない。

西欧のフェミニス トたちも、マスターたちのものの見方に対して地球変容的な挑戦を行う際、 逆さ向きになった世界を視覚 化/映像化しなおす作業に参画する過程で、何がしかの技能を受け継いでいる。何もかも、ゼロからスタ トせねばならないというわけではない。 

分裂し、矛盾をはらんだ自己こそが、 位置設定に疑いをいだくことができ、 記述を行いうるような存在 であり、合理的な対話や空想上のイメージ形成作業を構築し、そうした作業に参加しうるような存在であるーそして、世界は、こうした作業を通じて変革される。

 ただ存在しているのではなく、分裂状態で 存在しているということは、科学の知をめぐるフェミニズムの認識論にとって、 特権的なイメージである。

 こうした文脈での「分裂状態」は、同時に必要とされており、しかも、同一形状のスロットに押しこんだ り、累積的なリストに挿入したりすることが不可能であるような、不均質な複数性に関わるものでなくてはならない。こうした幾何的性質は、主体内部についても、複数の主体間についても該当する。 

主体性の 持つ地形的性質は、 多次元的で、要するに、見え方そのものである。 知るという過程の途上にある抜け目 ない自己は、あらゆる外見からして部分的であり、決して完成しておらず、なおかつ全体であり、ただそ こ に存在しており、オリジナルである――そして、常に構築途上であり、不完全に縫い合わされていて、 であればこそ、他者であることをことさらに主張することもなく、他者と接合したり、ともに見たりする ことが可能なのである。

ここに、客観性が保証される。すなわち、科学の知を得ようとする者が求めてい るのは、アイデンティティが有するような主体としての位置ではなく、客観性が有するような主体として の位置、つまり部分的関係性である。 

ジェンダー、人種、国家、階級といった存在によって形づくられた 特権化された (隷属的な) 各種の位置のすべてに、同時に「存在していたり」、そうした位置のいずれか に全面的に「存在していたり」する方法はない。

しかも、ここに挙げたのは、必須の位置のうちのほんの 一部である。こうした「完全」でトータルな位置を求めての探索こそが、対抗/抵抗の歴史での崇拝対象 としての完璧な主体を求めての探索となり、 フェミニズム理論では、ときとして、こうした対象/主体が、 本質的存在としての大文字の第三世界の女 として現出する。

 隷属状態は、見え方について 探るうえでの手がかりとはなりうるだろうが、存在論の根拠とはならない。見るという行為は、視覚の 装置を必要としている 光学は、位置の選び方に関わるポリティクスである。 視覚の装置は、各種の 立場を媒介する 非隷属の立場からの直接の眺めというものは存在しない。 

アイデンティティにして も、自己アイデンティティにしても、科学を生成することはない科学を生成するのは、ぎりぎりのと ころで位置を選びとる過程、すなわち客観性である。 

支配者としての各種の位置を占めている者たちのみ が、自己同一的で、刻印されておらず、具現化されておらず、媒介されておらず、超越的で、生まれかわ る。

残念ながら、被隷属の位置にある者が、そうした主体の位置を熱望したり、場合によってはそうした 主体の位置にスクランブルをかけたりする そして、その後、視界から消えてしまう ことも可能で ある。

刻印されざる者の目の位置からみた知は、心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理で ある。客観性を到底実践できず、客観性に栄誉を与えることもできない唯一の位置が、マスター、大文字 の男性/人間、唯一無二の神という位置であり、 彼らの「目」があらゆる差異を生成し、領有し、指令す る。

これまで、一神教の神が冷淡であることについて訴えた者はいるけれども、神の客観性について訴え た者はいなかった。 神のトリックは自己同一的であり、そして我々は、そうした神の自己同一性を、創造 性や知、はては無限の知ととりちがえてきたのである。

 したがって、位置を選ぶ行為は、見ることによって形成されるイメージのまわりに編成される知に根拠 を与える重要な実践であり、西欧科学や哲学の言説の編成についても事情は同様である。 位置の選び方は、 我々が、 力を生み出すような実践を行う過程で負う責任を意味している。

したがって、政治と倫理が、 何 が合理的な知とみなされるのかをめぐっての抗争に向けた闘いに根拠を与えているということになる。す なわち、認めるにせよ、認めないにせよ、政治と倫理が、科学そのもの、自然科学、社会科学、 そして人 文科学での知のプロジェクトをめぐる闘いに根拠を付与している。

さもなければ、合理性は、単に不可能 性どこでもないところから包括的に投射される光学上の幻影だということになってしまう。 科学 のさまざまな歴史については、さまざまな技術のさまざまな歴史として力強く語ることができる。 

こうし たさまざまな技術は、生活のあり様であり、社会秩序であり、視覚化/映像化の実践である。技術は、熟 練を要する実践である。

 どのようにして見るのか? 

どこから見るのか? 

見ることには、どういった限 界があるのか? 

何のために見るのか? 

誰と一緒に見るのか?

 誰が二つ以上の目の位置を獲得するこ とになるのか? 

誰が、明滅装置によって誘導されるのか? 

誰が明滅装置を装着して誘導するのか? 

誰が目に映った現場を解釈するのか? 

視覚以外のどのような知覚の力を養おうと考えているのか? 

道徳と政治の言説が、見ることによって形成されたイメージや視覚のテクノロジーにおける合理的言説 のパラダイムとならければならない。

科学の向上には、社会革命の動向が最も貢献してきたのだというサ ンドラ・ハーディングの主張、 すなわち観察内容は、位置の選び方に関わる新たなテクノロジーが知にも たらしたさまざまな帰結をめぐっての主張として読むことができるかもしれない。

しかし、社会革命や科 学革命といったものが、常に解放的なものであったわけではないこと ーー常に視覚の幻ではあったかも しれないが ーー を、ハーディングももう少し念頭に置いておいてほしかったと私は思う。

ひょっとするとこの論点を把握するには、もっと別の表現、すなわち「軍隊における科学の問題」が向いているかもしれ ない。

何をもって、世界について の合理的な記述であるとみなせばよいかをめぐる闘いは、いかにして見るのかをめぐる闘いである。見る ことをめぐるタームとして、以下のものを挙げておく。 

各種の経験主義、還元主義、あるいはもっと別のかたちでの科学的権威に対する攻撃を政治的連携を保 ちつつ進めていくうえでは、相対主義ではなく、 位置こそが問題にされなければならない。こうしたことを二項チャートで表現すると、下記のようになるのではないかと思う。

 
普遍的合理性 ーーエスノフィロソフィー イチログロッシ
共通言語  ーー 言語混淆状態
新たなオルガノン ーー脱構築
統一理論   ーー対抗的位置設定
世界システム ーー ローカルな知
マスター理論 ーー 網の目状の記述

しかし、こうした二項チャートは、 具体的なかたちとして具現化された客観性の持つさまざまな位置と いう私が素描しようとしている対象を、 根本のところで誤って表現してしまう。 

まず、二項チャートとい うものについてまわる対称性の幻影ゆえに生じる歪曲として、 あらゆる位置が、まずは単に相互代替的に、 そして第二に、相互排他的に見えてしまう。 

二項対立という充電された状態の固定された両端の間に生じ ているさまざまな緊張関係や共鳴関係を描きだせれば、そうしたマップの方が、 具現化され、したがって アカウンタブルな客観性の持つ有力な政治的、認識論的含意の数々をうまく表現できるはずである。 

たと えば、ローカルな知の数々は、生産に関わる構造ーー知や力/権力の網の目の内部にあって、物質的にも 記号的にも等質ならざる翻訳や交換を強いている構成 ーーとの間にも、緊張関係を持たざるをえない。

 網の目といえども、組織性という特性ーー時間、空間、意識という世界史の次元そのものの奥深くにまで根 をはった無数の繊維と絡みついた巻きひげを有するような組織性ーーを持ちうるし、それも、中央集権的 に形づくられたグローバルシステムの組織性を充分有しうる。

 フェミニズムのアカウンタビリティは、二 項対立関係にではなく、共鳴関係にチューニングされた知を必要としている。ジェンダーは、構造として 形づくられ、そして形づくられつつあるさまざまな差異の場であり、極端にローカライズされた存在なら ではのさまざまな音色、それも親密に個人化、個化された身体/生体ならではのさまざまな音色が同一の 場で振動し、テンションの高い音色をグローバルに放っているような場である。

かくして、フェミニズム の具現化行為とは、具象化された身体/生体の固定された位置、すなわち、女性であるか、そうでない かといったような位置に関わるものではなく、場における結節点、向きにおける変曲点、意味という物質 的記号的な場における、差異に対する責任に関わるものである。

 具現化行為とは、

意味の差を指し示す 重要な補綴装置である ーー客観性の対象とみなされているものが、世界史が関わっていた対象そのものだったとその後になって判明するような存在であるような場合に、客観性が、固定された見方/見え方に関 わる存在であることなどありえない。

 緊張、 共鳴、変容、 抵抗、 共謀といった関係の渦巻くこうした状況にあって、「見る」ためには、どの ように、自らの位置を選びとっていけばよいのだろうか。

この場合、霊長類の見方/見え方というメタファーが、ただ ちに、フェミニズムの立場にたった政治認識論的な明確化にとって抜群に強力なメタファーないしテク ノロジーとなるということはない。

というのも、霊長類の見え方が意識に対して提示するのは、すでに処 理がなされ、対象化がなされたような場ーー事物が、すでに固定され、距離をおいた存在となっているよ うな場 ーーであるように思えるからである。

とはいえ、視覚映像メタファーは、固定された外観という 最終産物を越えて、さらに先へと進むことを可能としてくれる。 このメタファーにいざなわれて、我々は、 我々の生物学上の目や脳にインタフェースされる数々の人工補綴テクノロジーをはじめとする各種の視覚 /映像生成装置について探ることになるからである。

そして、ここにおいて、我々は、電磁スペクトルの さまざま帯域を、世界をめぐる我々の見取り図へと加工する、高度に特殊化した装置類を見いだすことと なる。

我々は、こうした視覚化/映像化テクノロジーが錯綜する中に埋めこまれているのであって、我々 は、そうした錯綜するテクノロジーの中にこそ、世界において事物が対象化される際のパターンすな わち、我々がアカウンタブルでなくてはならないリアリティのパターン について我々が理解し、そう したパターンに介入していくうえでのメタファーや手段を見いだすことになる。

我々は、こうしたメタフ ァーの中に、我々が科学知と称するものの持つ具体的で「リアル」な側面と、記号生成や生産の側面の双 方を同時に理解するための手段を見いだすことになる。 

私が積極的に論じているのは、位置を確定する作業、位置を選ぶ作業、そして状況のもとに置く作業を めぐるポリティクスと認識論であり、こうしたポリティクスや認識論では、部分性普遍性ではなく部 分性――が、合理的な知の主張を形づくる際に聴きとってもらううえでの条件となる。

こうした要求は、 人々の生活に関わる主張ーー身体/生体、すなわち、常に錯綜していて矛盾をはらみ、構造を形づくりつ つ構造としてかたちづくられているような身体/生体からの眺めーー であって、上方からの、どこでもな いところからの、単純なる存在からの眺めとは真っ向から対立する。 

神のトリックのみが禁じられている。 ここに、軍事主義における科学の問題 すなわち、 完璧なることば、完璧なるコミュニケーション、最 終的秩序を誇る、あの夢の科学/テクノロジーについて判断する際の一つの規準がある。

 フェミニズムは、「もうひとつの科学」 ーーすなわち、解釈すること、翻訳すること、どもること、そして部分的に理解された存在をめぐるさまざまな科学とポリティクス ーーを愛する。 

フェミニズムは、複数性としての主体/主題について、少なくとも二つの像が結ばれるような複視をもって行われるさまざま 科学に関わるものである。

 フェミニズムは、異質な存在の混淆するジェンダー化された社会空間におい てぎりぎりのところで位置を選んだ結果として得られたぎりぎりの眺めに関わるものである。

科学知についてのフェミニズムのパラダイムモデルにとって、敵対的な他者を表象するようになったのは、 神話的な風刺漫画としての物理学や数学ーー反科学のイデオロギーにおいて、まさに超シンプルな知とし て不正確なかたちでカリカチュアライズされてきたディシプリンーーですらなく、恒久的に軍事化された ハイテク科学による生産ならびに位置選択における完璧に理解された存在という夢 ーーすなわち、スター ウォーズ・パラダイムとしての合理的な知という神のトリック ーーである。

というわけで、位置を確定す る作業とは、弱くも傷つきやすいことに関わるものである ーー確定作業を経た存在としての位置は、ポリ ティクスとしての閉鎖や最終的なるものに対しても抵抗するし、アルチュセールのことばを借りれば、 フェミニズムの客観性は、「最後の一瞬における単純化」 に対して抵抗する。 

これは、フェミニズムの具現 化作業が固定化に屈せず、差異に基づいて位置が選ばれるような網の目に飽くなき関心を寄せつづけてい るがゆえのことである。

単一のフェミニズムの立場などというものは存在しない 我々のマップで、こ のフェミニズムの立場なるメタファーを用いて我々の目に映ったさまざまな光景に根拠を与えようとすると、次元の数が足りなくなってしまうからである。

しかし、 フェミニズムの立場論をとる人々がめざし ている、相互関与的でアカウンタブルな位置選択行為としての認識論やポリティクスは、卓越した有用性 を保ちつづけるはずである。 

めざすべきは、さまざまなかたちで、世界をよりよく記述すること、 すなわ ち「科学」である。 ともかく、合理的な知が、非関与状態あらゆる場所、したがってどこでもない場所に位置したり、 解釈されることを免れたり、表象されることを免れたり、完全に自足的であったり、完全に定式化可能で あったりする状態を装うことはない。

合理的な知とは、解釈や暗号/規範解除を行っている人々のさ まざまな「現場/場」間で進行中のぎりぎりの解釈行為の過程である。合理的な知とは、左記のような、 力/権力に敏感な対話である。

知:コミュニティ::知:権力
聖書解釈学 : 記号論:: 批判的解釈:コード

暗号/規範を解除し、暗号/規範を変換すること、そして翻訳し、批評すること―そのすべてが必須 である。

かくして、科学は、閉鎖をめぐってのパラダイムモデルにではなく、論争の対象とすることが可 能であったり、すでに論争の対象となっているようなことがらをめぐってのパラダイムモデルとなる。

 科 学は、もめごとを越えた王土での、人間の媒介行為や責任を免れたことがらをめぐっての神話ではなく、 被隷属の主体の知に特徴的な不協和音じみた眺めや視覚的幻影の声をつなぐ翻訳や連帯の過程に対する アカウンタビリティや責任をめぐっての神話となる。

 明白で区別がきっちりついているような概念の数々 ではなく、さまざまな感覚の分裂や声と光景の混同が生じているような特定の状態こそが、 合理的なる ものの根拠にとってのメタファーとなる。

我々は、男根・ロゴス中心主義 (一つなる存在としての、真な る存在としての大文字の言葉へのノスタルジア) や具現化作業から離脱した眺め”によって支配された知 を求めているのではなく、部分的な光景や有限な声によって支配された知を求めているのである。

 我々 が求める部分性は、自己完結的な部分性ではなく、状況に置かれた知が可能とするさまざまな結びつきや 意外なはじまりのための部分性である。より広い眺めを見いだす唯一の方策は、どこか特定の場所に位 置することである。 

フェミニズムにおける科学の問題とは、選びとられた位置に置かれた合理性としての 客観性に関わるものである。

 フェミニズムにおける科学の問題が有している多様なイメージとは、逃避し 限界を超越したりした結果としての産物、すなわち、上方からの眺めではなく、さまざまな部分的 眺めとぎれがちな声を、集団としての主体という位置へと結び合わせていくことであり、こうした 集団としての主体という位置こそ、進行中の有限の具現化作業の手段としての見方/見え方、さまざまな 限界や矛盾の内部に棲息する手段としての見方/見え方、すなわち、特定のどこかからの眺めを保証す る。

アクターとしての対象身体/生体を生産する装置
  
「客観性」についてここまで考えてくる過程で、私は、科学に言及するという行為に組み込まれたさま ざまな曖昧さについての分析を、文脈 科学が有している茫漠たる範囲に及ぶさまざまな文脈 を弁 別することなしに行うことを拒んできた。 

こうした執拗な曖昧さにこだわることで、私は、科学そのもの、 物理科学、自然科学、社会科学、政治科学、生物科学、人文科学といったものを互いに結びつけているさ まざまな共通性が渦巻くある種の現場を前景化してきたし、こうしたアカデミズム(そして産業、たとえ ば出版、武器取引、製薬)として制度化された知の生産現場という不均質な現場の全体を、科学という、 イデオロギー闘争での自らの有用性を主張してやまぬ存在が持つ意味と関連づけてきた。

しかし、科学の 言説において、意味がそれぞれに持っている特殊性という側面と、高度に透過性の境界という側面の両方 を同時に活用していくためにも、私は、ここで、ある一つの曖昧性についての分析を提示してみたいと思 う。

科学を構成する意味の場には、その全体を通じて、さまざまな共通性が渦巻いているわけであるが、 そうした共通性の一つは、知の対象というものが必ず持っている地位、そして我々の記述内容が「リアル な世界」に対して有している誠実さをめぐる関連した主張が持っている地位に関わるものであった。

この ことは、こうした世界が、いかに我々にとって媒介された存在であろうとも、また、いかに錯綜し、矛盾 に満ちた存在であろうとも、何ら事情に変わりはない。

科学やその主張、あるいはそうした科学と関連した各種イデオロギーについて最も活発に批評してきたフェミニストたちをはじめとする人々が、科学の客 観性という教義を避けて通ってきた理由の一つに、知の「対象」 が、受動的で不活性な存在なのではな いかという疑義があった。

こうした対象について記述する作業は、 破壊的な西欧社会の道具主義のプ ロジェクトの源泉へと還元されてしまっている、固定され、決定された存在としての世界を領有する行為 であるかのごとくみなされたり、さまざまな利害関係、それもたいていは支配を行ううえでの利害関係を 隠匿する覆面であるとみなされたりする可能性がある行為だったのである。

 たとえば、「性」は、生物学という知の対象として、生物学決定論の装いをまとって定期的に立ちあ らわれて、社会構成主義や批判理論の弱点をついてかかり、同時に、こうした社会構成主義や批判理論に 付随するアクティブかつ変容力ある介入行為の可能性ーーフェミニズムの立場にたったジェンダーという、 社会的、歴史的、記号的に選ばれた位置を持つ差異の概念によって息を吹き込まれるような可能性を ーーも脅かしにかかる。

 それでもなお、性という、判例として生物学を記述し、その二項対立の相手方たるジェンダーとの間で生産的な緊張関係を確立しているような概念を喪失するというのは、失うものが大 きすぎるような気がしてならない ーー性 という概念を失うことは、西欧の特定の伝統内部で分析上の 力を失うことにとどまらず、生物学言説による書きこみも含め、社会による書きこみが可能な真っ白なベ ジに他ならない身体/生体そのものを失うことのように思われるからである。

 これと同じ喪失の問題が、 物理学や他の科学が対象とする存在を、言説によって生産され、社会によって構成されたうつろいゆく存 在へとラディカルに「還元」してしまう動向にも付随している。

 しかし、こうした困難や喪失が必然的に招来されているわけではない。こうした困難や喪失は、分析の 伝統アリストテレスや、「白人資本主義的家父長制」(このスキャンダラスな「何ものか」を我々はい ったいどう称したらよいというのだろう) の変容が可能な歴史に深く根ざした分析の伝統に部分的に は由来するのであり、こうした伝統にあっては、あらゆるものが領有に際しての源泉へと転化され、知の 対象自体が、最終的には、知る者にとっての潜在的な力、すなわち行為にとっての素材にす ぎないとされる。

ここにおいて、対象は、知る者の力を保証するとともに、知る者に力を与え、その一方 で知の生成に際しての媒介行為主体という地位は、いかなるものであろうと、対象たることを否定され ねばならない。

要するに、 it という存在 すなわち世界 は、媒介行為主体としてではなく、物とし て対象化されねばならないのであり、世界は、知の生成に際しての唯一の社会的存在――すなわち人間で あるような知る者が自己形成するにあたっての素材でなければならないのである。

 ゾー・ソフーリス (1988) は、テクノサイエンスにおいて知ることが有しているこうしたモードの構造を、「源泉化」―ーすなわち、世界の身体/生体のすべてを大文字の男性/人間のさまざまな邪悪なプロジェクトの源泉へと均 質化する過程を介した、大文字の男性/人間による第二の子産み―ーであるとして特定した。

自然は、文 化の原材料にすぎず、資本主義的植民地主義のロジックにのっとって文化が処置しうるようなかたちで領 有され、保全され、隷属させられ、褒めそやされ、さもなくば順応させられる。

同様に、性も、ジェ ンダーという行為にとっての素材にすぎない―ー西欧の二項対立の伝統にあって、生産至上主義の論理は 避けがたい。こうした分析上、歴史上の語りのロジックゆえに、私は、フェミニズム理論が最近採用する ようになった性/ジェンダーの使い分けに対して不安を感じる。

「性」は、「源泉化」され、ジェンダー として再度立ちあらわれ、表象される――そして、そのジェンダーであれば、「我々」によって制御可能 だとされている。自然/文化という二項対立、そしてそこから産み出され、派生した性/ジェンダー のような使い分けに組みこまれた搾取に満ちた支配のロジックの罠を避けるのが、あたかも不可能である かのように思われたからこそ、私は不安を禁じえなかったのである。 

 この章で描出してきたような客観性や具現化作業について、ーー すなわち、世界について、ーー フェミ ニズムの立場にたった記述を行うにあたっては、西欧の分析が継承してきた数々の伝統内の一見単純な策 略 すなわち弁証法によって開始されたものの、必要な改訂が十分に行われなかったがために行き詰ま ってしまっている策略が明らかに必要とされているようである。

 状況に置かれた知においては、知の 対象が、行為主体であり、なおかつ媒介行為主体として図像化されることが必要である。―――知の対象が、 スクリーンや根拠や源泉として図像化されるようなことがあってはならないし、ましてや、 主人に対す る奴隷のような存在として、究極的に図像化され、 「客観的な」知が、 「彼」ならではの媒介行為や名づけ の作業を経る過程で、対話が閉ざされてしまうようなことがあっては決してならない。

 こうした点は、 種々の社会科学や人文科学 すなわち、研究対象である人々自身の媒介行為そのものによって、社会理 論を作りだすプロジェクトの全体に変容が及ぶような科学に対する批判的アプローチでは、パラダイ ムとして明白である。 実際のところ、こうした科学では、研究 「対象」による媒介行為と折り合いをつけ ることなくして、おびただしい誤謬や多種多様な偽りの知を防止することなどできない。

しかし、同じこ とが、もっと別の知のプロジェクトーー科学ーー 社会科学の場合のみ についてもあてはまるはずである。 社会科学の場合のみならず、科学の場合にも、倫理や政治が、科学という不均質なる総体における客観性の根拠を、隠然ないし公然と提供していると言い切ることの帰結は、 世界の世界という「さまざまな対象」に対して、 媒介行為主体/行為主体の地位を獲得することに他ならない。

行為主体/役者は、数多くの、しかもすば らしい態様で現れる。 かくして、「リアルな」 世界をめぐっての記述内容は、「発見」の持つ論理にではな く、「対話」の持つ、充電され、権力を帯びた社会関係に依拠していることとなる。 世界が、それ自体に ついて話すことも、消え去って、マスター・コード解除装置を利することもない。

世界の規範/暗号はじっと読まれるのを待っていたりはしない。世界は人間化の原材料ではない――「主体の死」言説の 別働隊たる人間主義に対しての徹底した攻撃を通じて、この点は極めて明白になったはずである。

社会的 な存在であること、あるいは媒介行為といった不器用なカテゴリーが、荒削りながらも仄めかす、 ある種 批判的な意味で、知のプロジェクトで遭遇する世界とは、 アクティブな何ものかである。 

科学の記述が、 知の対象として、こうした次元の世界と関わりえた限りにおいては、誠実な知を想像することは可能だし、 誠実な知が我々を求めてくることもありうる。 

表象、暗号解除、発見をめぐるいずれの特定の教義も、何 も保証してくれはしない。私が推奨するアプローチは、「リアリズム」 世界のアクティブな媒介行為 と関わってゆくうえで、もはや用をなさないことが判明しているようなアプローチの焼き直しではな い。

 私の単純で、おそらくは無邪気な策略が、西欧の哲学にあって目新しいものでないことは明らかだろう。 しかし、私の策略には、フェミニズムにおける科学の問題に関して、 また、それに関連して、ジェンダー という状況に置かれた差異や、女性という具体的なかたちの問題に関して、フェミニズムならではの切 り口があると思う。

ことによると、ある意味でアクティブな主体であるような世界―ーすなわち、ブルジ ョワ、マルクス主義、あるいは男性至上主義の各種プロジェクトに際してマッピングされたり、領有され たりするような源泉ではない世界ーー に最もこだわっていたのは、エコフェミニストたちだったのかもし れない。

知における世界の媒介行為を認めると、いくつかの不安定化の可能性、たとえば、世界が持つ独 自のユーモア感覚といったようなある種の感覚が開けてくる。

こうしたユーモアのセンスは、 人間主義者 たちをはじめとする、源泉としての世界に関わってきた人々にとって、心地のよいものではない。フェミ ニズムが、世界を、機知に富んだ媒介行為主体として視覚映像化していくうえでは、イメージ喚起性に 富んだ各種の形象を利用することができる。

 源泉とされることを拒んだからといって、原初の母への懇願 へとなだれこむ必要などない。アメリカ南西部のインディアンたちの記述に具体的なかたちとして具現化 されたコヨーテ、 すなわちトリックスターは、我々の状況 専横なふるまいをあきらめ、 誠実たること を求めつづけ、しかも目眩ましに遭うであろうことを常時わきまえていたとした場合の我々の状況を 示唆してあまりある。

私は、こうした記述が、 我々の同盟者かもしれない科学者たちにとっても有用な神 話であると思う。フェミニズムの客観性は、あらゆる知の生成作業の核心部分に、驚きやアイロニーの余 地を創出する我々が世界を任されているわけではない。 

我々は、単にここに棲息し、我々の補綴装置、 たとえば我々の視覚映像化テクノロジーを用いて、 無垢ならざる対話を打ち立てようとしているのであ る。 

サイエンス・フィクションが、最近のフェミニズム理論にあって、かくも豊穣な執筆実践であったの もうなずける。 私は、再発明されたコヨーテの言説としてのフェミニズム理論 世界をめぐっての多種 多様で不均質な記述を力の源泉とすることによって形成された理論であり、なおかつ、そうした源泉に対 して義務を負っていくような理論 を見たいと思う。

ここ何十年かの、フェミニズムの立場にたった今一つの豊穣な実践によって、科学においてとりわけは っきりしてきたのは、これまで受動的なカテゴリーであったはずの知の対象が、 「能動化/活性化」して きている状況だろう。

こうした能動化/活性化からすれば、性とジェンダーといったような二元論的 な区別は、その戦略上の有用性が損なわれるわけではないとしても、永続的な問題となってこざるをえな い。

こうした点については、科学の記述において、特に雌女性の性とみなされる対象が、霊長 類学特に、女性を中心とした必ずしも女性とは限らない霊長類学者、進化生物学者、行動生態学者た ちの実践の中で再構築されてきた過程ついて言及しておきたい 。 

「身体/生体」とい 生物学言説の対象そのものが、 特段の魅力を備えた相互関与的な存在となってきている。 生物学決定論 の各種の主張が、同じかたちで蒸し返されることなど、あってよいはずはない。女性/雌の性が十分 に論理化しなおされ、 可視/映像化しなおされて、 「精神」 から事実上判別不能なものとして立ち現れた 暁には、生物学の種々のカテゴリーに、何か根本的なことが起こっているはずである。

 最近の生物学の行動関係の記述に見られる生物学概念としての雌女性には、受動的な特性など、もうほとんど残っていな い。 「彼女」は、どの点をとってみても、自らを形づくる存在であり、能動的である。 「身体/生体」は、 媒介行為主体であって、源泉ではない。 差異は、生物学によって、遺伝子から採餌パターンに至るまで、 本質としてではなく、状況に関わるものとして理論化され、その結果、身体/生体に関わる生物学ポリテ フィクスに根本的な変容が生じている。

性とジェンダーの関係も、こうした知の枠組みの中で、 カテゴ リーとして再検討されねばならない。 私は、生物学の説明戦略のこうしたトレンドを、フェミニズムの客 観性というプロジェクトに誠実な各種の介入行為に向けてのアレゴリーとして示唆したいと思う。

問題な のは、生物学上の雌/女性をめぐってのこうした新たな見取り図が、単純明快に真であるか否かといった ことにあるのではない――そうしたことに関してであれば、議論や対話を行えばよい。

事態は、根本的に 異なる。こうした見取り図において、知が、その分節化のすべてのレベルにおいて、状況に置かれた対話 として前景化されている点が肝要である。こうしたアレゴリーでは、機械と生物の境界のみならず、動物 と人間の境界も重要な問題とならざるをえない。

 セックス というわけで、この章を、状況に置かれた知としてのフェミニズム理論にとって有用な、ある究極のカ 身体/生体の生産装置 をもって締めくくりたい。

ケイティ・キングは、詩が、文章として価値を有するような対象として生産される過程についての分析を行う中で、フェミニズムでの客観性論 争で問題となるような各種の事項を明瞭にする道具立てを提供している。

 キングが提示したのは、「文章 の生産装置」という用語で、この用語は、文章として具現化されることになる何ものかが、アート、ビジ ネス、テクノロジーの交差する地点にたち現れる過程に光をあてる。 

「文章の生産装置」は、文章が生ま れ出るマトリクスである。 「詩」と称される価値ある有力な対象を焦点とすることによって、キングは、 自らの分析の枠組みを、女性と、 執筆テクノロジーとの関係に対して適用する 。

 キングのスキームを、生物学言説の「事実性」 ―ー文学の言説や文学の知の主張には不在であるような「事実性」ーーに関して使用することには限界があるように見える。 

生物学的身体/生体は、詩と同じような 激しい意味で「生産」あるいは「生成」されるのだろうか? 

18世紀後半のロマン主義の蠢動以来、多 くの詩人や生物学者が、詩と有機体/生物は兄弟姉妹であると考えてきた。 

私は、「事実性」と ロマン主義の信じ方ではなく、ポスト近代の信じ方でではあるが、 「有機生物的なるもの」の持つイデオロギーとしての次元を、「物質記号上のアクター」と称される厄 介な存在に翻訳したいと思う。

 「物質記号上のアクター」という扱いづらい用語を使用するのは、知の 対象が、身体/生体の生産装置を貫く一つのアクティブで意味生成的な軸線である点に光をあてようとし てのことであり、また、こうした知の対象が、直ちに存在しているのだとか、同じことではあるが、そう した対象によって、歴史の特定の経由点において客観的知としてみなされる対象が、最終的に、あるいは 唯一のものとして決定されるなどといったニュアンスを包含しないためである。 

キングが「詩」と称する 「対象」の場合 すなわち、ことばであっても、 書き手の意図や書き手と独立したアクターであるよう な文章の生産現場の場合 と同様、知の対象としての身体/生体も、物質記号を生成する結節点であ る。

身体/生体が有する各種の境界は、社会での相互作用の過程で具体的な存在となる。 境界は、さまざ まなマッピングの実践によって描き出されるのであって、「対象」 がそれ自体であらかじめ存在している わけではない。

対象とは、境界をめぐるプロジェクトである。しかし、境界は、その内部から移動する -境界は、このうえなくトリッキーなのである。 境界が暫定的に内包しているものこそ、生成的であり つづけ、さまざまな意味や身体/生体を生産しうるような存在でありつづける。

 境界を特定の位置に定め 、境界に照準を合わせる作業は、リスクをはらんだ実践である。 客観性とは、非相互関与状態に関わるものではなく、世界という場―すなわち、「我々」が、恒久 的に、死にゆくような存在でありつづけ、すなわち、「最終的」管理のもとに置かれた存在などではない ような場 において、「我々」が、相互に、そして大抵は、相等しからざるかたちで、何を形づくって いくのか、そして、その過程でいかにリスクを負ってゆくのか、といったことがらに関わるものである。

 結局のところ、我々は、はっきりとした、それとわかる概念など有してはいない。こうした納まりの悪い さまざまな生物学上の「身体/生体」が、生物学の研究や執筆作業、医療をはじめとする各種のビジネス 実践、そして本章でメタファーとして言及した視覚映像化のテクノロジーをはじめとする各種テクノロ ジーが交差する地点に立ち現れる。

しかし、交差の結節点には、文章の価値が生産される際に互いにアク ティブに絡み合ういきいきしたことばに相当するもの コヨーテや、ウィットに富んだ媒介行為主体兼 主体であるような世界による具現化作業の変幻自在な産物 も招き入れられる。

 現化作業が、 すなわち、 フェミニズムならではの部分性、客観性、状況に置かれた知への希求が、 種々の 身体と意味が可能性としてうごめく場に位置するこの有力な結節点において、さまざまな対話とコードを 始動させる。 地点こそ、科学、 サイエンス・ファンタジー、そしてサイエンス・フィクションが、フェミニズムにおける客観性の問題において収斂する場である。

おそらく、アカウンタビリティ、ポリティ クス、そしてエコフェミニズムへの我々の希求が、 世界を、 トリックスターというコード化を行う主体へ と書きかえ、また、世界を、 そうした存在として見ていくような過程を始動させるのだし、我々が対話し てゆかねばならない相手とは、そうした世界に他ならない。

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