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ケア現象学の理論の基礎となったハイデガーの解釈学的現象学について

ハイデガーは、「存在」や「実存」で有名ではあるが、フッサールの元で現象学を学んだのである。このハイデガーの解釈学的現象学が、看護師などによるケア現象学の理論の基礎となったことを榊原哲也氏はで述べています。このことに関して、彼の共著『現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケアー』に基づいて学びます。

私の周りには、タンス、テレビ、パソコン、椅子、机、本、プリンター、ソファなどの存在者が散らばっている。

ハイデガーは、そうした存在者が、存在している根拠、つまり、「存在の問い」については、古代ギリシャのプラトン、アリストテレスでは盛んに論じられてきたが、それが、徐々にゆるがせにされ、現代では、忘却された、とハイデガーは主張する。

ハイデガーは、フッサールから現象学的に見ることを学んだ後、現存在ーーー人間のことだが、この言葉は、古代から使用されて、手垢がつきすぎているために、理性的動物という伝統的人間像に限定されることを避けたーーーの存在論的構造を「解釈学的現象学」として遂行し、基礎的存在論を打ち立てた。

この基礎的存在論を踏まえて、存在の一般的意味が問われる予定であった。

現存在の存在の意味が「時間性」として問い確かめられ、「基礎的存在論」が成し遂げられたにもかかわらず、『存在と時間』は前半までで中断され、後半に問い正す予定であった存在一般の意味は公にされることはなく、未完に終わった。

とはいえ、『存在と時間』において展開された「現存在の現象学」がなければ、「ケアの現象学」は今日のように展開されえなかったであろう。

ハイデガーによれば、現存在とは「日々の生活のなかで、そのつどふるまい、どう行為するのか、さらにこの人生をどう生きるのか、生きる意味は何なのかといったことを考え、自分で自分の生き方を選び取っていかざるを得ない私たちの在り方」ということである。

現存在は世界(家庭、学校、会社など)内存在として、この世界の内に投げ込まれ(「被投性」)、世界のほうから「働きかけられ」、何らかの「気分」のうちでおのれの可能性を了解しつつ企投(おのずと立ち現れているという意味)していく。

その際、現存在は、そのつどつねに自分を取り巻く様々な道具に意を配り、また自分とともにいる他者たちを顧みて慮り、結局は自分自身を気遣いながら存在している、とハイデガーは述べている。

ハイデガーは特に、道具への気遣いを「配慮的気遣い」、他者への気遣いを「顧慮的気遣い」と術語化し、それらはしかし、もともとすでに「自己」を気遣うことであるとして、被投的企投(おのずからなるというような動態のこと)におけるこのような「気遣い」こそ、現存在を現存在たらしめている当のものーーーすなわち現存在という存在者の存在ーーーだと洞察した。

「配慮的気遣い」とは、どういう概念かを理解するために、科学的な認識の態度と「配慮的気遣い」からの認識の態度を対照させて考えてみる。

例えば、ハンマーは、科学的な視点では、鉄と木によって組み立てられた釘を打つための道具、重さがいくらで、長さがいくら、等々の事物として、その事物性を一般性として記述している。一方、「配慮的気遣い」から見られたハンマーは、そのつど軽いとか、重すぎるとか、ひ弱くて役にたたないといった存在性を露わにしている。

このように、生活世界のまわりにある事物の存在が道具存在であると言うとき、それはそれぞれの事物の一般的、客観的な「何であるか」(ハンマーである、テレビである、机である、等々)ではなく、そのつどの実存の場面から捉えられたそのものの「存在意味」を示している。

ハイデガーが、「配慮的気遣い」と「顧慮的気遣い」に区分したのは、「配慮的気遣い」(ハイデガーはこれを配視と名づけた)においては、出会われる道具が、調達、作製、使用という仕方で気遣われるのに対して、他者は道具のように、用立てたり使用したりという仕方で気遣われるのではないからです。

他者を気遣う「顧慮的気遣い」の場合は、むしろ他者の気遣いそのものが気遣われる。どういうことかについて、榊原氏は、親が空腹の子どもを気遣って食事を用意する場合のことを例にあげている。

この子どもへの親の「顧慮的気遣い」は、子どもがお腹が空いて、食べ物が欲しいとねだる配慮的気遣う姿を親に見せることによって、まさにこの子ども自身の配慮的気遣いを親が気遣っている。(少し、パラフレーズしたが、これで良いかのかどうか不安ではある。ハイデガー自身は、こねくり回した文章であり、それを榊原氏は、分かりやすく説明しているが、それでも、う~んだったので、パラフレーズしました)

元の文章は下記です。
「この子どもへの親の「顧慮的気遣い」は、子どもが〈空腹で食事を求め、食料を配慮的に気遣う者〉という意味を帯びて親に現われることによって、まさにこの〈食事を求める子ども自身の配慮的気遣い〉を気遣っているのである。」

このように親が子どもの気持ちを理解できるようになるのは、いったいいかにしてであろうか?

ハイデガーによれば、顧慮的気遣いは「顧視」と「追視」という見方によって導かれるというのである。

親が子どもの気持ちを理解できるようになるのは、いったいいかにしてであろうかという問い対して、ハイデガーは、顧慮的気遣いは「顧視」と「追視」という見方によって導かれるというのである、と述べている。

ハイデガーは、これら二つの見方について必ずしも十分な説明を行っているわけではないが、語の成り立ちからして、「顧視」は、他者のそれまでのふるまい・言動を顧みて見ることで、また「追視」は他者のこれからのふるまい・言動を追って見ていくことで、その他者が何を気遣っているのか、その方向性を見て取る見方であると理解することができる。

確かに、家庭であれば親が子の、会社であれば、上司(部下)が部下(上司)の、通所介護であれば、介護士が利用者の、・・・・、過去のふるまい(顧視)を毎回見ていれば、これからどのようなふるまい(追視)をするだろうということは予想できるというのは、当り前のことではある。それぞれの感度の差はあるでしょうが。

ただ、ほとんど付き合いのない同士や街ですれちがった程度の他者であれば、他者のこれからのふるまいについては「無頓着」な「大目にみる」見方となる。そのために、相手を身近に本質的に知るには、まずもって「互いに知り合うこと」が必要だとも、ハイデガーは述べている。

したがって、「顧視」と「追視」はさしあたって、たいていは、むしろ欠損的な様態で働いており、それが特定の他者に関心を抱き、互いに知り合うことによって積極的な様態で機能するのである、ということです。

ハイデガーによれば、他者への「顧慮的気遣い」は、そうした積極的な様態に関して、「二つの極端な可能性」をもっている。それは、「跳び込んで尽力する気遣い」と「先に跳んで手本を示す気遣い」である。

「跳び込んで尽力する気遣い」について、ハイデガーは、次のように述べる。

顧慮的な気遣いは特定の他者から「気遣い」をいわば奪取して、その他者に代わって配慮的な気遣いのうちに身を置き、その他者のために尽力することがある。

こうした顧慮的な気遣いは、配慮的に気遣われるべき当のことをその他者に代わって引き受けるのである。

その他者はそのさいおのれの場面から追い出され、身を退くことによって、その結果、配慮的に気遣われたものを、意のままになるように仕上げられたものとして後で受け取ることになるか、ないしは配慮的に気遣われたものからまったくまぬがれてしまう。

そうした顧慮的な気遣いにおいてはその他者は、依存的で支配をうける人になることがありうる。たとえ、この支配が暗黙のうちのものであって、支配をうける人には秘匿されたままであろうとも、そうなのである。

尽力して「気遣い」を奪取してやるこうした顧慮的な気遣いは、相互共存在を広範囲にわたって規定しており、またそうした顧慮的な気遣いは、たいてい道具的存在者の配慮的な気遣いに関係している。

ハイデガー. 存在と時間I (中公クラシックス) (p.350).
中央公論新社. Kindle 版.

これは、前述した、空腹の子どもに対して親が食事を用意し世話するような顧慮的気遣いが、これにあたるだろう。

デイサービスで事務の仕事をしていたときに、ある看護師さんのケースは、まさにこの通りだった。勤務中でも家族(当時中学生や高校生だった子ども)から頻繁に携帯電話が鳴っていて、ナニは何処にある、アレは何処にあるなどの、たわいもない内容のことが、洩れ聞こえていた。

勤務中に、家庭内の瑣末なことを、電話かけたり、電話をかけることを許すことは問題である。が、それよりも、子どもが大きくなっても、親離れ、子ども離れしていない様子を見れば、「顧慮的な気遣い」が行き過ぎて、親の支配と子どもの依存の関係が続いていることの方が、より問題であろう。それゆえ、デイサービスでの利用者や介護士との関係も同様となっていた。

専門である介護士たちに任せればよい作業を、看護師自ら率先して行うということを続けてきた結果、介護士たちの中には、すっかり看護師に依存してしまう人もいた。他の看護師が勤務のときには、何もしてくれないと、不満をもらす人もいたぐらいだった。

生活相談員が対処すべきことを、利用者の家族やケアマネージャーから連絡があっても、相談員に連絡もせずに、自己判断で対処したことが度々あり、すったもんだがあった末に、その後始末を相談員が行っていた。

「跳び込んで尽力する気遣い」というのは、いかにも、積極的で前向きなようなイメージがあるが、「いっちょかみ」的で迷惑な存在になる面もあるようです。

一方、「先に跳んで手本を示す気遣い」については、人格的にも優れた人が行う気遣いである。

特定の他者のために尽力するというよりは、その他者が実存的に存在しうるというあり方の点でその他者に手本を示すような、そうした顧慮的な気遣いの可能性が成り立つのだが、これは、その他者から「気遣い」を奪取してやるためではなく、その他者に「気遣い」を気遣いとしてまず本来的に返してやるためなのである。

こうした顧慮的な気遣いは、本質的には本来的な気遣いに──言いかえれば、特定の他者の実存に関係するのであって、その他者の配慮的な気遣いの対象になっているものに関係するのではないのである。

そしてそのような顧慮的な気遣いは、その他者を助けて、その他者がおのれの気遣いのうちにあることを見通し、おのれの気遣いに向かって自由になるようにさせるのである。

ハイデガー. 存在と時間I (中公クラシックス) (p.350).
中央公論新社. Kindle 版.

この気遣いは、特定の他者に跳び込んで気遣いするのではなく、その気遣いを「本来的に返してやる」べく、その他者の実存可能性に関して、前もってその他者の先に出て、手本を示すために、実行してみせることである。

これは、現代でも企業理念として通じている、山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」という有名な語録にも通底しているように思える。

ここで「本来的な気遣い」とは、どういうことだろうか。

ハイデガーは、「世人であること」、普通の人間として日常的に生活していることを、「本来的な」存在仕方から何らかの理由から「頽落」している、と主張している。

ハイデガーが言う「世人」とは、「人が楽しむとおりに楽しみ興じ、人が見たり判断したりするとおりに文学や芸術を読んだり見たり判断する」、「SNS上で他者を批判している人の記事に深く考えもせずに同意のコメントして、いいねボタンが増えることを期待する」ような、まさに私を含めた人々のことである。

そこで、ハイデガーは、人は誰でも死を向かえるのだから、それを先駆的に自覚して、「世人」的な生き方(非本来性)から「本来的」な在り方(本来性)を追求すべきだと言うのである。

自分の死の可能性に向けて「先駆」することによって、追い越し不可能性に向かって「自由に自分を解放し」、在るべき本来的な自分自身(本来的自己)を選びとる。

実際、現存在は「気遣いの呼び声」である「良心」の、その呼び声に応じて、自分自身が「非力」で「負い目がある」ことを自覚し、「良心を持ちたいと意志すること」(決意性)において、死という可能性において先駆する。

このようにして自分の死へと先駆け、自分を在るべき固有の自分へと到来させることによってこそ、現存在は、自分がすでに経てきたこれまでの非力で負い目ある在りようを改めてありのままに引き受け(既在)、そのときどきの状況のなかで道具と現に向き合い(現成化)、決意しつつ行為していくことができるのである、とハイデガーは言う。

つまり、「先駆的決意性」とは、「既在しつつ現成化する到来」という構造となる。この構造こそが、「時間性」と呼ばれるものである。

この「時間性」こそ、現存在の最も本来的な存在の仕方である「先駆的決意性」という「本来的気遣い」が、それに向けて・あるいは基づいてこそ了解されるところの「本来的気遣いの意味」、すなわち最も本来的は現存在の意味にほかならない。

かくして現存在に問いかけ、現存在の存在を問い、現存在の存在の意味を問い確かめるという、「現存在の実存的分析論」たる「基礎的存在論」の課題は、果たされたのである。

気遣い一般は、何らかの未来に目がけて、過去の経験を踏まえつつ、今、何らかの物事や人々に関わるという時間的構造を具えており、これは、自分の死へと先駆して決意する本来的な自己への気遣いにおいても、日常の(非本来的な)配慮的気遣いや顧慮的気遣いにおいても変わりはない。広く「ケア」と呼ばれている営みの多くも、日常(非本来性)の気遣いの在り方においてなされており、上記の「時間性」を具えていると考えられる。

そこで、「ケアの現象学」においては、先駆的決意性を強調して「時間性」を理解するよりもむしろ、〈何らかの未来を目がけて、過去の経験を踏まえつつ、今、何かを気遣う〉という現存在に時間的構造が、総じて「気遣い」という在り方一般を成り立たせていることを重視したい。 

こうして見ていくと、ハイデガーは当初は敬虔なカトリック教徒として、キリスト教神学の研究から出発したと言われているだけに、非本来性を「頽落」したとする見方は、キリスト教の原罪説を意識しているように、思われる。

ハイデガー流の「解釈的現象学」の流れに属するベナーは、看護理論を展開した。ベナーは、アメリカの現象学者ヒューバート・ドレイファスからハイデガーおよびメルロ・ポンティの現象学を学び、それに基づいて、ドレイファスに現象学解釈に依拠して「現象学的人間観と看護」を提示した。

ベナーが、そもそもなぜ「現象学」を看護学に導入したのだろうか?

それは、「細胞・組織・器官レベルでの失調の現れ」としての「疾患」に対して、疾患によって生じる「能力の喪失や機能不全をめぐる人間的経験」としての「病」に着目し、病への「対処」として看護実践を捉えようとしたからである。

科学である医学は、医学機器などで検査した数量的データに基づいて「疾患」の治療を施すことはできる。

一方、患者が疾患によって生じる「能力の低下、喪失、機能不全をめぐる人間的経験」としての「病」については、医学機器では測定不可能である。「病」は「疾患」とは違い、うまく「対処」して乗り切っていくしかない。「病」については、看護師、介護士、臨床心理士などが対処することになる。

つまり、医学では「病」の対処すらできないのであり、これを、フッサール的な言い方では医学の危機ということになるのでしょう。

フッサールの主張を下記に示します。

自然科学のような客観的学問を営む 意識の習慣的態度には、諸事象を数学化して記号と数式によって捉え, そのようにして捉えられたもののみが真の科学的知識だと見なす傾向が あるということ、しかし、そのことによって, 私たちは 「直観から離れ た記号の操作(eine anschauungsferne Symbolik)」 (Hua VI, 21) ーーーじかに見たり触れたりする日常的な感覚的経験から離れた記号や数字の みの操作ーーーをするようになり、記号的・数量的には捉えられない直観 的経験の「意味」 が見失われてしまう, ということのうちにある。

まさ に,物事や人々がそのつど意味を帯びて意識に現れ、経験される、その 意味現象・意味経験の意味が、自然科学やそれを営む意識の習慣的態度 によっては、 捉えられなくなってしまう そのことが学問と人類に とっての危機だと、フッサールは主張したのである。

『現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケアー』P39

本題に戻ります。
「病」は「ある方向への動きが妨げられる」意味経験にほかならないが、ベナーによれば、「病」は疾患と異なり、うまく「対処」して乗り切っていくしかないものであり、その対処の手助けをすることにこそ、「看護」の本領がある。

しかし、うまく対処するには、まず患者に内在している「病」という意味経験を理解できなければならない。そこで、現象学という哲学ーーー意味経験の成り立ちを、意識や身体の志向性の働きや人間の実存的な在り方にまで遡って理解しようとする「現象学」という哲学ーーーが要請されたのだと考えられる。

ベナーが「現象学的人間論と看護」で提示している現象学的人間観は、まず人間を「自己解釈する存在」として捉えたうえで、「身体化した知性」「背景的意味」「気づかい/関心」「状況」「時間性」という五つのポイントから捉えうるものだと理解しうる。

自己解釈する存在としての人間

「自己解釈する存在」としての人間という人間観は、ハイデガーの『存在と時間』から直接得られたというよりは、ドレイファスのハイデガー解釈から得られたものである。

ベナーは、「自己解釈する存在」としての人間という「現象学的人間観」も大枠を、ドレイファスのハイデガー解釈から学びつつ、さらにハイデガーのみならずメルロ・ポンティの現象学をもドレイファスから学びながら、自己解釈する存在としての人間を見る際の、五つのポイントを提示していった。

身体化した知性

身体化した知性とは、人間がデカルトの想定したような心と身体とに分離された二元的実在ではなく、「心身の統合された知性」であるということ、私たちが「身体化した知性」であるということである。

私たちは、慣れ親しんだ顔や事物を認知したり、意識的に注意しなくても姿勢を維持したり身体を動かしたりする場合にように、自分にとっての状況の意味を特に努力したり意識せずに直接素早く掴む能力をもっているが、まさにそれが「身体化した知性」というのである。

たとえば、パソコンのキーボードをブラインドタッチで打つ技能や、看護師が患者に注射したり採血したりする技能も身体化した知性によるものである。

ここで重要なのは、この「身体化した知性」は、普段うまく機能しているときには意識されない、ということである。生まれながらの「生得的身体」としての身体の能力や、生まれてから文化的・社会的に習得された「習慣的身体」の能力は、日常生活をスムーズに営んでいるあいだは、とりたてて注意を向けることはない。

ところが、疾患によってそれらの能力が、何らかの仕方で損なわれると、普段は意識しなくても、できていたことができなくなったり、手足が思うように動かなくなったりすると、「辛い」「悲しい」「シンドイ」「不安」とかの感情に支配されるという「病」状態に陥る、ということが問題となる。

この「身体化した知性」という視点は、「身体」の在り方に関するメルロ・ポンティの思想のドレイファスによる解釈から受容され、提示されたのである。

背景的意味

現象学的人間観の第二のポイントである「背景的意味」とは、「何が存在するかに関する人々に共有された公共的理解」であり、「文化によって人に誕生のときから与えられ、その人にとって何か現実と見なされるかを決定するもの」である。

「背景的意味」は、各人が生まれた国、地域、家庭などの環境によって、各人各様の経験を経てくるために、他者の経験とはズレが生じてくる。

さらに、各人も生きていくうちに当の背景的意味も次々に変容され、その度ごとにそれを受入れていくので、決して完成の域に達することはない。

そのような背景的意味の中で、人は育てられ、それを取り込み、それを生き抜いていく存在であると、ベナーは捉えている。

なお、ハイデガーの『存在と時間』には、上記のような「背景的意味」という概念はない。同書では、「意味」という概念は、「それに基づいて何かが何かとして了解可能になる、企投の向かう先」あるいは「存在を了解する際の第一次的企投の向かう先」と規定している。

しかし、ドレイファスは、ハイデガーのこの規定を、「理解可能性の背景」として捉え、「それを基礎としてあらゆる活動および対象が理解可能となり意味を成すような背景的習慣であると解説している。ベナーはこの解釈を学んで、「背景的意味」という現象学的人間観の第二のポイントの視点を形成したものと思われる。

気づかい/関心

現象学的人間観の第三のポイントである「気づかい/関心」は、人間が「気づかう能力」を持ち、つねに何か・誰かを「気づかう」という仕方で存在しているということである。

「疾患」が意味を帯びた「病」として経験されるのは、患者の気づかい/関心がの在り方と密接に関係している。というのも、その人にとって気にかかり・極めて大事に思われている関心事が、疾患によって妨げられた場合、その疾患はまさに、人生の大事な計画が頓挫し、大切な人間関係が破綻するような辛い「病」として経験されるはずだからである。

ハイデガーの「気遣い」の概念の本質的規定であるとは言い難い。しかし、ベナーにとってはおそらく、日常生活のなかでそのつど経験される物事や、それに対してどう行為するか、何を選択するかといったことがそのつど「気にかかり・大事に思われて」気分づけられている在り方が「情状性」であるというドレイファスの解釈が、患者が何かを気に欠けた病んだり、看護師にとって患者のことがどうしても気になってしまったりという、まさにベナー自身が経験してきた人間の在り方と看護の在り方と重なったことであろう。

ベナーが参照している『存在と時間』の英訳ではinvolvementがBewandtnisの訳語である。ハイデガーの本来の意味は、道具の存在の仕方を表している。しかし、適所を得ているそうした道具を、現存在(人間)が適切に用いて実践的にふるまう在り方や、さらに関心のあるものごとに実存的に「巻き込まれつつ関わる在り方」をも同じinvolvementという概念で捉えようとした。

ベナーは、これをさらに少し敷衍して、「看護師が看護のさまざまな状況に巻き込まれつつ患者に関わることに拡大して理解した。

ベナーは、実際の看護実践という事象そのものほうから、ドレイファス独自のinvolvementという概念を、看護師の患者や家族、状況への関わりをも表すものとして理解した。

患者への関心には二つの型がある。そのうちの一つは、患者の疾患が重篤で人の助けが不可欠な場合、跳び込んで引き受けるしか選択の余地はない。

しかし、この種の引き受けは、看護する側かされる側にいずれかが原因で、必要な一線を超えてしまいがちであり、そうなるとそれは支配と依存の関係、さらには抑圧にさえ容易に転化してしまう。しかもそうした支配は微妙なので、巻き込まれている当事者たちにとっても気づかれにくいとされている。

もう一つの型は、「患者がこう在りたいと思っている在り方でいられるよう、その人に力を与える」ような種類の顧慮的気遣いである。そして、これこそ「看護ケアの関わりにおける究極の目標」であると指摘するのである。

顧慮的気遣いについてのハイデガーが論述において含意されていた「他者への本来的気遣い」ーーー先に自分の死へと先駆して決意した現存在が、自分自身の姿を相手に手本として見せ、そのことで、その他者もまた自分で自分の死へと先駆して決意し、自己を本来的に気遣えるようにするーーーという要素は含みこんで理解していない。

【哲学者竹田青嗣氏によれば、ハイデガーの「本来的」という概念は、出家の人物像に偏りすぎていると批判している。こうした視点から見れば、ベナーの考え方で良いのではと思われる。】

状況

現象学的人間観の第四のポイントである「状況」とは、人間が身体化した知性としてさまざまな背景的意味を身につけ、これに基づいて気づかい/関心という在り方をしていることによって、つねに現実世界の何らかのコンテクストに巻き込まれてつつ関わることとなり、そうした関わりを、自己にとっての意味を帯びた「状況」として、感情を作った仕方で直接的に経験するということである。

デイサービスで働いているスタッフには、共働きの主婦の方が多い。

子どもを保育園にあずけることになり、保育園からケガをしたという連絡があったばあい、親にとっては、子どもが一番の気づかい/関心の的であるにも関わらず利用者さんの介護しているために、どうしても手を離せない状況となって、すぐに保育園に行くわけにはいかなくなる。

そうすると、心配という感情に捉われてしまい、いてもたってもいられない状況に巻き込まれることになる。

このように状況そのものに巻き込まれてしまうので、われわれはあらゆる行為にいつでも自由に選択できる「根源的自由」を持つ主体ではありえないという意味となります。

ケガなら連絡だけですむ可能性があるが、インフルエンザやコロナなどで発熱したとなると、子どもを家に帰すようにと強制的な命令が下されるので、デイサービスも巻き込まれるということが、しばしば発生していた。すると、誰かに、何らかのしわ寄がきて無理をすることになった。

余談になるが、こうしたことに配慮することのない人がトップにいたばあい、最悪の事態となります。何しろ、売り上げ至上主義ですから、人員配置は、その日さえ満たせばよいという感覚なので、こうして、突然欠員がでたことについては、知らぬ存ぜぬの態度となる。そのくせ、利用者が少し減ったときは、スタッフを減らせと強迫するという具合です。

脱線しましたので、本題に戻ります。

時間性

現象学的人間観の第五のポイントである「時間性」とは、ベナーによれば、単なる時間の経過」ではなく、また「通時的に配列された一連の出来事」でもなく、「過去の経験と先取りされた未来によって意味を帯びた現在のうちに錨を下ろしている人間の在り方」を意味している。

たとえば、私は、こうして、今記事を書いていますが、単に今思いつきで書いているわけではなく、過去に参考となる資料を読み込んだり、また過去に体験したことを手がかりにして文章となりつつあり、そして、近い将来に投稿するということで、誰かが、この記事を読むかも知れないことを想定している。

つまり、人間はこのように「過去から影響を受けつつ現在のうちに実存し、未来のうちへと企投されている」という「時間性」を帯びながら、物語を紡きつつ生きていく存在であるという意味となります。




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