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哲学の流れ

ユーチューバーが配信している番組のニーチェの回では、哲学の大きな流れとして、下図のように4つの主義に分けていた。

大きな分類なので、この区分けで問題ないと考えても良いのでしょうが、少し違和感がある。

まず、この分類には、合理主義と対立していたイギリス経験主義(ホッブス、ロック、ヒュームたち)が脱落している。だが、同じく2年前の配信番組レヴィ・ストロースの説明では、合理主義と経験主義との論争に言及しているので、問題はない。

ニーチェについては、実存主義としても良いとは思うが、生の哲学(ショーペンハウエル、ベルクソン)側に属するという考え方もある。

さらに、現象学(フッサール、ハイデガー、メルロ・ポンティ)側である、と竹田青嗣氏は主張する。ニーチェが現象学の始発であり、それを受けてフッサールが拡大したということである。私は、この説を信仰している。

ソクラテス、プラトン、アリストテレスたちは、人間の理性により知を探求するという運動を主としていた。

ところが、キリスト教が台頭したことにより、神を中心とするイデオロギーにより人間中心主義を抑圧する暗黒の中世時代に突入した。

暗黒時代に、腐敗しきったキリスト協会に対する、不満が爆発して、これを排除しようとするルネッサンスが勃発して、再び人間の理性を信じることに回帰した。

こうして、ギリシャ哲学を源流とした近代哲学の合理主義が普及した。

近代哲学の祖と言える、デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我あり」という知見により、あらゆる真実を論理的に説明できるとした。

これに対して、イギリス経験主義者ヒュームは、「疑いえないものは知覚だけだと考えた。そこから驚くべき結論を導く。それが心の同一性や因果関係などはないのだ」と意義を申し立てた。

このデカルトとヒュームの論争を仲立ちしたのがカントだった。

ヒュームは、心の同一性や因果関係などはないという主張したことに対して、カントが示した答えは、私たちの認識の範囲が「現象界」にしか及ばず、「物自体」は認識能力のかなたに取り残されてとみなしている点でヒュームを受け入れる。

しかし、「因果性」がアプリオリなカテゴリーであるから、それによって私たちの認識内容の普遍妥当性が保証されると考えている点ではヒュームとはっきりとした違いも見せるというものであった。

このカントの「物自体」は認識できないという説に対して、反論したのは、ヘーゲルだった。

認識できないのなら、全ての実体がないということであり、現象界だけ認識できるというのは、矛盾だというのです。

それ以後、ヘーゲルを批判的に継承していく実存主義から構造主義⇒ポスト構造主義⇒現代新実在論へという哲学の便宜的な流れがあった。

もちろん、あくまで便宜的であって直線的なスムーズな流れではなかった。

実存主義は、サルトルが主張する「実存は本質に先立つ」という人間至上主義を徹底的に批判したレヴィ・ストロースが掲げた構造主義が現在でも哲学・思想界では無敵である、とユーチューバーは述べている。

こうした見方に反論しているのが、先述の現象学学者竹田青嗣である。

現象学は哲学の流れから、逸脱してしまったが、通説となっていたフッサール現象学を見直した結果、これが主流となるべきだ、と竹田は主張している。

しかしながら、多くの人たち(一部の支持者を除く)からは異端扱いされ、無視されているというのが現状のようです。

竹田の説を信じる理由については、これまで何度も彼の論点を投稿してきたので、今回は記述するのを省きます。

ざっくりとした竹田の論点は、構造主義、ポスト構造主義、現代新実在論の哲学・思想は相対主義、相関主義に陥っているというのであった。

【2024.2.14追記】
現代新実在論を相対主義だと描いたのは、乱暴すぎるので、追記します。

一時哲学界のロックスターだともてはやされたマルクス・ガブリエルを代表とする新実在論は、構造主義やポスト構造主義を相対主義・相関主義だと批判して、論を立てていました。

だが、この新実在論に対する竹田の批判は、ニーチェとフッサールが解明した認識の謎つまり本体論の解体なしに「意味の場の存在論」という新しい概念を立てているので、相対主義的な反形而上学の主張となるか、思弁的な形而上学のどちらかの道しかとれなくなる、というものでした。

ガブリエルは、一方で相対主義に対抗して社会構築主義を批判し、もう一方では、メイヤスー的実在論、また現代の心脳一元論的な実在論を批判している。

そのために「意味の場の存在論」という独自の概念を提示するのだが、これは明瞭な哲学原理とはいえず、両方の道を避けようとするための一つのアイデアの域を出ていない、と竹田は言う。

4年前に、ガブリエルがブームになったときは、遅れてはならじと、彼の各著作を読みあさり、これが哲学の指標になると思い込んでいた。あれから月日も経って、冷静になったせいか、竹田の批判も冷静に受け取れるようになった。

竹田論を超える人物が現われるかも知れないので、その時までは、竹田を信仰し続けることになるでしょう。


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