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「時間の謎」について(1)

先日は、仏教と科学の時間論について記述しました。意外なことに、どちらも、時間は飛び飛びに移動するという点で一致していました。

今回は哲学者は、時間についてどのように考えているかを、竹田青嗣著『欲望論』第1巻に基づいて学びます。

古代ギリシャ哲学者ゼノンは、快足のアキレスが亀を追い越すことができない、つまり「有限の時間のうちに無限の点を通り過ぎることはできない」というロジックによって時間のパラドクスを提示した。

このようなパラドクスについて、ベルクソンは、時間を空間的に表象したからに過ぎないのだと指摘した。

アキレスと亀の一歩一歩の行為ー運動それ自体は「純粋持続」であって現実には決して分割されえない。運動を客体化し、空間化するとき時間は分割可能なものとなり、パラドックスが成立する、とベルクソンは言う。

このベルクソンの説に対して、時間を内的意識における主体的経験の本質として取り出し、これを「純粋継続」の概念で表現したことに大きな功績がある、と竹田は評価している。

しかし、純粋継続としての時間を「真の体験」あるいは「真の時間」と措定し、これに対して一般化され空間化(表象化)された時間性を仮構された偽の時間性とする二項性がある点を批判する。

一方、ハイデガーは、ベルクソンが「純粋持続」と呼んだものを明確に実存的時間として定位し、これを「時熟」の概念で呼ぶ。

「時熟」は、われわれがふつう時間がたつと呼ぶことの実存範疇としての用語である。

時間は、実存世界においては、一定の速度で経緯する均質の時間ではなく、たえざる存在可能の了解のうちで「時熟」する(時間がすぎてゆくのではなく、世界は時間化する)。

ハイデガー説について下記のように竹田は批判する。

  • 一般化された時間と実存的時間に二項化しているので、ベルクソンと同じである。

  • 実存時間は、真の時間(瞬視)と頽落した時間(現成化)、つまり本来的な実存の時間と非本来的時間といる区分を受け、この区分はベルクソンの場合よりさらに明確な理念化(あるいは倫理化)をこうむっている。

ベルクソンやハイデガーは、ともに、時間を生きられた世界に還元している点で、哲学的な時間論として重要な転回をなしとげている。

しかし、この達成にもかかわらず、ベルクソンにはその萌芽がみられ、ハイデガーではさらに推し進められる時間における真なるものと仮象なるもの、本来的なものと非本来的なものの対立性は、実存的時間の優越性を倫理的に根拠づけることで、時間の謎の本質をむしろ覆い隠している。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.589). 講談社.
Kindle 版.

実存的時間と客観化された時間は、真なる時間と仮象の時間を意味しない。むしろこの二重性こそ人間における時間の本質がある、と竹田は言う。

フッサールの『内的時間意識の現象学』の不備を補いつつ、竹田による時間の本質観取を次回に提示します。




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