意味と価値
本体の消去がもとらすもの
キリスト教は神の存在を、そして仏教は輪廻の存在をそれぞれ前提としている。
近代哲学では、二―チェが「神が死んだ」と宣言した時点で、神の存在を消去した。
仏教のばあいは、そもそも輪廻の存在を前提にしなければ、財政的に成り立たない。
というのは、在家の人々が、お布施をするのは、来世で金持ちになりたいとか、執着丸出しのどろどろの欲望をもったとしても、それが叶うと信じるからである。
そうすると、輪廻の存在を前提にせざるをえないわけである。僧侶は、在家のお布施によって、修行に専念することができ、その結果、いろいろな執着を捨て去って非常に立派な生活をおくることができる。
その姿を見て、在家の人々は、布施をした甲斐があると満足して、また布施をするということを反復することによって、仏教は2500年も継続できたのである。
近代哲学以前は、神の存在を前提としていたので、宗教も哲学も何ら問題はなかった。
キリスト教については、ニーチェが、いくら「神が死んだ」宣言したとはいえ、それ以後も神の存在を信じている人々で構成されている。その点では仏教における輪廻の存在と同様といえるだろう。
問題なのは、哲学の振舞い方である。
ヒュームは神学的独断論を唱える。
カントは「神の要請」の理念によって神の観念を救抜する。
新カント派のドイツ観念論者たちは、啓蒙主義の名目でスピノザ的汎神論に立ち戻り、精神と自然、理性と感性、有限と無限、宗教と国家といったもろもろの対立項の調停の原理として「絶対者」という観念を捏造する。
ハイデガーは「存在」それ自身への傾聴と黙従という観念は、神的なもの、聖なるもの、至上なるものへの観想の観念、すなわち、人間的存在の理念化という伝統的本体観念の余韻を響かせている。
ドゥルーズは、一方でニーチェの「遠近法」の概念を認識論的相対主義へ還元し、一方で「力の思想」を、実在的な「生産機械」の概念へと、つまり唯物論へと還元した。
20世紀後半にいたるところで現われた現代思想、すなわち頽廃と隠蔽の教説は、人間と社会についての仮構された理想理念によって支えられている。
ところが、ニーチェの哲学には、完全に新しい「価値」の原理論の基礎が存在する。すなわち「力相関性」の原理がある、と竹田青嗣は言う。
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