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現代思想の現象学批判は妥当性をもつか?
竹田青嗣によれば、「現代思想において、ここ1世紀以上、フッサール現象学とその根本方法に対する疑義と批判が示されていた」と言うのです。
二十世紀の半ば以降、構造主義者たちによるメルロー゠ポンティやサルトル現象学への批判とともに、フッサール現象学は「形而上学的野望」をもつ古い哲学として深刻な地盤沈下をこうむった。
二十世紀後半は、ポストモダン思想と分析哲学が現代思想の主流となったからである。この流れの中で、現象学は、一方で実証的な合理主義の陣営から、意識主義、観念論、独我論として批判され、もう一方で、相対主義をその基軸とする現代思想の陣営から、厳密な認識の基礎づけ主義として批判されてきた。
さらに、現代の現象学アカデミズムもまた、「現象学的還元」というフッサールの根本方法に対して大きな疑義を提出している。
そういうわけで、いまやフッサール現象学は、その華々しい思想運動の歴史にもかかわらず、現代思想の主潮から、古い形而上学的哲学の遺制であるという評価を受けている。だがわたしとしては、そのような現代の現象学批判に対して〝反時代的な立場〟を取りたい。
確かに、現代思想家のデリダ、フーコー、メイヤスたちはフッサール現象学を批判している。さらに、竹田の現象学は、正統を名乗っている現象学派からは、異端だと言われている。
こうした批判の潮流となったのは、ハイデガーによるフッサール現象学の存在論的継承に起点があり、そしてこれを受けたフッサールの高弟(オイゲン・フィンク、ラントグレーベたち)の現象学理解にある、と竹田は述べる。
存在の「深さの次元」の問題、つまりハイデガー的存在問題、総じて「受動的先構成」に属する身体性の問題、「超越論的主観性」=根源的な自我の「流れ」の問題、これらのどの問題についても、どこまでも意識に定位するフッサール現象学の方法によっては分析できないとラントグレーベはいう。
フッサール現象学の根本方法を強引にハイデガーの「存在論的探求」の視点から見るかぎり、意識に定位するフッサールの根本方法の意義は決して捉えることができない、と竹田は断言する。
日本の現象学者たちも多くの場合例外ではない、という。
新田義弘、谷徹のいずれも、現象学的〈内在意識〉には、それを可能にする「生き生きとした現在」や「原意識」という先構成者があるが、後者は前者を根拠づけているのだから、現象学的「意識」はこのより根源的な「現在」や「原意識」を捉えるころができない、という議論がなされている。
この批判には、「存在」の根源を探求することが哲学の根本問題であるというハイデガー存在論の影が大きく反映している、と竹田は反論する。
しかし、「存在」の根源への探究は、ドイツロマン主義的形而上学への先祖返りを意味する。またそのような現代の現象学派に主張が、今度は現代思想から、現象学は「形而上学」であるという批判を呼び寄せる大きな原因になっているのである。
わたしの考えでは、こういった現象学解釈においては、フッサールの方法の最も重要な核心が消されてしまう。
なによりここでは、「先構成への遡行の禁止」というエポケーの中心的意味が理解されておらず、そのため、あの「認識問題の謎」の解明というテーマ、客観的独断論と相対主義を克服し、そこから「本質学」の基礎を建て直すというテーマも見失われてしまう。
フッサールの現象学的「本質学」と、その弟子ハイデガーの「存在論」とは、現代の実存論哲学の大きな分岐点をなしている、と竹田は考えている。
両者の出自は同じだが、哲学的には決定的に異なったものとなり、もはや本質的に相容れないものとなったというわけです。
竹田の他、西研、苫野一徳と極めて少数の哲学者のみがこのような視点にあるように感じていますが、この立場を支持しています。そして勉強中です。
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