現象学の看護における展開(1)
榊原哲也共著『現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケアー』に基づいて、看護理論において現象学がどのように生かされているのかを勉強します。
ハイデガー流の「解釈的現象学」の流れに属するベナーは、看護理論を展開した。ベナーは、アメリカの現象学者ヒューバート・ドレイファスからハイデガーおよびメルロ・ポンティの現象学を学び、それに基づいて、ドレイファスに現象学解釈に依拠して「現象学的人間観と看護」を提示した。
ベナーが、そもそもなぜ「現象学」を看護学に導入したのだろうか?
それは、「細胞・組織・器官レベルでの失調の現れ」としての「疾患」に対して、疾患によって生じる「能力の喪失や機能不全をめぐる人間的経験」としての「病」に着目し、病への「対処」として看護実践を捉えようとしたからである。
疾患は医学的・生理学的検査で得られる量的データを通じて捉えられ、医師によって診断され、治療が施されるものと考えてよい。
一方、「病」のほうは、疾患が本人の置かれた状況や本人の抱く関心に応じて特定の意味を帯びて経験される意味経験なので、医学的・生理学的に量的に理解することはできない。したがって、医学的に「治療」することもできない。
「病」は「ある方向への動きが妨げられる」意味経験にほかならないが、ベナーによれば、「病」は疾患と異なり、うまく「対処」して乗り切っていくしかないものであり、その対処の手助けをすることにこそ、「看護」の本領がある。
しかし、うまく対処するには、まず患者に内在している「病」という意味経験を理解できなければならない。そこで、現象学という哲学ーーー意味経験の成り立ちを、意識や身体の志向性の働きや人間の実存的な在り方にまで遡って理解しようとする「現象学」という哲学ーーーが要請されたのだと考えられる。
ベナーが「現象学的人間論と看護」で提示している現象学的人間観は、まず人間を「自己解釈する存在」として捉えたうえで、「身体化した知性」「背景的意味」「気づかい/関心」「状況」「時間性」という五つのポイントから捉えうるものだと理解しうる。
自己解釈する存在としての人間
「自己解釈する存在」としての人間という人間観は、ハイデガーの『存在と時間』から直接得られたというよりは、ドレイファスのハイデガー解釈から得られたものである。
ベナーは、「自己解釈する存在」としての人間という「現象学的人間観」も大枠を、ドレイファスのハイデガー解釈から学びつつ、さらにハイデガーのみならずメルロ・ポンティの現象学をもドレイファスから学びながら、自己解釈する存在としての人間を見る際の、五つのポイントを提示していった。
身体化した知性
身体化した知性とは、人間がデカルトの想定したような心と身体とに分離された二元的実在ではなく、「心身の統合された知性」であるということ、私たちが「身体化した知性」であるということである。
私たちは、慣れ親しんだ顔や事物を認知したり、意識的に注意しなくても姿勢を維持したり身体を動かしたりする場合にように、自分にとっての状況の意味を特に努力したり意識せずに直接素早く掴む能力をもっているが、まさにそれが「身体化した知性」というのである。
たとえば、パソコンのキーボードをブラインドタッチで打つ技能や、看護師が患者に注射したり採血したりする技能も身体化した知性によるものである。
ここで重要なのは、この「身体化した知性」は、普段うまく機能しているときには意識されない、ということである。生まれながらの「生得的身体」としての身体の能力や、生まれてから文化的・社会的に習得された「習慣的身体」の能力は、日常生活をスムーズに営んでいるあいだは、とりたてて注意を向けることはない。
ところが、疾患によってそれらの能力が、何らかの仕方で損なわれると、普段は意識しなくても、できていたことができなくなったり、手足が思うように動かなくなったりすると、「辛い」「悲しい」「シンドイ」「不安」とかの感情に支配されるという「病」状態に陥る、ということが問題となる。
この「身体化した知性」という視点は、「身体」の在り方に関するメルロ・ポンティの思想のドレイファスによる解釈から受容され、提示されたのである。
(続く)